女神の水鏡
◇◇ 美春 ◇◇
その日、美春は、朝からどうにも落ち着かなかった。
何が、とは言えない。
ただ胸の奥がざわざわして、息苦しいような、胸騒ぎのような感覚がずっと続いている。
理由も分からないのに、不安だけがふくらんでいく。
その様子を見ていた侍女のひとりが、気遣うように声をかけてきた。
「ミハル様、何か……、お気にかかることでも?」
すぐ傍で、通訳役のアミキスが頷き、彼女の言葉を美春へと伝える。
( あ、また “ 翻訳モード ” になってる )
と、美春は少し苦笑した。
『 えっと…… 何かってわけじゃないんだけど。 なんか……いやな感じがして 』
言葉にしてみると、ぼんやりしていた不安が形を持ちはじめる。
“ いやな感じ ”
ーーそう、それは確かに何かを知らせるような、ざらつく気配。
思わず立ち上がり、部屋の窓越しに外を見た。
そして、ふと北の方角へと目を向ける。
『 あっちの方から、なんか、すごく嫌な感じがするの 』
心がそちらを指している気がする。
アミキスがすぐに侍女へ伝えると、彼女は眉をひそめた。
「 北…… でございますね 」
その言葉に、もう一人の侍女ミューラが小さく息を呑む。
北ーーそこはヴァンドル辺境伯領のある方角。
ミハル様はヴァンドル辺境伯の元に降臨された。
もしや、辺境伯閣下の身に危険が及んでいるのでは……?
侍女達は互いに視線を交わす。
不用意に口にすれば騒ぎになる。
ミューラはそっと一礼して席を外し、大神官への報告へと向かった。
残った侍女セミルが、美春の手をそっと包むように取る。
「 それではミハル様……
女神様の御前で祈りを捧げてみてはいかがでしょうか 」
『 ……祈り? 』
「 はい。 きっと女神様がお心をお鎮めくださいます 」
そういえば……
美春は、まともに祈ったことなんてなかった。
ここ数日、 アミキスのおかげで、少しずつ言葉の壁も薄くなってきた。
自分がこの世界での自分の立ち位置が、やっと少し分かり始めたところだ。
私は “ 女神の愛し子 ” と言う立場なのだそうだ。
女神が心を寄せる存在、女神の寵愛を受けているとの事。
具体的にどういう事なのか、と聞いてみたがどうも
そのまま 「 女神様が可愛がってくれる 」 と言う事らしい。
……やっぱ良く分からない。
( ……そういえば、あの白い空間で女神様から “ わたくしの愛し子 ” って呼ばれたっけ )
セミルの言葉に従い、美春は女神像に祈りを捧げてみることにした。
部屋を移動し、大きく荘厳な女神像の前に立つ。
( この像、ちょっとあの空間の女神様に似てる…… )
もしかしたら、この像を作った人も、女神様に会ったことがあるのかもしれない。
そんなことを思いながら、像に近づく。
( そう言えば……お祈りの作法とかあるのかな?
元の世界の神社ではたしか、二回礼をして、二回手をたたいて、また礼をする、とかだった……よね? )
『 あのね、女神様にお祈りするお作法とかってあるの? 』
「 一般の民であれば、傅いて祈りを捧げる物でございますが、愛し子であるミハル様には、そのような ” 型 ” はございません。
ミハル様のお心のままに 」
( なるほど、心がこもっていれば、形は関係ないという事なのかな )
なんとなく両手を胸の前で組む。
どこか遠い場所で、誰かが無事でありますように。
その思いを、言葉にならないまま祈りに乗せた。
* * *
美春は白い空間に立っていた。
見覚えがある。
ここは、あのとき女神様と出会った場所だ。
ふと振り返ると、少し離れた場所にガゼボがあり、薄布をまとった美女が微笑みながら座っていた。
女神様だ!
「 あ、えっと…… 」
( たしか……そうだ! クレイアスは挨拶していた )
両手を前で重ね、ぺこりと頭を下げた。
「 慈愛と慈悲の女神様に、ご挨拶申し上げます! 」
《 こちらへ 》
女神は手をすっと上げて、美春を招いた。
その微笑は柔らかく、見ているだけで胸の奥が温かくなる。
女神様の傍らには、大きな銀の器が置かれていた。
お盆のような……おしゃれなタライのような……そんな形。
結構大きい器。
そこには澄んだ水が張られていて、女神はそれを指し示す。
美春がそっと覗き込む。
するとそこには、クレイアスの姿が映っていた。
「 ……! クレイアス! 」
思わず叫んだ美春の声が、空間に反響する。
けれど、その向こうに、黒い靄をまとった “ 何か ” が見えた。
ぞわり、と背筋を這い上がるような寒気。
それは、以前に見た “ 黒い触手 ” に似た、嫌悪を催すものだった。
( なにあれ…… 気持ち悪っ! )
女神は静かに水面へ手を翳した。
水の入っている綺麗な洗面器? が大きくなった。
そして中の像が近づき、黒い靄の中に女性の顔が映る。
笑っている。
……そして、その口元から黒い煙がもれていた。煙は人の顔、人の手、人の形を作っては消えていく。
「 うわ…… 」
美春は思わず一歩、後ずさった。
ただただ気持ち悪い。
見ているだけで胸が悪くなりそう。
女神の声が響く。
《 わたくしの愛し子ミハル。
そなたの片割れが、穢れに取り込まれようとしています 》
「 片割れ……?
クレイアスの事? 取り込まれるって……? 」
《 助けられるのは、そなたのみ 》
「 ……どうすれば、いいんですか? 」
《 助けますか? 》
女神の瞳がまっすぐに美春を見つめる。
ためらう間もなく、美春は頷く。
「 助けたいです! 」
女神はゆるやかに微笑を深め、頷いた。
《 ならば、こちらへ 》
女神が立ち上がり、水面の前へ進むと、白い衣がふわりと舞い、空間に残証の様な光が広がる。
《 ではーーもっとよく、ご覧なさい 》
美春は、余りの気持ち悪さに一度身を引いたが、
覚悟を決め、再び水面を覗き込んだ。
その瞬間。
映っていた女性の顔が、変わった。
口から洩れる黒い靄が全身を包み込み、
瞳が不規則に動き、そして数を増やしていく。
( なに…… 百々目鬼? 違う……! )
昔、子どものころ、妖怪図鑑を読んだ時のあの妖怪の絵とはフォルムが違う。
それよりもっとおぞましい。
目だけじゃない、口まで増えていく。
ぐにゃりと曲がりながら身体が膨張し、表面に無数の顔と手足が浮かび上がる。
いくつもの口が同時に開き、黒い靄を吐き出すたびに
その靄は人の顔を形づくっては、消えていった。
ドレスから出ている場所がどんどん膨張し、やがてドレスが破れ、人の皮膚の色と赤黒い色が混在した肉の塊がうごめき始めた。
「 ひ……っ 」
美春は息を呑み、足をすくませた。
見てはいけないものを見てしまったような、悪夢のような光景が、水の向こうで蠢いていた。




