2.気ままに、まにまに
花園町通りは松山市駅と堀之内公園を繋ぐように続いている。
かつては、老朽化したアーケードや閉店した店のシャッターが薄暗い印象を与えていた。しかし、松山市を中心とした区画整備が進み、大胆なリノベーションが行われる。歩道を広げるデザイン空間が構築され、芝生広場やデッキが設置された。
今では、広々としたお洒落な町並みとなっている。
休日は芝生やデッキで遊ぶ家族連れの姿が見られるし、様々なイベントも催されていた。また、町並みにあわせて、女性客の多い飲食店も増えている。
長年かけて整備してきた結果だ。
松山城やロープウェイ街、道後温泉地区などの観光地だけではなく、市民の生活を明るくする計画が進んでいる。
昔ながらを残しながら、新しい世代へ。
松山市の歩みを体現した風景だと、九十九は感じている。
「すみません、ありがとうございました」
結局、田道間守が落ち着くまでなだめてしまった。とはいえ、平常心に戻ったようで、なによりだ。
「田嶋さんも、電車乗りますか?」
「いいえ。私はもう一軒、別のカフェへ行ってきます。塩気を摂ったら、やはり、甘味が欲しくなってしまって」
「そ、そうですか……」
この調子だと、無限に食べ続けることになりそうだな、と、九十九は苦笑いしそうになった。
湯築屋に長期連泊している常連の天照も言っていたが、神様は基本的に食事を摂取する必要はない。もちろん、太らないらしい。便利な体質だ。
よって、彼らが食事をするのは、完璧に「趣味」ということになる。
九十九は田道間守の橘が盗まれた話が引っかかっていた。
神様は食事の必要がない。
そして、不老不死の存在でもある。いや、「死」の概念がないというべきか。
神様が消滅するのは、信仰が消え、名前を忘れられたとき。
そのときは、堕神となり、やがて、消えていく。
不老不死の霊薬たる田道間守の橘を求める必要がないのだ。
となると、意味があるのは神ではない。人間である。もしくは、狸の将崇のような妖、鬼だろうか。
しかし、田道間守に気づかれないように、中嶋神社の結界に入り、橘を持ち出せる存在が……果たして、そんなにいるだろうか。
結局、九十九は路面電車に乗って、道後温泉駅へ帰るまで同じことを考えていた。
「じゃあね、ゆづ」
駅を降りると、京と別れる。将崇も同じ方向なので、京について歩いた。
町家風のカフェや駅のスタバで駄弁ることもあるが、今日は胃にとんかつパフェが居座っている。
「やあ、稲荷の妻」
道後温泉アーケード街の入り口。
声の主は、大きなあくびをしながら伸びをしていた。黒い体毛に包まれたしなやかな身体は愛らしいが、気品もある。
「おタマ様。ただいまです」
猫又のおタマ様だ。
九十九はいつも通り、ペコリと頭をさげた。小夜子も、にっこりと笑う。
「今日の悩みごとは……稲荷神のことではなさそうだね。残念である」
「残念なんですか」
「夫婦喧嘩は犬も食わぬが、猫はそれなりに嗜むのだよ」
「は、はあ……」
おタマ様は九十九とシロの夫婦事情に関して、妙に聡い。勝手に、楽しまれていたようだ。それでも、気分が悪くならないのは、たまにアドバイスしてもらえるからだろう。
達観しており、人間には無関心そうに見えるが、おタマ様は面倒見がよく優しい。九十九は、そう思うのだ。
九十九たちを、いつも気にかけてくれている。
それも、気まぐれかもしれないが……いろんな人に支えられていると感じるのは、悪くはない。おタマ様は猫、いや、猫又だけれど。
湯築屋だってそうだ。
たくさんのお客様や、田道間守のような神様、道後温泉街に支えられている。
「あの」
ふと、九十九はちょっとした違和感が気になってしまった。
「おタマ様って、泳げるんですか?」
「吾輩が? まさか。泳げるわけがなかろうよ」
どうして、そんなことを聞いてしまったのだろう。もしくは、聞き方をしてしまったのだろう。
「そうですよね」
「吾輩は猫であるからな」
猫は水が嫌いだ。泳げないこともないらしいが、好んで泳がないだろう。
だが……なんとなく、そう思ってしまったのだ。
それは、些細なことだ。
おタマ様から、道後温泉の神気を感じたのだ。まるで、湯上がりの神様のような……その表現も、しっくりこないのだが。
「まあ、そんな日もあるさ」
おタマ様は、そう笑いながら気まぐれに歩いて行ってしまう。
いつもの定食屋である。あそこが、おタマ様の定位置であった。
「あ、クロ!」
ちょうど、定食屋から小さな子供が出てきた。小学生くらいの男の子だ。青いパジャマを着ており、顔色があまりよくなかった。
九十九があまり見たことがない子だ。
「みゃあ」
おタマ様は普通の猫と同じように鳴き、目を細める。男の子は嬉しそうに、おタマ様に近寄り、なでていた。
クロ、というのは、定食やでのおタマ様の呼び名だろう。いろんな人から、いろんな呼ばれ方をしている。
こうしていると、普通の猫だ。
「九十九ちゃん、行こうか」
「うん」
小夜子にうながされ、九十九は湯築屋のほうへと歩いていく。
坂の向こうには、伊佐爾波神社へ続く石段が見える。
もうすぐ祭りだ。
「小夜子ちゃん、今日も大変だと思うけど、がんばろうね」
「う、うん」
いつもとは、別の意味で気合いを入れる。
もしかすると、この時期の湯築屋が、一年で一番忙しいかもしれない。




