8.否違う
黄昏のように澄んだ藍色の空。
どこまでも、どこまでも続いていきそうな、その色の先にはなにもない。只々、広がるのは虚無の世界であると、結界の主たる稲荷神白夜命は知っていた。
宿屋もそれを取り囲む四季も、すべては幻。
夢から覚めれば、残るのは虚無だけだ。
窓際に腰かけたまま、その夢を見おろし、シロは指の先で串に刺さった団子をクルリと回してもてあそぶ。月もないのに、月見のために作った団子を食べるなど、滑稽だ。
けれども、巫女が自分のために用意した団子だと思うと、無碍にもできない。
「儂に義理立てしておるつもりかもしれぬが……あいにくと、儂には関係のないことだ」
団子を口に運びながら、シロは部屋の中に向けて話しかける。
すると、先ほどまではいなかった人影が忽然と現れた。
『形が変われど、我が主に違いはありませぬ』
慇懃に頭を下げる伊波礼毘古を横目で見て、シロは串団子を皿の上に戻した。此れは虚像であり、傀儡のようなもの。本体である影のほうは、別のところにいるようだ。
「儂はそなたが望む存在などではない」
『存じておりますとも』
「……そなたに恩寵を与えた主は儂ではない」
『承知しておりますとも』
シロは「はあ……」と重い息を吐いた。
やりにくい。
このやりにくさは、伊波礼毘古を相手にするときに限ったことではない。常連である天照であっても、同じであった。
皆、前提が違うのだ。
『あなた様の恩恵があったからこそ、我はこのように神として存在しております。そして、この国の今があるのです。どんなに形が変わろうと、それに違いはありませぬ。我が身はすでに捧げられております』
嫌気がさす言葉の数々だ。
「お前たちは」
つい、そのようなことを聞いてやりたくなった。
「皆揃って、主を返せとは言わないのだな」
シロは吐き出すような問いを伊波礼毘古にぶつけてやった。
それは嫌味であり、侮辱であり、最大の自嘲。そして、嫌悪に満ちていた。
伊波礼毘古に対する――否、すべての神々に対する嫌悪のようなものだ。
もちろん、その対象には発言者たる稲荷神白夜命も含まれる。
『皆、知っているのです』
だのに、伊波礼毘古は事もなげに答えを発した。
『すでにご帰還されたところで、その役割を終わっているのだと』
それは予想外に当たり前のことであり、予想外の辛辣さをはらんでいた。
『斯様なお姿になろうとも、誰も責めますまい。あなたが存在していることにこそ意味があるのです。それ以外は些事でしょう』
八百万の神々にはそれぞれ役割がある。
それは人々から求められていることであり、神の存在意義に直結した。
役割のない神などいないのだ。
それがなくなるとすれば、名と信仰を忘れられ堕神となるとき。神としての意義を失くし、消滅する瞬間だけだ。
唯一柱を除いて。
『ご健在であることを我が目に焼きつけることに意味があります。きっと、ほかの神々も同じでありましょう』
その言葉に他意はない。
伊波礼毘古の言葉はまっすぐであり、真摯であった。だからこそ、シロの耳には辛辣さとなって刺さる。
『どうか、我らに光を示し続けてくだされ。それだけが、我々の願いです――あなたにとっては、忌々しい勝手な願いやもしれませぬが』
最後に向けられた言葉を無視してやるように、シロは皿の上に置いていた団子を再び持ちあげる。いつの間にやら、伊波礼毘古の姿はなくなっており、シロは独りの空間に取り残されていた。
窓の外を見ると、幻影の彼岸花。
庭中を埋め尽くす真紅は血のようで。
されど、血は生き物の色。人はそれを不吉がるが、シロにはむしろ尊ぶべき色のように思えていた。
「役割」
串団子を一つ口に含む。
甘い。だが、甘すぎない。絶妙な塩梅の甘さであった。団子はもっちりとした弾力がある。硬すぎて歯につくこともなかった。
生地やあんこを作ったのは幸一だ。しかし、形成したのは素人のシロである。
それなのに、このように美味だと感じるのは、単に物がいいからか。
あるいは――。
「月見などと――」
空を照らす月など、久しく見ていない。
それがどういうものなのか、思い出すことはできる。シロは人が想像するよりも長い年月を生きている。けれども、云百年前の些細な出来事まで忘れることなく正確に思い出すことができた。他の神々と同じように。
だから、思い出すことができた。
眼が冴えるような蒼くて優しい光を。
ときに紅く、ときに黄色く、満ち欠けしながら、こちらを見下ろす存在を。
その光を浴びて無邪気に微笑む少女の姿も。
そして、虚無の中で月だけを見あげて過ごした永すぎる孤独も。
否違う、否違う。
此れは、儂の記憶ではないではない。
否違う、否違う。
だが、相違ない。
此れは、我の記憶である。
「……食べ足りぬ」
団子のなくなった串を指でもてあそんで、シロは独りごつ。
誰もいないことを好ましいと思いながら、誰も聞いていないことを寂しいなどと、矛盾した思考であった。




