第一三話 目覚め
そのまま夜は更けて、やがて朝が来た。
陸王は雷韋にずっと付き添いながら様々を考えていたからか、時間の進みがあっという間だった。
気付けば夜は明け初め、小鳥が小さな可愛いらしい声を発しながら群れで建物の上を飛んでいく。その影が窓から雷韋の上に落ちて、ずっと少年を見詰めていた陸王の視線が窓へ向いた。
疲れなど感じていないのに、陸王の面からは生気が抜けていた。たった一晩の徹夜にもかかわらず、目の下に薄青い隈まで出来ている。若干、頬も削げているように見えた。
空にはまだ少し紺色の夜も残っていたが、東から光が差し始めていた。雷韋の上に落ちた小鳥たちの影は、その明かりで出来たものだ。月もほとんど沈んでいる。窓から外を確認しなくても、陸王には分かるのだ。
魔族は月に影響される種族だからだ。
そう、陸王は魔族だ。人族全てにとっての天敵。魔族は人族ではない。
この街で獣の眷属が人外種と見られているように、この世界全てから見て陸王は純粋に人外種なのだ。
とは言え、陸王は魔神と堕天使を両親に持つ『魔人』なのだが。人と変わらぬ上位や高位の魔族よりも、もっと上の次元の存在だ。
人族から絶対の天敵と呼ばれるように、魔族は人族を喰らう。その中でも特に鬼族は最上の獲物だった。
陸王にとって雷韋は対であると同時に、食料でもあるのだ。無論、そんな意味で手を出すわけはないのだが、不覚にも雷韋の流す血に酔うことはある。魔に連なる者には、その芳醇な甘い香りは堪え難いものがあった。
しかし陸王は、これまで人族を喰らったことは一度もない。喰らうという発想すらなかった。傭兵と同じに陸王は雇われ侍をしていたことから、戦で雇われて人を殺すことはあってもそのときの血臭でおかしくなったこともない。人を殺す瞬間に楽しさを感じることはあっても、魔族の本能に引き摺られて人肉食いをしたことはなかった。血臭渦巻く戦場にいても、やはり人の肉を喰らうという発想は湧かなかった。
唯一、雷韋の血の匂いにだけは酔わされることがあるだけだ。
通常、魔族はそのほとんどが破壊、食欲、性欲の衝動で動く。狂気で生きる、本能の生き物だからだ。その本能を月が刺激する。満月の夜には、魔族は最も己の力を引き出すことが出来る。逆に新月で月のない晩は、下級の魔族は本能的に萎縮して物陰に隠れてしまうこともあるが、理性のある上級の魔族は理性の効きが最もよくなる。
陸王も魔に連なる者だから、新月の晩は一番心安まるのだ。下弦の月も、徐々に陸王の中の本性を鎮めてくれる。
そもそも彼は、満月が好きではない。上弦の月そのものが嫌いだ。己の中で魔族の性が蠢き出す。その感覚が嫌なのだ。だからと言って、衝動的に誰かを傷つけるようなことはないが、心のどこかで落ち着かない自分がいるのも確かだ。
そして、雷韋が陸王の場所を特定出来るあの能力は、陸王が魔人だからこそだ。対で、魂の形が合致してはいるが、僅かに陸王の魂には歪みがある。魔の殻を被っているからだ。その歪さが、精霊使いであり感応力の高い雷韋には陸王の感覚として感じられる。雷韋自身は『気配の匂い』と言うが。この街では闇の精霊が人々の欲望の念を増幅して存在させたことで、雷韋は陸王の感覚を追うことが上手く出来なかった。全ては闇の精霊のせいだ。
昨夜は下弦の月だったが雷韋のこともあり、陸王は酷く苛ついた。雷韋が危険な目に遭っているかも知れないと知れた途端、陸王の中はがらんどうになったが、それを追うように純粋な黒い感情が芽生えた。その感覚に引かれるようにして、陸王は央華の邸で暴れたのだ。盗賊組織に引き渡せばよかったかも知れない男達を斬ったのがその証左だ。
雷韋を護りたい、取り戻したいという思いと共に、破壊の衝動に突き動かされた。だから一階にいた下男達を斬ったのだ。多少の溜飲は下がったが、完全に溜飲が下がったのは、雷韋を取り戻したあとだった。邸も崩れてなくなったことも大きい。その事実にも、溜飲が下がる思いだった。これで二度と、獣の眷属の売買が出来なくなったためだ。
陸王は空が明けるのを眺めて、長い溜息をついた。それからもう一度、雷韋の方へ視線を戻す。額にも首筋にも汗を掻いているままだ。夜中中、丁寧に拭ってやっていたが、すぐに汗が滲み出してくる。
陸王は雷韋の額を拭ってやってから、なんとなしに額に手を置いた。すると、少し熱っぽかった。呼吸は乱れていないが、阿片の影響で熱を出したのだろう。雷韋の場合、何がどうなって薬が効くか分からないからだ。熱冷ましの薬だとしても、人ひとり分の半量でいいくらいだ。それ以上だと、中毒を起こすと雷韋から幾度か聞いていた。
そんな雷韋に麻薬を使われてしまったのだから、発熱したとしてもおかしくはない。それに発熱しているから余計、汗を掻くのだろう。目が醒めたときに水を欲しがるはずだが、それは既に昨日のうちから準備していた。
それよりも、昨日からずっと汗をかき続けていることをこのまま放っておいていいかが悩まれる。雷韋がこのまま大人しく眠っていてくれるなら、飲ませることは可能だ。上体を起こして、グラスから少しずつ飲ませるのだ。
それを思い立って、陸王はすぐに行動に移った。グラスと水差しは卓の上にある。
陸王はまずグラスに半分程度、湯冷ましの入った水差しから水を注ぎ入れた。そのグラスを持って寝台まで戻る。昨日から椅子は二脚寝台のそばに置いているのだ。その片方にグラスを置けばいい。
準備を整えると、陸王は寝台に腰をかけて雷韋の上体を抱き起こした。背中側から抱くようにして、腕の中に収める。そうすると、雷韋の身体が火照っているのが嫌でも感じられた。思わず眉根が寄る。知らず、また溜息まで漏れた。
雷韋がいなくなったときにすぐに気付くべきだった。いつものように、すぐに追いついてくるかと放っておいたのがいけなかったのだ。それさえなければ、雷韋はこんな状態になっていなかった。
雷韋の少し高い体温を感じつつ、そんな後悔が今更のように湧き上がってきた。
苦々しい思いに囚われつつも、陸王は雷韋の顎を持って少し上向かせた。唇を指先で突くと、少し開く。その隙間から、最初は少し湿らせるくらいの水を与えていったが、そのうち、一口の半量ほどを口内に流し込んでやるとごくりと飲み下すようになっていった。噎せる様子はなかったので、半量分を口に流し込んでいくと今度は雷韋の目がうっすらと開かれた。
「気が付いたか?」
静かに問うと、雷韋は一度唾を飲み込む様子を見せてから改めて口を開いたが、声は聞こえてこなかった。ただ唇は、『陸王』と動いたように思う。声を出す力もないのだろう。それでも雷韋の琥珀の瞳は虚ろに陸王を見ていた。陸王の腕の中から逃げる力もないようだ。それどころか、腕の中に収まる気配を見せたほどだった。
完全に陸王に身を委ねている。
「喉が渇いているだろう。水だ」
言って、グラスを雷韋の唇に当てると、素直に水を飲み始めた。グラスの水を飲み干すのにそれほど時間はかからなかった。
「まだ欲しいか?」
問うと、雷韋は頷いた。
陸王はグラスを椅子の座面に置くと、雷韋の身体を引き上げて背中に枕を挟んで起こした状態で座らせる。が、すぐに均衡を崩して倒れ込んでしまう。きちんと座らせるのにも苦労した。身体に力が入らないのだろう。これなら陸王の腕の中に収まろうとするのも無理もない。
それでも試行錯誤してなんとか座らせると、陸王はすぐに水を用意しに行った。しかし陸王はグラスに水を注ぐのではなく、グラスは座面に置いたまま水差しを持って戻ってきた。一杯や二杯ですむまいと思ったからだ。
戻ってきて、もう一杯水を注いだグラスを雷韋に手渡そうとするが、両手を出して受け取ろうとする雷韋の手がぶるぶると震えているのに気付き、陸王は渡すのを諦めてグラスの口を雷韋の口元に持っていった。それでも雷韋は、陸王の手に添えるように震える手で支えてから水を飲み出す。
飢えるように水を飲み始めた雷韋を、陸王は宥めた。
「そんなに焦って飲まなくても大丈夫だ。逃げ出したりせん。慌てると噎せるぞ」
言った傍から雷韋は噎せた。
陸王はそんな雷韋に、仕方ないなとでも言う風に苦笑いを浮かべながら、噎せて丸まった背中をさすってやる。
「陸王、俺……」
噎せる中から、ようやく雷韋の声が聞こえた。
その後に続く雷韋の声は途切れがちで、それでも攫われてからあと、何が起こったかあまり覚えていないということだった。気が付いたときには頭の中には霞がかったように薄ぼんやりとしていたが、そんな中でも気付いたことは、何か沢山の声が頭の中に響いてきたことだという。それは精霊の透き通った声とは違って、欲で満ちていたというのだ。いや、何かの精霊の声は濁って聞こえたとも言う。雷韋の説明を聞いている限りでは、闇の精霊のことを思い出させた。
央華の別邸を中心にして、街全体を覆っていると言う闇の精霊。
それが雷韋の耳に忍び込んだのだろうと思う。雷韋自身もあのとき言っていたからだ。やっと分かったと言って。
そのあとの話の続きでは、陸王が助けに行ったときに守護精霊である火の精霊を渡してきたことも、陸王の刀に光の力を与えたことも記憶にないと言う。
だから陸王は、自分の知っている限りのことを話してやった。雷韋がいなくなってからのことから、見つける間のことも。当然、央華の邸に行って、雷韋の力を借りた上での邸倒壊のことまで全て。
雷韋本人は覚えていないこともあろうが、だからこそ話したのだ。何が起こったのか知りたそうにしていたせいもある。
雷韋は陸王の説明に、少し考え込んでいた。己が魔術を使ったことだけでも思い出そうとしているのだろうか。
話を聞きながら自分の腿辺りに視線を落としていた雷韋だったが、考え事が終わったのか、顔を上げて陸王と目を合わせてきた。
その様子は酷く気怠げだったが。
「魔と技の法則を使ったのか、俺」
「あぁ。なんでも、強い力を発現出来るとか言ってな。実際、地下の何かを斬ったようだったが」
「そっか……。闇を斬ったんだな、きっと」
言って頷くと、再び視線を落とした。
その様子に、陸王はどうかしたかと尋ねた。尋ねられた方の雷韋は、力ない小さな笑みを見せる。
「なんてぇか、俺って、つくづく魔導士なんだなって。覚えてないけど、ちゃんと魔術使おうとしてるのが、なんかおかしくって」
「そりゃ、生まれながらの精霊使いなんだろうが、獣の眷属は。魔術に秀でていて当然だ。だが、魔と技の法則ってのは一体なんだ?」
「うん、そうだな」
雷韋は目を閉じてゆっくりと唇を開いた。




