第三部
「エイジ」
口から名前が零れると、テーブルが曇った。
「なぁに、ルナ」
返事をしてくれたその声は、今でも愛おしい。
「…エイジ」
「ルナ」
「…好き」
「知ってる」
「エイジは?」
「さぁ」
そこで、好きだと言わないのが、エイジの優しさと残酷さ。
「エイジ、好きだって言ってよ」
「何で。お前、ミズキさん愛してるんでしょ」
「…まぁ、多分、好きだと思うよ」
「じゃあ俺に好きだって言ってもらわなくてもいいじゃん」
「…私のこと、好きじゃないの?」
「さぁね」
「…私、自惚れてることがあるんだ」
脈絡のない切り出し方のように思えて、そうではない。だから、エイジも茶化さない。
「エイジが私をフッたとき、もう好きじゃなくなったって言ったけど。きっと、本当は私のことが好きで、バンドやり続けたいから、将来どうなるかも分からないから、結婚ってものが見えてくる前に切ったんじゃないかって」
「つまり?」
「…私のことが好きとか嫌いとかじゃなくて、安定して養えるようになるか分からないから、結婚しても養えないかもしれないから、だから、結婚ってものがチラつく年齢になる前に、フッたんじゃないのかなって」
酷く自惚れた妄想だ。でも、エイジは笑わなかった。
エイジに振られた、大学4年の夏。就職が決まったと、報告した矢先の出来事。無事に決まったよ、と。そう言った私に、エイジは笑ってくれた。おめでとうと。ルナなら大丈夫だと思ってたから、って。
そして、名刺入れをくれた。社会人のお祝いに、と。黒い名刺入れで、外見はシンプルでユニセックスに見えるけど、内側は綺麗な鮮青色で、花の刺繍がされていた。
そんなプレゼントを私が開けたと同時に、切り出された別れ話。
別れ話を切り出される、そんな気配なんてなくて、一瞬、言われたことが理解できなかった。どうして、と訊いた。エイジは、もう好きじゃないから、とただ一言そう言った。じゃあなんでお祝いくれたの、と。そう訊くと、頑張ってるのを一番近くで見てたから、と。それだけ。
私の問いに対する、答えになっていないエイジの答え。
それが分かっていながら堂々と“答え”だと宣言するエイジと、それに反論できるほど頭を回せなかった私。
エイジと付き合った3年間。大学時代の恋は全てそこにあった。下手をすれば、初めて知った愛おしさが、そこにあったのに。それは、一瞬で終わった。
あれから、もう5年経つ。私は、入社して間もなく付き合い始めたミズキと結婚する。エイジは、大学時代からのバイトを続けながら、バンドを続けている。作詞作曲、そしてベース。私は、エイジの声も好きだったけど、エイジはボーカルになる気はないと言った。その理由は知らない。
エイジがその一面を奏でる、エイジの世界が詰まった歌を、聴くのが好きで、ずっと聴いている。仕事がなければ、ライブにも行く。エイジは決して私を特別扱いしてくれないけれど。それでも。
「…違う?」
何も答えないエイジに、私は畳み掛ける。こんなこと、無駄だと知ってるのに。
エイジは、微かに笑った。
「さぁ」
やっぱり、答えてくれない。仮初の優しさでもいいんだと言ったばかりの私に、仮初の優しさを見せてくれる、そんな優しさはエイジにはない。
私が惹かれた、エイジの優しさと残酷さ。
「…そういうとこ、嫌いだった」
「そう」
「…でも、好きだよ」
「そう」
「…新曲、良かった。このタイミングで失恋歌とは思わなかったけど」
「そりゃよかった」
「最近失恋でもしたの?」
「さぁね」
「恋人できたの?」
「いや。ルナが、最後だよ」
でも、時折その残酷さを貫けないエイジ。くしゃっと、泣くように笑ってしまった。
けれど、涙は出ない。涙を出すことに、将来の夫への背徳感を感じるから。
「早く恋人作ってくれないと、諦めきれないじゃん」
「何で。お前結婚するじゃん」
「エイジと不倫したくなっちゃう」
「お前がそんなことできない性格だって知ってます。つーか俺も、バンド売れるまで恋人作る気ねぇし」
「だから私もフッたの?」
「さぁね。…もっかい訊くけど、辛いことも言えないミズキさんと結婚してやっていけるの?」
エイジはニヒルに笑った。性格悪いよ、と前置きして、私は笑った。
「やっていけるよ。だって、ミズキが本当に私のことを大事にしてくれてるんだって、知ってるから」
辛いことがあったときに、真っ先に浮かぶ相手は、ミズキではない。
何かイヤなことがあったときに、相談する相手は、ミズキではない。
頼りたいと思う相手は、ミズキではない。
それなのに、私とミズキが4年間付き合えて、結婚してもやっていけると思う理由。
「連絡断ち切るほどの喧嘩したの、初めてって言ったじゃん」
「うん」
「多分ね、今回こんな大きな喧嘩になっちゃったのは、私がミズキに不誠実だった罪悪感からだと思うんだ」
「演技したっていう、最初の話?」
「うん。…ミズキは、私に誠実で。いつも味方してくれるわけじゃないけど、嘘で誤魔化すより本当で傷つける、そういう誠実さがあるって、知ってる」
「ふぅん」
「私達は多分、そういう誠実さがあれば、やっていけるんだと思う」
「なんで?」
「…4年間、小さな喧嘩しながらも別れ騒動にまでならなかったのは、お互い誠実だったからだと、思うから」
「そう」
淡々としたミズキの相槌。先に言い訳を切り出した。
「なんか、幼稚かなとは思うの」
「誠実って言葉を繰り返すことが?」
予想通りの言葉だった。先に言い訳しようとした私の心を見透かすように、補われた主語。
「…うん」
「幼稚っていうか、お前にしちゃ珍しいな」
「…そうかもね」
でも、事実だと思う。
「まぁ、でも、お前がそう思うなら、いんじゃない。離婚したくなったら、相談する相手はいくらでもいるだろ」
「そうだね、目の前とか」
「俺はただ詞書いて曲作ってベース引いてるだけですから。あてにしないでください」
そう言いながらも、きっと、エイジはこれからも相談に乗ってくれる。そこも、貫ききれない残酷さだと、思う。
ミズキと付き合い始めてから、まだいるかいないか分からない、エイジのバイト先に顔を出して。エイジがいるのに、何でもない顔で接してくれるから、それに甘えて、今でも行きつけの、このお店。客が少ない月曜日と木曜日に、私は一人、カウンターに座ってエイジを独り占めしてる。
もうフラれてるのに、結婚する恋人がいるのに、敢えて元彼に相談しにくる私を追い返さない、エイジ。
「エイジ、好き」
「知ってる」
「エイジは?」
「さぁ」
この問答が終わることがあるとしたら、私が完全にエイジを諦めきった時以外ないと思ってた。そう思えるほど、ふとした瞬間のこの問いかけを、エイジは答えになっていないこの答えで、4年間流し続けた。
「ねぇ」
「ん?」
「俺に好きだって言い続けることは、ミズキさんへの不誠実じゃないの?」
ん、と、私は少し考えたけど、あまり悩まなかった。
「不誠実じゃ、ないよ」
「何で? 浮気じゃないの?」
「ミズキはミズキ。エイジはエイジ」
「なんじゃそりゃ」
「ミズキはね、恋人なの。これから結婚するの。愛を誓うの」
「じゃ、俺は?」
「エイジは、愛してる」
「じゃ、俺のほうがミズキさんより上じゃん」
それって不誠実じゃん、とエイジは言うけれど。
「でも、私、本気でエイジのこと愛してたもん。一回本気で愛した相手を、そう簡単に愛せなくなるわけないじゃん」
私にとって、それは、不誠実ではない。
私は、狡いのかもしれない。
誠実であり続けたと、これからもあり続けると、ミズキに対して言っているのに、エイジを本気で愛してると、今でも平気で心底告白する。ミズキにできない、悩みも愚痴も相談も、エイジにだけはする。恋人であるミズキの合理性について、昔の恋人であるエイジに、愚痴を零す。ミズキには早々囁きすらしない陳腐な愛の言葉を、エイジには押し付けるほどに吐き出す。私の心は浮気していると、ともすれば言われてしまうだろう。
「まぁ、その言い分は分かるけど。愛してる人が2人いていいの?」
「いいじゃん。ちょっと、愛してるの種類が違うんだよ」
「種類?」
「ミズキが浮気したら怒るけど、エイジに浮気なんて成立しないよ」
ただ、私はエイジを愛しているけれど、私の中で明確に、私が引いたその線。
「私は、ミズキを愛してるよ。だから、キスもハグもエッチも、ミズキとしかしない。私はエイジを愛してるけど、エイジとはキスもハグもエッチもしないよ」
「それ、愛してるの種類が違うのか、お前の中のギリギリな倫理観なのかーー“誠実”なのか、分かんないね」
「そうだね。私もよく分かんない」
「自分で言ったくせに」
「だからさ、エイジ。これからも友達でいてよ」
その線がある限り、私は絶対、エイジに恋人関係を求めないから。
そして、その線は消え得ないから。
エイジは苦笑した。
「当たり前じゃん」
カシオレを飲み終わった私に、エイジはグラスを指差した。
「何か飲む?」
「ん、いい。もう帰るよ」
「今日は早いな」
「うん。電話かかってるから」
スマホを見て笑った私に、エイジは笑った。
「連絡断ち切ってないじゃん」
「電話なんてしない私達が電話で連絡を取り合うなんて、よっぽどのことなのです」
「相変わらず、恋人だからってイチャイチャしないんだな」
「うん。必要性を感じないからね」
よいしょと、私はバッグを立てて、財布を取り出した。その視界に、エイジの手が割り込んでくる。
「いいよ、俺につけとく」
「いいの?」
「うん、御祝儀代わり」
「え、それはちょっと安すぎでしょ」
「バンドマンは金がないのです」
「結婚式の招待状、ちゃんと出すからね」
「元彼なのに?」
「今はただの友達じゃん」
「そうでしたね」
じゃ、ごちそうさま、と言って立ち上がる。エイジは私のグラスを回収した。
そして、また笑う。
「ルナ、結婚おめでと」
本当は、もっと哀しそうに言ってほしかったけど。
「ありがとう、エイジ」
どうせ、そんなの期待しても無駄。
「最後くらい、好きって言ってくれない?」
「折角説教垂れてくれたんだ、俺もお前には誠実であろうと思うよ」
「なにそれ、別にエイジに求めてないよ」
はは、と渇いた声で笑った私に、エイジも笑って、ふと、息を止めた。
「──愛してるよ、ルナ」
──パチパチと瞬いた私の目と、まるで恋人を見るかのように愛しげに細められたエイジの目との、視線が絡み合った。
「一回本気で愛した相手を、そう簡単に愛せなくなるわけないだろ?」
──なんだそりゃ、って言いたかった。
けれど、そんな言葉で茶化して誤魔化して、それが酒のせいだと言い訳できるほど、今の私は飲んでない。
代わりに、私がエイジに求めた、泣き顔で笑う、そんな所業をやらかした。
「馬鹿だな、エイジは」
「何が?」
「私の隣でバンド続ければ良かったのに」
「女に養われるなんてイヤなのです」
「そんな変なプライドより、私を選んでくれればよかったのに」
「譲れないプライドってのはあるのよ」
「エイジのそういうとこ嫌い」
「でも愛してるんでしょ」
「うん」
いつに戻ったって、私とエイジのやり直しなんてきかない。それは、間違えたところなんて一ヶ所たりとも存在しないから。
ーー私は、エイジの口から、嘘でもいいから、私を「好き」だと引き出したかった。エイジと別れて5年間だ。それなのに、エイジは笑うばかりで決して何らの答えも出さなかった。それは、別に恋人がいる私に対する優しさとと、エイジとの別れに区切りをつけられない私に対する、残酷さ。それがどうして今になって、望みを遥かに超えた言葉を囁いてくれたのか、分からない。
けれど、その理由が、私がこれから結婚するからだというのなら、いいと思う。
「愛してるよ、エイジ。ずっと私の大事な人だよ」
溜息をつくように、吐き出した。嘆息。
その言葉に、エイジは微笑んだ。エイジが微笑んだときの、優しく光るその瞳の色が、好きだった。
「知ってるよ」
今まで何度となく繰り返された問答と、外面は同じはずなのに、中身は違って聞こえるのは、どうしてだろう。
「結婚したら、もう、二度と言わないよ」
「うん」
「愛してる」
「うん」
「本気で愛してた」
「うん」
「…ばいばい」
「ん、またな」
でも、やっぱり気のせいだったのだろう。別れを告げたエイジの声はいつもと変わらなくて、どうせまたすぐ来るでしょと言わんばかりだった。そういうところが、嫌いで、好きだった。
──さよなら、エイジ。
お店を出ると、カウンターにただ一人いた客に向かって「ありがとうございましたー」と挨拶をする、エイジの声が聞こえた。飲食店舗独特の、扉に対応した鈴の音が収まる頃、私は漸く不在着信に応える。電話の向こうから、心細げに私の名前を呼ぶミズキに、少し笑った。
「今から帰るよ。うち来る?」
エイジのことを、ミズキは知らない。エイジが一方的に、私の声を通して、ミズキを知っている。この状態は、きっとこれからも変わらない。
明るくなったミズキの声に、悪戯を許された子供を見るような気持ちで笑いながら、エイジのいる店を背に、歩き出す。
エイジが、最後に答えてくれたのは、もう二度と、私がエイジに問いかけることはしないと分かったからだろうか。今更別れることなんてできないと、結婚を前向きにきちんと決めたんだと告げた私が、もうエイジを求めないと、そう確信したゆえの言葉だったのだろうか。
分からない。そして、きっとエイジに訊いたところで、また新たな問答が始まるだけだ。
ミズキとの通話を終えたスマホをバッグに放り込んで、新たな問いかけを抱えて、笑いながら溜息をつく。
もう、エイジに答えを求めることはできない。そう知りながら、答えることで問いかけを残したエイジは、結局、優しくて、どうしようもなく残酷だ。
そうして、私とエイジの長い問答は、終わりを告げた。
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さよなら、エイジ。
声に出したか出してないか、きっと自覚してない彼女の最後の言葉を脳内に反芻させて、笑ってしまうのは、愛してるから。
ずっと、俺は狡かった。好きだよ、好きだよ、そう繰り返す彼女に、相槌を打つだけにした。それに対して答えは返さない。いつまでも好きだと言ってくれるのが心地よくて、その心地よさに埋もれた。
エイジ、エイジ。
そう呼ぶ彼女の声が好きだった。聞き続けたかった。
でも、その声はもう、俺のものにはならない。
そして、きっと、それでいい。
俺達は何も間違ってない。だからやり直しなんてきかない。
俺達の問答が終わってたのは、本当は、もっと前。
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私は君を、僕は君を、愛してる。
だから、君に愛を語るのはもうやめよう。
私は君を、僕は君を、幸せにしないから。
でも、どうか、忘れないで。
君を愛してる私を、君を愛してる僕を。
────────
FIN.




