第一部
「あー」
喉の浅瀬から出たような奇声。罷り間違っても27歳OLが外で発する声ではない。
現に、カウンターを挟んで目の前で生ビールを飲む男は苦笑した。
「お前、仮にも女だろ。やめろ、んな声」
「仮にも、なんて言わないでください。しっかりと女性ですよ、私は」
現にカシオレなんて可愛いもん飲んでるじゃん、とぼやくと、はいはい、と苦笑された。
「なに、また仕事でやなことあった?」
「ん、いや、仕事っていうかね。彼氏と喧嘩したんだわ」
「また?」
「また、じゃないよ。初めてだもん」
彼はまた苦笑する。
「初めてじゃないだろ。そりゃ、あんま喧嘩してないのは知ってるけど」
「初めてだよ。こんな本格的な喧嘩」
「本格的なの?」
「うん。全部連絡断ち切ったのは、初めて」
カウンターに置いたスマホの、アプリを起動する。彼氏の名前が上部に表示されたその画面の下部――メッセージ送信欄には、「ブロック中」という灰色の文言が浮かんでいた。
それを彼に見せて満足したから、私はアプリを終了した。
「と、いうわけですよ」
「何も伝わらないんですけど?」
「そりゃ、言い争いになったことが一度もないわけではないですけども。そういう時、必ず私が喚き散らして、ヤツがごめんねって謝って終わりだったわけですよ」
「ふむふむ」
「それがまぁ、いい加減にしてってなって、数日間連絡を取ってないというのは初めてなのですよ」
「なるほどね」
それで“本格的な喧嘩は初めて”なのか、と、頷かれた。うむ、と私も頷いた。
「なんか、最近さ。悪いことしちゃったんだよね、私」
「浮気でもした?」
「ううん。セックスで演技したの」
ゴボッ、と、喉で液体が奇妙な音を立てたのが聞こえた。彼は苦しそうに咳き込みながら、慌てて別のグラスに水を注いで、口にそれを流し込む。
じぃっとその様子を見ていると、彼は咳き込みながら睨むように私を見た。
「お前…何、言ってんの?」
「はは。私もまさか、外でそんな単語出すようになってるとは思いませんでした」
渇いた笑い声を枕詞とした私を、ヘンなものでも見るような目で見つめる。まだ、咳き込んでる。
「その通りだよ…お前の前じゃおちおち小学生レベルの下ネタも吐けないってのが共通認識だったのに」
「今でも同じよ。でもね、だって、相談するのに、単語出さないでふわっと説明し続けることなんてできないでしょ」
「…そりゃそうですけどもね」
男から見た私は、清純というより、きっと堅物に近かった。小学生レベルの下ネタにすらついていこうとせず、顔をしかめるか、聞かぬふりを決め込むか。
飲み会でもそうだった私が、まさか、ね。
自分でもびっくりだ。こんな話を男にするなんて。
──女性の何割かが演技をしているという話は聞いたことがあった。けれど、その話を知った時、私にはなんでそんなことをするのか分からなかったし。分かる時も来ないと思ってた。
それが、まさか、ね。
「…その話、俺にしていい話?」
「アンタにしかできないもん」
「そーいやお前、友達いないんだっけ」
「はは、まぁね」
渇いた笑いを漏らす。
いつからだっただろう。何か相談があると、コイツのとこに飲みに来るようになったのは。何か嫌なことがあっても、女友達には相談できなくなったのは。
別に、友達がいないわけじゃない。お昼を一緒に食べるとか、一緒に遊びに行くとか、そういう女友達が全然いないわけじゃない。ただ、どうしてだろう。イヤというほど心が辛くなったときに、相談できないんだ。
その理由は、ただ単に私が自分を“作り”続けてきたから。
高校の頃からの友達は、本当に仲の良い友達。今でも休暇が合って実家に帰ってるときとか、ふらりと飲みに行ける。高校の友達に、自分を取り繕うなんてしなかった。取り繕えるほど、私は“賢く”なかった。
大学生になって、“正直が良い”わけではないことを知った。私はあまりにも子供だったのだと、気付いた。
そうして、取り繕ってできた女友達に、心からの悩みを相談できるわけがなかった。
全て、自分が招いたことだ。
──私は、友達が欲しかった。
それをずっと思っていた私は、“心から悩みを相談できるか否か”なんてことは考えてなかった。それが浅はかだったのか否か、私には分からない。
ただ、私の素が、緩やかに無難に友達を作ることに向いてないことは分かっていた。
──私は、合理主義者だ。
なぜ、言われなくても仕事をしようとしないのか分からない。それどころか、なぜ言われてもできないのか分からない。
口を開けば彼氏の悪口をまくしたてるしかないのに、なぜ別れないのか分からない。
優先順位は決まってる、それなのになぜ順位通りにできないのか分からない。
私よりお勉強ができるのに、なぜ私より仕事ができないのか分からない。
──私は、所謂、“変な人”だ。
だから、気が合う友達がいないとは言わないまでも、本当に気が合う友達は少なかった。そして、どうしてか、私の周りにはふわりふわりとした女の子が多かった。
私が取り繕う羽目になったのは、そういうわけだ。
誰も悪くない。私の友達は、誰も悪くない。悪いとしたら、私の性格なのかもしれない。けれど、取り繕い続けたところで、それはあくまで“虚構”であり、“私”そのものに成り代わることはできなかった。だから、友達ができるように取り繕い続けていると、悩みを相談できる友達などできなかった。
それは全て当然の結果であった。だから、責めることのできる相手などいないのだ。