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故 勇者




 暗い洞窟を静寂が支配する。だが暗く密やかな地下迷宮にあっても、勇者エルザは朗らかさを一片も失いはしなかった。


「ふう……あー、危なかった!」

 脳天気な言い草が燗に障ったらしく、魔王は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

「このド阿呆め! 危なかったどころではないわ! もう少しで、しっ、死ぬところだったのだぞ!」

 かつての世界において、彼が脅かされる事は殆ど無かった。人生におけるピンチベストファイブは、軒並みこの数週間に集約されている。しかもこの地下空洞に落ちてからの危険指数は歴代一位。二番以下を大きく引き離した堂々たるランクインである。特に振り下ろされる巨石の剣を潜り抜けた時には、死神が自分の頬をひと撫でして通り過ぎていったような錯覚まで覚えたものだ。

「えー? あんなの普通でしょ」

 勇者はのほほんと答えた。それもそうだ。生まれ育った平和な村を立ってから、たったの一年で魔王の前に立つのは並大抵の事ではない。その日々は困難と危機の連続で、この程度のピンチなど日常茶飯事であった。今さら大騒ぎするような事でもない。

 この年若い少女は途方もない数の「死ぬかもしれない」を乗り越えてきた。その事に思い至った魔王は、なおも言い募ろうとしていた怒声を、口外に放つ事なく飲み込んだ。そしてドッと疲れたように肩を落としてため息をついた。

「貴様にまともな感性を求めるだけ無駄のようだな……さて、こんなところに長居は無用。さっさと行……おい貴様、何を考えておる?」

 質問しながらも、魔王はその正答を既に持っていた。エルザの好奇に満ちたキラキラ輝く瞳が、奥の壮麗な扉に向けられている様子を見れば、誰にだって分かるだろう。質問の形式をとって、言外に「あの扉を開けてみようなどという無用な危険を冒すつもりなら止めておけ。我は断固として反対だ」という台詞を忍ばせたのだ。

 その意図に気付いているのかいないのか――多分にして気付いていない――少女は猫を殺すとも表される心理作用を隠そうともせずに言った。

「ねえねえ、あの扉の向こうは何があると思う?」

「そうだな、精々がところ金銀財宝が眠っているだけではないのか?」

「もー、君はロマンってものが分かってないね。真銀の大鉱脈だとか、古代神殿だとか、何千年も拘束された悪魔侯爵だとか、そういった発想は無いのかね」

「貴様こそ、人の発想力にケチをつけられた身か。今言った全部、単に貴様が体験した事を羅列しただけだろうが」

「うん、まあそうなんだけど……とにかく! あの扉の向こうで凄い事が待ってると思うの!」

「声を張るな、喧しい奴め。行きたければ一人で行け。ここは間違いなく出入り口ではないし、下らん好奇心で危険な目に会う愚を侵すつもりは無い」

「えーっ。だって地上に転移させてくれる魔法陣とかあるかもしれないでしょ? ダンジョンの一番奥にあったから、私よく使ったもん」

「あれは我のような要人が地下迷宮や砦を査察した時に敵襲があった場合を想定した、緊急脱出用のものだ。貴様のような下賤が、歩くのが面倒だからとみだりに使うでないわ」

「とにかくっ。行ってみよう。どうせ帰り道なんて分からないんだし」

「……」

 確かにその通りだった。また、迂闊に勇者の単独行動を許した場合、その運命力を遺憾なく発揮して厄介ごと――マリーベルが言うところの「イベント」が起きる可能性は無視できない。

 しかもこの勇者の意志力ときたら、どんな英傑でも適わぬほどであり、こうと決めたら魔王の奸智を以てしてもそれを曲げさせる事はできない。

「……どうせ鍵が掛かっておる」

 渋面を作ったまま、魔王は最後の悪あがきをした。

「大丈夫、大丈夫。門番がいる所って、鍵なんて掛かってないんだから」

「……」

 エルザの経験上、鍵が掛かっているとしたらダンジョンの入口か、そうでなければ最後の関門の一歩手前である。


 エルザはウキウキしながら扉を押した。

 しかし頑丈な扉は重く、固かった。確かに鍵は掛かっていないようではあったが、エルザが力いっぱい押してもなかなか開こうとはしてくれない。

 顔を真っ赤にしながら全身全霊で押し続け、しばらく経ってからついにヘナヘナと崩れ落ちた。

「ちょっと……黙って見てないで……手伝ってよ」

「ふざけるな」

「中で何か見つけたら半分あげるから」

「そのような即物的な交渉が、やんごとなき我に通用すると思ったか」

「この干し肉もあげるから」

「貴様! どこにそんな物を隠し持っていた!!?」

「ベルトポーチ」

 小腹がすいたときにおやつにしようと、こっそり忍ばせておいたのだった。

「ぐぬぬ……」

「駄目かー……」

「わー! 待て待て!」

 しょんぼりしながら干し肉をベルトポーチに仕舞おうとしたエルザを、魔王は大慌てで制止した。

 実のところ、彼は空腹に弱かった。慣れていないと言うべきか。王侯貴族として生まれ育った者の中で、それはそう珍しい特性ではない。

 何かの事情で一食抜くくらいは経験があるが、殆ど丸一日の間何も口にしないのは初めてだった。

 過度のストレスにより、彼の精神は既に極限状態である。魔力が残っていれば、食糧を奪うための殺しをも辞さなかったに違いない。平時であればそんな事するくらいなら飢えて死ぬと豪語するだろう。もちろん良心の問題などではない。そんな野盗の真似事など、王者のプライドが許さないのだ。

 しかし、今やそのプライドはどこかに消し飛んでいる。

「そんな卑しい駆け引きしかできんとは、心の底から哀れな奴め。慈悲深き我は見るに耐えん。仕方なく、やむなく、不承不承手伝ってやる。あー不本意だ」

 もの凄い早口でそう言うと、エルザの手からその小さな干し肉をもぎ取り、驚嘆すべき素早さでそれを口に放り込んだ。

 まどろっこしい言い訳だけが、彼の中にあった矜持の最後の残滓だった。

 固くて飲み下しにくいといつも文句を垂れていた干し肉をあっという間に嚥下すると、魔王少年はもの足りなさそうな視線を勇者に向ける。

「……いくら何でも少なかろう」

 よく咀嚼すれば空腹感を紛らわせる事ができたろうに、いて飲み込んでしまったために、却って腹ペコが強く意識される。完全に失策であった。

「……こいつって、意外といやしんぼだよね」

「何か言ったか?」

「なんにも。それより、約束なんだから手伝ってよ」

 魔王はあからさまな不満顔であったが、エルザに並んで扉を押し始めた。勇者との約束を破る事くらい何とも思ってはいないが、まだ他に食糧を携えている可能性がある以上、ここで労を惜しんではいけないと判断したのだ。


 二人が懸命に扉を押すと、その隙間は少しずつ広がっていった。互いに最も良いポジションを確保するために争いながら作業したりしなければ、もう少し疲れずに済んだだろう。しかし結果として、何とか滑り込めるだけの隙間を作る頃には、二人とも汗だくになっていた。


 しかし肩で息をしながらも、エルザだけは元気を失っていなかった。魔王とはバイタリティもモチベーションも違うのである。黒々と開いた扉の隙間に、意気揚々と体をねじ込む。

「おお~」

 エルザのあげた感嘆の声が、狭く小ざっぱりとした室内に響き渡る。

 エルザが翳す松明の炎に照らし出されたのは、壁をくり抜いて作られた棚に並ぶ壷や箱、そして部屋の中央に据えられた石の棺台と木棺などであった。

「玄室か」

 エルザの好奇の声に誘われて室内を覗き込んだ魔王が、ポツリと呟いた。

 彼の言う通り、そこは貴人、あるいは偉人の遺体を収めるための部屋だった。周りの棚にあるのは遺品や捧げ物だろう。壺は埃を被り、木の箱は傷みきっているが、永きに渡る勤めを未だ立派に果たしている。

「一体何者だ? 砂漠に栄えた古代王朝の支配者か?」

 魔王が埋葬品の容器を覗き込みながら聞くとはなしに呟く。

「よし、見て確かめてみよう」

 エルザの挙動には一切の迷いも躊躇いも無かった。やおら木棺の蓋に手を掛けたかと思うと「ちょっと失礼しま~す」と朗らかに宣言しながら、それを引っぺがした。

「おまっ! 何という無礼者だ! 貴様のような下賤には触れ得ざる、やんごとなき者かも知れんのだぞ!」

 魔王は即座に激高した。魂を操り、死を弄ぶ彼だが、身分低き者が高貴な者を冒涜するような真似は看過できなかった。しかし勇者はお構いなしである。およそその称号には似つかわしくない、熟練の盗掘者のように手慣れた手腕であった。


 果たして、覗き込んだ棺の中にはミイラと骸骨の中間のような遺体が安置されていた。副葬品なのか遺品なのか、ひと振りの優美な長剣と共に横たわっている。ゆったりとしたガウンのような屍衣は元の色が分からないほどに朽ちていたため、身分は勿論、性別も判然とはしない。

「ふむ、剣は業物。衣装は貧相。装飾品の類も無し。貴い身分ではなかったようだな。古代の、偉業を成し遂げた戦士か」

「男の人かな? それとも女の人?」

「こうすればすぐ分かるではないか」

 エルザが首を傾げていると、魔王が屍衣を捲り上げて遺体の下半身を露わにした。

「ちょぉっ! イキナリ何してんのよっ!」

 少女は顔を真っ赤にして顔を背けるが、少年はその反応の意味が分からず訝しげな顔をするだけだった。

「……意味の分からん奴め。見よ。まごう事なき男の印があるではないか」

「みっ、見ないわよっ!」

「……? 骸骨など見飽きたろうに、未だに嫌悪感でも持っておるのか? 女という生き物はこれだから……。まあ良い。この骨盤の広さから見て、間違いなく男だな」

「あ…………骨盤ね。うん……骨盤。そうだね、骨盤狭いね……」

 アンデットに慣れ親しんだ魔王は、遺体の状態に依らない性別判定方法を確立していた。四肢が欠け、肉がこそげ落ちている死兵は珍しくないので、骨盤に着目するのはむしろ当然と言えるだろう。



 魔王は物言わぬ屍にすっと手を伸ばしてその面に触れた。そして一拍の間をおいて「バヂッ!」という破裂音と共に閃光が爆ぜ、魔王の手が勢いよく弾かれた。

「……ッ!」

「なに!?」

 驚いて反射的にエルザが大剣の柄に手を掛けるが、手を押さえて痛みに呻く魔王を視界の端に収めながらも、抜剣する事は無かった。遺体は依然としてピクリとも動かないが、突如として攻性反応を示した事については十分警戒に値するはずなのに、エルザはそのまま臨戦態勢に入る気にはなれなかった。

 なぜならその時感じた力の波動に覚えがあったからだ。

 魔王の手を苛烈に排斥したのは理力だった。エルザが失ったはずのそれを、その亡骸は宿していたのだ。

「あんた、何かしようとしたでしょ」

「ふん。刻印を施して後々使えるようにしようとしただけだ」

「あんたね……」

 呆れ声をあげるエルザ。もし魔王の試みが挫かれずにいたら、死者を冒涜するその行いに激怒していたかも知れないが。



 気を取り直したエルザはゆっくりと、棺に入れられた雅やかな長剣を持ち上げた。見事な意匠が施された白銀の剣。埃を被ってはいるが、錆一つ浮いていない。

「これ……聖剣だ」

 剣の中にも神の力たる理力が内包されているのが、彼女にはよく分かった。深く封じられたその力は解き放たれる時を――真の持ち手が現れるのを待っているようだった。


 だからエルザはいつもの感覚で、剣に眠る理力に働きかけた。薄明が峻嶺を照らし出すように。春風が枝に芽吹いた蕾を撫でるように。母が幼子を揺り起こすように。


 変化は顕著だった。

 魔王を迎撃した閃光と同質の輝きが仄かに刀身に満ちたかと思うと、白の光が爆発し、目を開けている事さえできなくなった。やがて光が収まると、エルザが手にした剣は神々しいまでの存在感と、朝日のように眩しい煌きを纏っていた。

「……おい」

「……はい」

「貴様、何をしている」

「いや、ちょっと……聖剣の封印を……解いたって言うか」

「阿呆め! 何をしとるか粗忽者! 既に一本持ってるのに、もう一本増やしてどうするつもりだ! サブウェポンか!? 贅沢のつもりか!?」

「いや、使うつもりは全然無いんだけど……まさか解けるとは思わなかったんだよね~」

 全く持って本心だ。彼女が今まで使っていた女神の大剣は、聖女フローラが命を賭してその封印を解いたのだから、そう簡単にできる訳がないと高をくくっていたのだ。しかしながら、エルザの理力を扱う感覚は既に人知を超えるレベルに到達している。それこそ「何となくやってみた」が「命がけの聖女が起こす奇跡」と等号で結べてしまうほどに。

「面倒事になるに決まっておるだろう! その剣一つで戦局を覆し得るのだぞ。この世界の魔族も人間族も血眼になってそれを探しておるに決まっておるだろう!」

「だ、誰か適当な人に渡したらいいんじゃないかな……なんて……」

「貴様以上にその剣を……理力を扱える者がいると思うのか? この世界でも貴様が祭り上げられて、晴れて魔王暗殺の旅に再出発だ。どうせ貴様には断りきれまい」

 全くの図星であった。魔王自身は、この世界の戦いに関与するつもりは毛頭無い。人間族が勝とうが、魔族に軍配が上がろうが関係ない。同族のよしみで、心の中で「魔族がんばれ」と声援を送るだけだ。しかしエルザはそうではない。魔族の掲げる弱肉強食の理屈に賛同できない彼女は、この世界においても人間族に味方するだろう。そして一度加担するとなれば、徹底的に首を突っ込むに違いないのだ。それも元の世界に帰還する活動に支障をきたすレベルで。


 しょげ返るエルザは項垂れながら棺に目をやった。生前を偲ばせる要素を殆ど失った、殆ど骨の体を横たえたまま、聖剣の元々の持ち主は素知らぬ顔で眠り続けている。ふと、その時になってエルザは重大な事に気付いた。

「この人って……やっぱり昔の勇者?」

 彼女は半ば以上「全然違うわ。愚か者め」と返ってくる事を望みながら、傍らに立つ少年に問いかけた。しかし、彼はいつだってエルザの望む答えを返してはくれないのだ。

「まあ、間違いあるまい」

 魔王は聖剣を見つめたまま、渋面を作ってエルザの意見を肯定した。



 かつて、この世界の魔王を倒した勇者。異世界から召喚された彼は、魔王を倒しても元の世界に戻らなかった。

 あるいは戻れなかったのか。


 いずれにしても、異邦の二人は道標を失った。


 先達は異世界で死んだ。


 その事実だけが、二人の胸に重くのしかかった。


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