昔話
第二話 昔話
「林さん」
バイオドロイドの少年が尋ねた。
「どうして、あなたはここにいるんですか?」
林は少し黙った。
墓所の向こうには、今日も巨大なマンションが立っている。
窓はほとんど割れている。
その足元には、廃棄された自動車やシェアサイクルが積み重なっている。
「昔話をしようか」
「昔話?」
「ああ」
林はゆっくりと歩きながら話し始めた。
「昔、幸福都市っていう場所があったんだ」
それは、高齢者をはじめとする「生産性の低い人々」が安らかに余生を過ごすために、国家が作り上げた施設だった。
国の指導者は言った。
高齢者を幸福都市に預ければ、家族は介護から解放される。
自由になった時間を使って、もっと働くことができる。
それこそが、高貴なる民族の義務なのだ、と。
介護に疲れ果てていた家族たちは、その言葉に救いを見つけた。
両親を預けた。
祖父母を預けた。
叔父や叔母を預けた。
幸福都市に送れば、国が面倒を見てくれる。
そう信じることにした。
面会は禁止された。
理由は簡単だった。
「面会は介護者の生産性を低下させる」
だから家族は直接会うことができなかった。
その代わり、ビデオメールが送られてきた。
家族はそれを見て安心した。
――元気そうだ。
――ちゃんと食べている。
――施設の人たちが世話をしてくれている。
そう思おうとした。
画面の中の老人たちは笑っていた。
けれど、どこかがおかしかった。
笑顔なのに、目が笑っていない。
口の動きと声が合っていない。
同じ言葉を何度も繰り返す。
突然、話題が変わる。
名前を間違える。
「おばあちゃん、なんか変じゃない?」
そう言った子供もいた。
けれど大人たちは、
「高齢者だからね」
「施設にいるとそういうこともある」
「元気そうじゃないか」
そう答えた。
見なかったことにした。
認めてしまえば、もう一度介護しなければならない。
何人もの老人を抱えて、仕事をしながら、生活を続けなければならない。
だから。
幸福都市が本当に幸福な場所だと、信じたかった。
いや。
信じる必要があった。
「でも、一人の少女だけは信じなかった」
少年が林を見る。
「その少女は?」
「……私だよ」
林は笑った。
少女だった林は、一人で幸福都市へ向かった。
そして、そこにあったものを見た。
職員たちは老人を殴っていた。
食事はほとんどなかった。
病気になっても放置された。
逃げようとした者は連れ戻された。
幸福都市は、老人のための安息の場所ではなかった。
死ぬまで閉じ込めておくための場所だった。
「私は、おばあちゃんを探した」
何日も探した。
ようやく見つけた。
小さな部屋の隅に、おばあちゃんはいた。
昔の面影はほとんど残っていなかった。
それでも林には分かった。
「おばあちゃん」
呼びかけると、祖母は顔を上げた。
そして、かすかに笑った。
林は祖母の手を握った。
「最後に、歌を歌ったの」
二人が子供の頃から知っていた歌だった。
祖母も覚えていた。
小さな声で一緒に歌った。
歌が終わると、林は泣いた。
大声で。
ずっと我慢していたものが、全部出てきた。
すると職員たちが集まってきた。
「騒ぐな」
「ここから出ていけ」
そして、一人が言った。
「お前も標本にしてやる」
林は顔を上げた。
「収容所を飾る、肉の装飾にしてやる」
その瞬間だった。
幸福都市の廊下に、見たことのない空間が現れた。
暗くもない。
明るくもない。
ただ、そこだけ世界の色が違っていた。
墓所だった。
どこからともなく、風が吹いた。
祖母の身体がゆっくりと浮かび上がった。
「おばあちゃん!」
林が手を伸ばす。
祖母は笑っていた。
そして、そのまま墓所へ消えていった。
「……それで、私もついていった」
林はそこで話を終えた。
少年は何も言わなかった。
しばらく二人の間に沈黙があった。
やがて少年が尋ねた。
「では、ここに来たのは……」
「祖母を追いかけてきたから」
「そして?」
「そのまま居ついちゃった」
林は肩をすくめた。
「気がついたら、ここに来る人たちを案内するようになってた」
「ここには、たくさんの人が来るんですね」
「たまにな」
「どんな人が?」
林は墓所を見渡した。
「何かを失った人」
それだけ答えた。
「身体の一部を失った人もいる。家族を失った人もいる。仕事を失った人もいる。名前を失った人もいる」
そして林は少年を見た。
「君みたいに、自分の居場所を失った人もな」
少年は黙っていた。
二人はしばらく歩いた。
やがて、古びた墓標の前に着いた。
林は立ち止まった。
「ここ」
少年も隣に立った。
墓標には名前だけが刻まれていた。
林は手を合わせた。
少年も真似をした。
「おばあちゃん」
林が呟く。
「新しい子を連れてきたよ」
少年は墓標を見つめた。
「……こんにちは」
風が吹いた。
墓所のどこかで、古い自転車の車輪がゆっくりと回った。
誰もいないはずの場所から、かすかな歌声が聞こえた。
少年が顔を上げる。
「今のは?」
林は笑った。
「さあ」
そして二人は、しばらく祖母の墓の前に立っていた。
そこではもう、誰も急かす者はいなかった。




