3-1.鎖のついた凶器
──飼い犬と野良犬の違いは一つだけだ。噛みつく相手を、自分で選ぶかどうか。
廃倉庫の中に、硝煙と血の鉄臭さが滞留していた。
床には五人の男が転がっている。全員が意識を失っているか、痛みで声も出せずに蹲っている。死者はゼロ。ただし無傷の者もゼロだった。一人目は手首の関節を正確に逆方向へ折られ、二人目と四人目、五人目は両膝の靭帯を破壊されて蹲っている。三人目は顎の骨を砕かれていた。
カナメは倉庫の隅に置かれた錆びたドラム缶に腰を下ろし、手元のタブレット端末を操作していた。この半年で三度アップグレードした情報端末は、もはやジャンクの寄せ集めではない。下層の闇市場で流通する中古部品を組み合わせた、それなりに実用的な演算機器だ。画面に表示された暗号口座の残高が更新される。着金確認。
「契約完了だ」
カナメは端末から目を上げなかった。
レイナが近づいてくる足音がした。裸足だ。義体の右脚はこの半年で二度換装されており、今のモデルは以前より駆動音が静かだった。だが裸足で歩く生身の左足と、サーボの微かな唸りが交互に響くリズムは独特で、カナメにはすでに聞き慣れたものだった。
「終わったよ。五人。指示通り、骨だけ。殺してない」
レイナは右手の指についた血を舐めながら言った。無駄な肉のない体躯は半年前と変わらないが、義体の整備状態は格段に向上している。左腕の義体は肘関節が新しいパーツに換わり、表面の装甲板も補修されていた。無造作に切り揃えた黒髪の下、右目だけがカナメを真っ直ぐに見ている。左目は半年前の損傷以来、旧式の光学センサーに置換されており、虹彩の代わりに赤い受光部が鈍く光っていた。
「武装解除が目的なら腕か足の関節だけでいいと言ったはずだ。三人目は顎が砕けていたぞ」
カナメは小さくため息をつきつつ、咎めるように言った。半年前のノイマンに対するような氷のような冷たさは、そこにはない。
「あいつはあたしに唾吐いたんだよ。アンタの文句も言ってたし」
「だとしても指示外の行動だ。……怪我はしなかったろうな?」
「……ごめん。平気だよ、かすり傷一つない」
レイナの声が一瞬だけ萎んだが、カナメの気遣うような語尾の変化に気づいてすぐに顔を上げた。叱責を受けた犬が、撫でられて安心したような顔だ。カナメに指摘されること、心配されることそのものに浸っている。
「次からは指示通りにやる。だから、怒んないで」
「怒ってなどいない。ただ、余計なリスクを取るなと言っている」カナメは少しだけ呆れたように言い、画面に視線を戻した。「ペナルティとして、報酬から今回の追加治療費を差し引く。次は気をつけろ」
「うわ、それ一番キツい」
レイナは大袈裟に肩を落として見せたが、口元は笑っていた。血のついた唇を歪めて、欠けた犬歯を覗かせる。この女はカナメに罰されることすら、自分に関心を向けられている証拠として受け取る。報酬の減額は、言い換えれば「お前の行動をしっかり見ていた」という意味だからだ。
半年。この六ヶ月で、カナメとレイナの名は下層の一角に定着した。
依頼の内容は多岐にわたる。ギャング間の調停、借金の取り立て、物資の護送、情報の売買。圧倒的な暴力が必要な案件にはレイナが牙を剥き、交渉と設計が必要な案件にはカナメが冷徹に立ち回った。報酬はすべてカナメが管理し、レイナの取り分は生活費と義体の維持費として現物支給に近い形で渡された。
レイナはそれに一度も異議を唱えなかった。金に一切興味がないわけではない。酒などの娯楽に使う小遣いは要求するが、それ以外の稼ぎには無頓着だった。カナメが自分(暴力)を完全に管理し、生活のすべてを掌握しているという物理的な依存関係が、彼女にとっては自由な金そのものよりも価値があるのだ。
「アンタさ」
レイナがカナメの隣に座った。距離が近い。常に近い。カナメが許容する最小距離を正確に測って、その境界線の上に座る。
「あたしのこと、いつまで使ってくれんの」
「……お前が俺の横にいる限り、ずっとだ」
「壊れるまで?」
「壊れたら何度でも修理する」カナメはわざと冷酷な言葉を選ぼうとして、結局、呆れと微かな熱を含んだ口調になってしまった。「修理費が莫大になろうと、元が取れるまでこき使ってやる。だから勝手に壊れるな」
レイナは目を細めた。他の人間が聞けば、人を道具扱いする荒っぽい言葉だ。だがレイナの耳はそれを別の言語に翻訳している。壊れても直す。捨てない。利益がある限り──つまり、自分が必要とされ続ければ、永遠に。
「……最高じゃん」
レイナは呟いた。その声の底には、幼い頃から誰にも必要とされなかった人間が、ようやく値札をつけてもらえた安堵が滲んでいた。歪んでいる。だが、それがこの女にとっての愛情の掟だった。
カナメの端末が鳴った。
暗号化された通信。周波数は下層の一般ノードではない。仲介屋を経由して持ち込まれた、難易度の高い高額案件の通知だ。カナメは眉一つ動かさず、復号キーを入力した。
テキストデータが展開される。依頼内容。
「上層企業系輸送トラックからの特定カーゴ(無記名)の奪取。中層セクターD-7を経由、護衛は武装ドローン四機と保安要員二名。手付金に加え、成功報酬──」
カナメの指が止まった。報酬額が表示されている。通常案件の十五倍。下層の傭兵が半年は遊んで暮らせる破格の金額だ。
「でかいね。怪しいけど」
レイナが画面を覗き込んだ。
「黙れ。読んでいる」
カナメの目は報酬ではなく、輸送ルートのパラメータに釘付けになっていた。中層セクターD-7の通過時刻、速度制限の設定値、ドローンの巡回パターン。そのすべてに、見覚えがあった。
配送の最適化ロジック。リスク分散の重み付け係数。迂回ルートの選定アルゴリズム。それらの根底にある設計思想は、カナメ自身が上層時代に構築した戦略AIの運用パラメータそのものだった。ノイマンが引き継ぎ、今も稼働しているシステム。その癖──変数の丸め方、小数点以下第三位の切り捨て処理──が、輸送計画の細部にまで染み出している。
オルビット・ネットワークスの麾下。かつて自分を切り捨てた、あのメガコーポの裏ルート輸送だ。
誰が出した依頼かは分からない。対立企業か、下層の反体制組織か。高額な報酬に釣られる命知らずを探して、偶然この仲介屋に流れてきただけだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。ただの偶然であろうと、「自分をゴミのように捨てたシステムの大動脈を物理的に噛みちぎり、莫大な軍資金を得られる」という事実だけが、カナメの論理的な脳髄を奇妙に熱くさせた。
カナメは端末を閉じ、立ち上がった。
「レイナ」
「ん」
「上層の犬を狩るぞ」
レイナの右目と、左の赤い光学センサーが同時に光った。欠けた犬歯が覗く。血まみれの仕事を終えたばかりの女が、次の獲物の名前を聞いた時の顔だった。
「──面白くなってきたじゃねぇか」
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