2-3.バグと野良犬の契約
──壊れた機械を直すのに必要なのは、マニュアルではない。壊れたまま動かす執念だ。
カナメはレイナの身体を引きずった。
生身の右手が掴んで離さない袖口をそのままに、左腕を女の背中に回し、泥濘の中を這うようにして廃材置き場のコンテナまで戻った。距離にして五十メートル足らず。だが半壊した義体と出血を抱えた人間一人を運ぶには、途方もなく長い距離だった。
コンテナの中に引き入れ、トタン板の下に寝かせる。穴だらけの屋根から酸性雨が滴り続けているが、直撃よりはましだ。カナメは手製端末の液晶を光源代わりにして、女の状態を確認した。
凄惨だった。
左の義体腕は肘関節が完全に吹き飛び、断面から冷却液が脈動するように漏れ出している。腹部の被弾は生身の組織を掠めており、裂けた皮膚の下から筋膜が露出していた。右脚の義体は膝のサーボモーターが半壊し、駆動系が異常な熱を発している。冷却回路が破断しているのだ。このまま放置すれば、内部温度の上昇で周辺の生体組織が壊死する。
カナメは上層で受けた標準的な救急訓練の手順を思い出した。止血、洗浄、圧迫、搬送。だが目の前にあるのは、人体と機械が無秩序に縫合された異形だ。どこまでが生身でどこからが機械なのか、外見では判別がつかない。止血帯を巻くべき場所に金属フレームがあり、圧迫すべき動脈の上をケーブルが走っている。
「……違う」
声がした。女の声だ。掠れきって、錆びた排水管の軋みに似ている。
レイナの右目がカナメを見ていた。左目は腫れ上がったまま開かない。だがその片目には、瀕死の人間が持つべきではない明瞭な意識が灯っていた。
「腹は……後でいい。先に右脚の冷却回路。このままだと……筋肉ごと焼ける」
「冷却液の補充がない。パイプも──」
「バイパスしろ」レイナの声が遮った。「膝裏のパネルを外せ。中に予備の冷却ラインがある。細い管だ。それをメインに直結しろ。漏れてる側は切り捨てていい」
カナメは一瞬躊躇した。機械工学の基礎知識はある。だが義体の実地修理は専門外だ。
「やれ」
レイナの右目が据わっていた。命令だった。死にかけた人間が、自分を助けようとしている人間に命令している。だがその目には、自分の身体が機械と肉の継ぎ接ぎであることへの、一切の感傷がなかった。
カナメは膝裏のパネルをこじ開けた。端末の光に照らされた内部は、配線と人工筋繊維と冷却管が絡み合う混沌だった。レイナの指示に従い、破断したメインラインを切り離し、予備の細管をカプラーに直結する。冷却液が再循環を始め、義体の異常発熱が徐々に下がった。
「次。腹」
レイナは自分の傷口を顎で示した。
「裂けてるだけだ。臓器は抜けてねぇ。縫う道具がねぇなら、焼け」
「焼く」
「義体の左腕。肘の断面に露出してる動力線があるだろ。ショートさせれば一二〇〇度は出る。それで傷口の縁を融着しろ」
カナメは左腕の残骸を見た。確かに、断裂した動力線の被覆が剥がれ、銅色の芯線が二本露出している。これを接触させれば電気アークが発生する。原理的には可能だ。だが、それを生身の腹部に当てるということは──上層の無菌室で育ったカナメの常識を根底から覆す、狂気の沙汰だった。
「やれっつってんだよ」
レイナの右手がカナメの手首を掴んだ。血で滑る指が、それでも離さない。
「痛覚なら慣れてる。いいから早くしろ。意識がある内に終わらせてぇんだよ」
カナメは二本の芯線を端末のクリップで束ね、もう片方の端をコンテナの鉄壁に接地させた。即席のアーク溶接器。正気の人間が人体に使う道具ではない。カナメの指先が、わずかに躊躇いを覚えて止まった。下層の人間は、自分たちを本当に機械のパーツと同じように扱っているのか。そんな異常な世界に、自分は足を踏み入れたというのか。
芯線を接触させた。青白い火花が散り、先端が白熱した。
カナメはそれを傷口の縁に近づけ、肉を焼いた。
蛋白質の焦げる匂いが狭いコンテナ内に充満した。レイナの全身が弓なりに硬直した。歯の隙間から押し殺した呻きが漏れ、生身の右手がコンテナの床を掻いた。だが叫ばなかった。叫べば居場所が知れる。下層ではそれが死を意味することを、この女は骨の髄まで知っている。
三箇所。焼灼が終わった時、レイナの額は脂汗で濡れ、呼吸は浅く速かった。だが出血は止まっていた。焦げた皮膚の縁が赤黒く固まり、不格好だが確実に傷口を塞いでいた。
(……俺は何をしているんだ)
焼け焦げた肉の臭いを嗅ぎながら、カナメは自身の行いに微かな違和感を覚えていた。
生き延びるためとはいえ、人間と機械の区別もなく動力線で肉を焼き、まるで壊れたジャンク品を溶接するように血肉を「修理」している。それは上層の無菌室では決して生じ得ない、粗雑で暴力的な下層の光景だった。カナメの論理的な頭脳は、その狂気じみた泥底の作法に対する戸惑いを隠せなかった。
レイナの右目が再びカナメを捉えた。片目だけの視線。だがその焦点は揺るがない。
「……やっぱり、お前だ」
荒い呼吸の合間に、女は言った。無駄な肉のない体躯が、汗と血と冷却液に濡れてコンテナの床に横たわっている。無造作に切り揃えられた髪が額に張りつき、その奥の右目だけが異様な熱を帯びて光っている。飢えた野良犬。カナメの脳裏にその言葉が浮かんだ。正確には、一度獲物を見つけた野良犬だ。
「あの時の、マフラーの。フェンスの向こうから手を伸ばした。……覚えてねぇのか」
「人違いだ。お前など知らない」
カナメは即答した。記憶にない。マフラーも、フェンスも、何一つ思い当たる節がない。上層で育ったカナメが下層の境界に近づく機会は限られていたし、仮にそうした出来事があったとしても、幼少期の些事が二十五年の記憶の中に残っている保証はない。
「知らなくていい」
レイナは笑った。血まみれの唇が歪み、欠けた犬歯が覗いた。痛みで意識が飛びかけているはずの人間の笑みではなかった。
「あたしが覚えてる。あたしが決めた。アンタは、あたしの神様だ。あの時も今も……アンタだけが、あたしを見捨てなかったんだよ」
「……」
「どっちでもいい」レイナの生身の右手が、再びカナメのジャケットの裾を掴み直した。「あたしを拾えよ。アンタの上で踏ん反り返る奴は、あたしが全員殺してやる。アンタが考えて、あたしが壊す。それでいいだろ」
カナメはその目を見た。狂信。他に適切な単語がない。論理ではない。損益でもない。この女の中にあるのは、カナメの知らないたった一度の出来事を起点にした、修正不能な何かだ。
この泥にまみれた四日間で、カナメは自分に何が欠けているのかを痛いほど理解していた。情報処理と交渉ならできる。だがそれだけだ。圧倒的な暴力の現場では、自分は一秒でただの肉塊に変わる無力な存在でしかない。縄張りの作法も、銃の扱いも知らない。明日を生き延びるためには、この世界の掟を血で覚えた「暴力」がどうしても必要だった。
目の前の女は、デコイとして最前線に放り出され、集中砲火を浴び、味方に見捨てられ、それでも腹の肉を焼いて黙って耐えきった。この狂気じみた暴力耐性と現場の勘は、カナメが一生かけても習得できないものだ。
(こいつを利用するしかない)
その思考が頭をもたげた瞬間、カナメは自分の内側に真っ黒な泥が流れ込んでくるのを感じた。
結局、自分は何も変わっていない。システムのエラーとして弾き出されたくせに、スラムでただ生き残るために、狂信を抱く目の前の女を「生存の確率を上げるための手札」として見定めているのだ。企業が区画Cの人間を臓器や兵器の的として計算したのと同じように、自分もこの女を、ただの暴力装置として利用しようとしている。
ノイマンの嘲笑が耳の奥で蘇る。
腹の底から湧き上がる激しい自己嫌悪に、カナメは唇を噛み締めた。吐き気がした。だが、ここで倫理などというものにしがみついていれば、明日の朝には自分もこの女も酸性雨の中で腐るだけだ。
這い上がるためには、この泥を飲み込むしかない。
カナメは自嘲と絶望を飲み込み、冷え切った息を一つだけ吐いた。
「拾ってやる」
その声は、かつて戦略AIルームで最適解を読み上げていた時と同じ、無機質な響きだった。
「ただし条件がある。俺の指示なしに人は殺すな」
沈黙が三秒。レイナは血まみれの顔で、再び笑った。今度は歯を見せて。
「……努力する」
酸性雨がトタン板を叩いている。狭いコンテナの中に、焦げた肉と冷却液と錆の匂いが淀んでいた。
狂信と、自己嫌悪に塗れた生存計算。およそ噛み合うはずのない二つの歯車が、この夜、泥と血の中で初めて嚙み合った。
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