2-2.損失ゼロのブラフ
──暴力の文法は単純だ。主語が銃口、述語が死。だが、この世界で最も厄介なのは、行間を読める人間だ。
三人のギャングが足を止めた。
泥濘の中に立つ痩せた男が一人。武器はない。義体もない。酸性雨に濡れたカーボン繊維のジャケットと、右手に握られた、ゴミ同然の手製端末。それだけだ。
先頭の男が、改造カービンの銃口をカナメの胸に向けたまま笑った。歯が三本欠けている。残った歯には金属の補綴が光っていた。
「なんだ、こいつ。死にてえのか」
二人目が横に回り込む。電磁パルス弾を装填した短銃身のショットガン。三人目は少し離れた位置で、鉄パイプの先端に溶接された手製のスタンロッドを構えている。三角形の殺陣。どの角度からでも一秒以内にカナメを殺せる配置だ。
カナメはその布陣を視認し、同時に三人の装備を観察した。二秒。必要な情報は揃った。
「銃を下ろせ」
カナメの声には抑揚がなかった。懇願でも威嚇でもない。事実の通告に近い音程だ。
「撃てば、お前たち三人の命を含む、この周辺の縄張り全体が物理的に焦土と化す」
沈黙が一拍あり、それから三人が同時に笑った。先頭の男──リーダー格と思しい──が銃口を下げずにカナメの顔を覗き込む。
「上から落ちてきた馬鹿か。頭打って壊れたな」
「そのカービン」カナメは視線を動かさず言った。「改造ベースはチェコスロバキア・アームズのCz-8800。だが銃身のライフリングを削って口径を拡張してある。その加工を請け負えるのはこのセクターではジャンク・ハウルの工房だけだ。連番は下五桁が74R-EE。三ヶ月前にヴァルキュリア・ロジスティクスの暗黒物流便、第七ルートで搬入された非合法品だな」
笑いが止まった。
カナメの右手の端末が、ひび割れた液晶の上に文字列を表示している。リーダーの目がそこに引き寄せられた。
「そっちのショットガン。ストック部分のQRタグは削られているが、内部チップのMACアドレスは生きている。登録名義はヴァルキュリアの第三中継倉庫。そしてお前」カナメは三人目を見た。「そのスタンロッドの電磁コイル、出力が標準の四倍に改造されている。部品の調達元はヴァルキュリアのカタログ外品目、いわゆるブラックシェルフだ。注文履歴にお前たちの組織のフロント口座の番号がそのまま残っている」
リーダーの表情から嘲笑が消えた。完全にではない。だが、目の奥に計算が走り始めている。カナメはそれを見逃さなかった。
「四日前からこの廃材置き場に潜伏する間に、周辺の非公式通信ノードを十一個クラックした。お前たちの組織がヴァルキュリア・ロジスティクスを経由して上層から物資を密輸しているデータは、すでに抽出済みだ。取引日時、数量、決済ルート、末端の受取人リスト。全部ある」
ブラフだった。全部ではない。カナメが実際に取得できたのは、ただ底辺で生き延びるために集めた、通信ノード経由の断片的なメタデータと、いくつかの暗号化されていない取引ログだけだ。武器のシリアルナンバーは、先ほどの観察で読み取った刻印と、端末内に蓄積した物流データの照合で導いた推測に過ぎない。だが、推測と事実の境界を曖昧にすることが、このブラフの骨格だった。
上層の最適化を司っていた元・統括官の頭脳が、今はただこのスラムの泥の底で、あと一日を生き延びるためだけにフル稼働している。
「この端末には、俺の心拍数をトリガーにしたデッドマンズ・スイッチが組んである」
カナメは右手の端末を軽く持ち上げた。液晶に脈拍のグラフが表示されている。実際にはただの生体モニターだ。底辺の落ちこぼれに自動送信機能など組み込む余裕はなかった。だが、画面を見せる角度と、表示されるグラフの動きは、本物のトリガーシステムと区別がつかない。
「俺の心臓が止まった瞬間──お前たちが引き金を引いてから約八秒後に、ヴァルキュリア経由の全取引データが上層の治安維持局の匿名受付サーバーに自動送信される。局が動けば、ヴァルキュリアのルートは二十四時間以内に焼かれる。お前たちの組織は物資の供給線を完全に失う。弾薬も、義体パーツも、食糧の転売品も。縄張りを維持する物理的手段がなくなる。対立組織がそれを見逃すと思うか」
カナメは一度も声を荒げなかった。酸性雨が顔を叩き、足元では瀕死の女が微かに呻いている。それでもカナメの声は、AIルームでノイマンと対峙した時と同じ温度のまま、数字と帰結だけを並べた。上層の論理を、そのまま下層の暴力に叩きつける。
「計算しろ。この女と俺を殺す利益は、お前たち個人の面子だ。失うのは、組織全体の兵站だ。割に合うか」
リーダーの顎が動いた。奥歯を噛んでいる。銃口はまだカナメの胸を向いている。だが、引き金にかかった指の圧力は変わっていた。カナメにはそれが見えた。
五秒。
十秒。
リーダーが横の二人に視線を送った。ショットガンの男が小さく首を振る。スタンロッドの男は黙ったままだ。三人の間で無言の計算が走り、答えが出た。
リーダーが銃口を下ろした。
「……死人に免じてやる」
吐き捨てるように言い、リーダーは踵を返した。二人がそれに続く。三つの背中が酸性雨の向こうに溶けていく。足音が泥水を叩く音が遠ざかり、やがてネオンの明滅だけが残った。
カナメの膝が折れた。
壁に──正確には、崩れかけたコンクリートの支柱に背中を預け、そのまま座り込んだ。端末を握る右手が激しく震えている。今になって震える。交渉の最中は嘘のように冷え切っていた手が、死の恐怖が去った途端に制御を失ったのだ。心拍数は百四十を超えていた。端末のモニターが忠実にそれを表示している。デッドマンズ・スイッチのトリガー画面として使っていた、ただの脈拍計が。
(……生き延びた)
冷や汗と酸性雨が混じって頬を伝い落ちる。とにかく今日、自分は死ななかったのだ。
足元で、女が動いた。
半壊した義体の左腕はもう動かない。腹部からの出血が泥と混じり、黒い水溜まりを広げている。それでも女の生身の右手が、泥を掻いて伸びた。カナメのジャケットの袖口に触れ、指が布地を掴む。弱い力だった。だが離す意志がなかった。錆びた万力のように、繊維の一本一本に爪を食い込ませている。
カナメが見下ろした。血と冷却液にまみれた女の顔。左目は腫れ上がって閉じている。右目だけが開いていた。その瞳の焦点は驚くほど明瞭で、真っ直ぐにカナメの顔を捉えていた。
女の唇が動いた。声は掠れ、酸性雨のノイズにほとんどかき消された。だがカナメの耳は、その二音節を拾った。
「……見つけた」
カナメには意味が分からなかった。初対面の瀕死の人間が、なぜ自分を「見つけた」と言うのか。論理的な解釈が見つからない。
だが女の右手は離れなかった。血で滑る指がカナメの袖を掴み続けている。その尋常ではない握力の中に、死の淵にいる人間のものとは思えない、異質な確信が宿っていた。
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