表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『ノイズ・イン・ザ・システム〜「あたしを見捨てなかった神様へ」と笑う狂犬を連れて、元企業エリートはどん底から世界を壊す〜』  作者: はーまやー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/38

2-1.鉄の墓標で拾った命

──地獄には地獄の掟がある。覚えなければ、次の朝日は拝めない。

 追放から四日が経っていた。


 カナメは廃材置き場の奥、潰れた貨物コンテナの残骸の中に身を潜めていた。錆びた鉄壁が三方を囲み、頭上には穴だらけのトタン板が酸性雨を不完全に遮っている。完全な雨避けにはならないが、睡眠中に肌が爛れるほどの直撃は防げる。下層では、この程度の遮蔽物を確保できるかどうかが生き死にを分かつ。


 膝の上には、二日がかりで組み上げた手製の情報端末があった。廃棄されたドローンの通信基盤、型落ちの演算チップ、ひび割れた液晶パネル。すべてゴミの山から拾い集めた部品だ。生体IDを経由しないローカル接続しかできないが、下層に散在する非公式の通信ノードを拾うことはできる。ギャングの縄張り情報、闇市の物資流通、廃棄物の搬入スケジュール。上層では無価値なデータが、ここでは生存の確率をコンマ数パーセント引き上げるための命綱になる。


 四日間で学んだことは多い。


 下層には法がない。あるのは暴力と、暴力の均衡だけだ。三つの主要ギャングが縄張りを分割し、その境界線は日ごとに血で引き直される。通行料、保護料、情報料。あらゆるものに値段がつき、払えない者は労働力か、あるいは臓器という名のパーツで清算する。


 カナメは初日に身をもって学習した。廃材置き場で寝ていたところを二人組の男に襲われ、ジャケットを奪われかけたのだ。上層の人間が着る防酸コートは、素材だけでひと月分の食糧に換算できる。カナメは抵抗せず、代わりに男たちが持っていた盗品の通信チップが偽造品であることを指摘し、本物との見分け方を教える対価としてジャケットを帰属させた。情報が通貨になる。それだけは上層の論理と同じだった。


 だが、適応には泥に塗れる代償が伴った。左の肋骨に鈍い残痛がある。二日目に別の縄張りを横切った際、警告として受けた蹴りの名残だ。食事は配給などなく、廃棄食糧の残滓を漁るか、情報と交換するしかない。胃は常に空で、酸性雨に晒された皮膚は所々が赤く爛れている。今はただ「今日も死ななかった」という底辺の事実だけがカナメのすべてだった。


 これが、自分が最適化し、上層のために切り捨ててきた「数字」の行き着く果ての現実だった。


 手製端末の液晶が明滅した。近隣の通信ノードが異常な量のトラフィックを吐き出している。カナメはデータのパターンを読んだ。暗号化されていない生の音声断片、位置情報の急激な移動、そして複数の発砲音を拾った環境マイクのログ。


 抗争だ。


 距離はおよそ三百メートル。この廃材置き場の北東、旧貨物ターミナルの跡地。カナメは端末を胸ポケットに押し込み、コンテナの隙間から外を窺った。


 見えたのは、泥と闇の中を走る曳光弾の軌跡だった。


 二つのギャング勢力が旧ターミナルの廃墟を挟んで撃ち合っている。改造された旧式カービン、手製の電磁パルス弾、鉄パイプに括りつけた焼夷装置。武装は粗末だが殺意は生々しく、コンクリートの破片が弾丸とともに飛散し、酸性雨の水たまりに着弾の水柱が次々と立ち上がった。


 カナメは息を潜めて動かなかった。この距離なら流れ弾の確率は低い。観察することに専念する。下層の暴力には残酷なまでの法則がある。どちらが攻勢か、戦力差はどれほどか、撤退ルートはどこか。それを読み取れるかどうかが、自分がこの廃材置き場に留まるべきかどうかの生存指標になる。


 その時、戦線の最前縁に、異質な動きをする影が見えた。


 小さい。他の戦闘員と比べて明らかに体格が足りない。若い女だった。破れた防弾布を巻いただけの身体で、カバーもなしに敵陣へ向かって走っている。左腕は肘から先が金属の光沢を帯びていた。ジャンク義体。規格外のパーツを無理やり接合した粗悪な代替肢だ。右脚も膝下が同様の義体で、走るたびにサーボモーターが不均一な駆動音を立てている。


 デコイ。カナメは即座に理解した。女は囮として前線に放り出されている。敵の射線を引きつけ、味方の主力が側面に回る時間を稼ぐための使い捨てのパーツだ。


 集中砲火が女に向いた。


 最初の被弾で左の義体腕の肘関節が弾け飛んだ。白濁した冷却液が噴出し、酸性雨と混じって泥に散った。二発目が右の肩口を抉り、三発目が腹部を掠めた。女の身体がよろめき、膝から泥濘に崩れ落ちる。それでも彼女は匍匐で前進しようとしていた。義体の左腕は機能を喪失し、生身の右手だけで泥を掻いている。


 そして、女の役割が果たされた瞬間──味方側が撤退を開始した。側面攻撃ではない。全面撤退だ。最初から回収する予定などなかったのだ。戦線に残されたのは、半壊した女の身体だけだった。


 敵側のギャングが三人、ゆっくりと女に近づいていく。トドメを刺すために。急ぐ理由がない。獲物はもう動けない。


 カナメの脳が高速で演算した。介入のメリット、ゼロ。リスク、最大。武装はない。義体もない。敵は少なくとも三人で、全員が武器を持っている。ここで動けば、自分も死ぬ。関わらなければ、明日も生きられる。


 最適解は、見殺しだ。


 その結論が出た瞬間、カナメの右手の人差し指が痙攣した。


 あの指だ。

 地下七十二階の無菌室で、承認キーの上で凍りついた指。

 区画Cの十二万の命が、新兵器の実験台と臓器収穫の在庫として売り渡される契約書に、どうしてもサインできなかった指。上層の連中の理不尽に激怒し、「ふざけるな」と感情を吐き出した代償に、すべてを奪われた指。


 そして今、あの時と同じ「最適解」が、目の前で使い捨てのパーツとして嬲り殺されようとしている命を見捨てろと告げている。


 泥の中で壊れかけた女が、生身の右手で地面を掻いている。それが、見殺しにされたスラムの人間たちと重なった。


 ──また、最適解これに逃げるのか。


 カナメは自嘲した。学習能力のないアルゴリズムだ。同じエラーを繰り返す。入力が変わっても出力が変わらない。これはバグだ。修正されるべき欠陥だ。そう分かっていて、それでも。


 足が動いた。


 手製の端末を握りしめたまま、カナメは物陰から歩み出た。三人のギャングと、泥に伏した女の間に、身一つで立つ。背後にカバーはない。武器もない。あるのは冷徹な最適解を棄却した、一人の人間の不合理なバグだけだった。


 女の視界は霞んでいた。冷却液と血が混じった液体が右目を覆い、左目だけが辛うじて焦点を結んでいる。痛覚はとうに飽和し、四肢の感覚は曖昧だった。味方は消え、敵の足音が近づき、終わるのだと理解していた。


 その視界に、影が立った。


 逆光ではない。頭上のネオンの、途切れ途切れの青白い光。その光を背にして、一人の男が少女の前に立っていた。武器を持たず、ただ立っている。泥に汚れ、酸性雨に濡れ、上層の人間の残り香だけをまとった、痩せた背中。


 女の左目が、その横顔の輪郭を捉えた。


 視界が揺れた。ノイズが走った。だが、それは冷却液の滲みによるものではなかった。もっと深い場所──記憶の底に沈めていた、古い映像が浮上してくる。酸性雨の中で、境界フェンスの隙間から手を伸ばしてきた少年の指。差し出された財布と、首から外したマフラー。その時に見た横顔と、同じ角度で、同じ光が当たっている。


 女の唇が動いた。声にはならなかった。泥と血に塗れた口が形だけで紡いだ言葉を、カナメは聞いていない。聞こえるはずがない。


 それでもその唇は、確かにその名前の形を作っていた。十五年前に刻まれ、義体に換装されても、銃弾に撃ち抜かれても、一度も消えなかった名前の形を。

もし「雰囲気が好き」「続きが気になる」と思っていただけましたら、 ページ下部の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマーク登録をしていただけると、執筆のモチベーションが上がり、更新速度が上がるかもしれません……!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ