1-4.剥奪と、底辺への墜落
──落ちる場所を選べるのは、まだ落ちていない人間だけだ。
ノイマンの足音が気密扉の向こうに消えてから、一夜が明けた。
カナメは自室の端末の前で、ただ沈黙の中にいた。すでに自分に対する何らかの処分はくだされているはずだ。システムのログをいくら遡っても、自分のアクセス権限には静かなロックがかかり始めていた。
そして午前七時きっかりに、端末が鳴った。
通知音ではない。それは優先度最上位のプロトコルにのみ割り当てられた単音──短く、硬く、取り消し不能な信号だった。人事・保安統合部門からの特別通知。件名はない。件名が不要なほど、内容が一義的だからだ。
カナメは画面を開いた。
「機密保持規定第十一条違反に基づく懲戒処分の即時執行について。対象者:戦略AI運用統括官カナメ。処分内容:全システム権限の即時凍結。社員資格の即時剥奪。市民権付帯情報(生体ID、ICタグ、金融口座連携)の停止。本通知をもって執行とする。異議申立期間:なし。」
最後の一行が目に入った瞬間、自室のあらゆるスマートデバイスが暗転した。ホログラムのディスプレイが一枚ずつ沈黙し、カナメの周囲から上層の光が剥がれ落ちていく。端末のロックは解除不能。生体認証は無効。数時間前まで都市の代謝を司っていた指先が、今はただの動くタンパク質になった。
ノイマンは、カナメが最終的に承認を拒否することまでは予測していなかったはずだ。優秀なシステムが、感情というありふれたバグで停止するなどとは。
だが、ノイマンという男はその異常事態に備えた「保険」すらも完全に構築していたのだ。この非道なプロジェクトの途上で何らかの不具合が生じた時、すべての責任を押し付けて切り捨てるための『生け贄』の用意を、彼は初めから済ませていた。カナメがノイズとなって反逆した瞬間、その空欄にカナメの名前が書き込まれ、たった一夜で全処分の手続きが執行されたというわけだ。
感嘆すべき手際だった。どんなエラーすらも自身の出世のための部品として処理し切る、冷徹な設計者の業だ。
自室の扉が開いた。通常なら鳴るはずの来客認証音はなく、強制開錠の重い音が響く。
入ってきたのは三体の警備ドローンと、武装した保安部員が二名。ドローンは腰の高さで無音のまま浮遊し、赤外線スキャナーの赤い光でカナメの輪郭をなぞった。脅威判定。武器なし。抵抗の意思なし。三秒で完了する査定だった。
保安部員の一人が、事務的な声で告げた。
「カナメ元統括官。本社施設からの即時退去を命じます。私物の持ち出しは認められません。移動経路は保安部門が指定します」
元統括官。肩書が過去形に変わるのに要した時間は、端末が鳴ってから百二十秒足らずだった。
カナメは立ち上がった。抵抗という選択肢は、計算するまでもなく存在しない。この上層のセキュリティ設計にカナメ自身が関わっている。ドローンのスタン機能は三メートル以内の対象を〇・八秒で無力化する。仮に二名の保安部員を突破したところで、廊下には追加の部隊が待機しているはずだ。
それらすべてを、カナメは知っている。自分で承認した予算で配備された装備だからだ。
保安部員に挟まれる形で、カナメは自室を出た。振り返らなかった。振り返る理由がない。あの整然とした白い部屋はもうカナメの部屋ではなく、ホログラムはもうカナメのデータを映さない。
通常の退職者は上層のロビーから正面ゲートを通って退出する。だがカナメに与えられたルートは異なった。貨物用の搬出路。資材や廃棄機材を下層の処理施設へ送るための、人間が通ることを想定していない経路だ。保安部員はセクター境界で足を止め、カナメだけが狭い搬出シャフトの中を降り続けた。エレベーターではない。機材運搬用のスロープを、自分の足で歩いて降りる。
階層が下がるごとに、空気が変わる。上層の無菌、中層の機械油、そしてその先──廃棄物処理レーンの、甘く腐った有機物の臭気。
最後のゲートが開いたとき、カナメの靴底が踏んだのはコンクリートではなかった。
泥だ。
黒く、重く、酸性雨と廃液が混じり合った泥濘。下層のさらに底、都市の排泄口とでも呼ぶべき区域だった。頭上を走る排水管の群れが空を隠し、その継ぎ目から滴る汚水が、断続的にカナメの肩を打った。
ゲートが背後で閉じる音がした。ロック音。外側からは開かない。もっとも、開いたところで戻る場所はもうない。
カナメは泥濘の中に立っていた。
社用のチューニックは搬出路のどこかで回収済みだ。身に着けているのは、六時間前に区画Cを歩いた時のカーボン繊維のジャケットとカーゴパンツだけだった。防酸コートはロッカーに残してきた。いや、もうあのロッカーにアクセスする権限がない。
酸性雨がジャケットの繊維を叩き始めた。pH四・二。肌に触れれば微かに痛む、あの雨だ。数時間前にはフードを下ろして頬に受けた同じ雨が、今度は逃げ場のない現実として降り注いでいる。
口座は凍結されている。通信端末のICチップは無効化済み。生体IDが停止した人間は、この都市のあらゆるインフラから透明になる。自動ドアは開かない。配給端末は反応しない。医療施設のトリアージAIは、IDのない人間を患者として認識しない。存在しているが、存在していない。データベースの上では、カナメはすでに都市から消去された一行だ。
区画Cと、同じように。
カナメはその対称性を、泥の中で静かに、だが腹の底が煮え返るような怒りとともに認識した。自分が良かれと思って構築したシステムは、都市の存続という名目のもとに、スラムを巨大な実験場と臓器農場に変えるための道具にされていた。そして、その理不尽な欺瞞に怒り、初めて人間として間違ったシステムに「ノー」を突きつけた自分自身もまた、あっさりと「バグ」として排除された。
計算機としてのノイマンの判断に、企業的合理性という意味においては誤りはない。無能な正義感は排除される。
完璧な因果だった。非の打ちどころがない。
——だが、それで諦めがつくほど、カナメの中に芽生えた感情は冷え切ってはいなかった。
酸性雨が髪を伝い、頬を流れ、顎の先から泥濘に落ちた。遠くでネオンが明滅している。
カナメはゆっくりと顔を上げた。視線の先に都市の輪郭がある。上層は遥か頭上、光の届かない高さで冷たく輝いている。あの光の中に、やつらがいる。十二万人の命を実験台にし、笑いながらシステムを回している。
泥水に沈んだ右手。承認キーの上で躊躇い、震えていた指が、今は強く握り込まれ、固い「拳」を作っていた。
だが、その拳を叩きつける場所など、この泥の底のどこにもない。システムに異を唱えたはずの自分は、結局何も守れず、誰の命を救うこともできず、ただすべてを奪われただけだった。
上層の無機質な光が、無力な「ノイズ」となって底辺に叩き落とされたカナメを、ただ冷たく見下ろしている。
圧倒的な世界の理不尽に対するやり場のなさと、骨の髄まで沁み込むような無力感。腹の底で煮え滾る憤りだけが、冷たい酸性雨の中で、カナメをかろうじて立たせていた。
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