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『ノイズ・イン・ザ・システム〜「あたしを見捨てなかった神様へ」と笑う狂犬を連れて、元企業エリートはどん底から世界を壊す〜』  作者: はーまやー


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8-4.鉄壁の城と、招かれざる猛獣

城壁が高いほど、中にいる者は外を見なくなる。

そして猛獣は、いつも城門から入ってくる。

 異変は、音から始まった。


 それも、あるはずのない音だった。


 旧変電所の防爆扉——厚さ十二センチの鋼板にマウスが三重の電子ロックをかけた、この拠点で最も硬い一枚が、重いモーターの駆動音を立てて動き始めた。


 マウスが最初に気づいた。作業台に突っ伏して眠っていた体が跳ね起き、モニターに目を走らせた。


「——は?」


 吃音すら出なかった。画面に表示されているのは、防爆扉の制御ステータスだ。ロックの三層すべてが解除されている。アラームは作動していない。侵入検知も、異常電流の感知も、リリの常時監視AIも——何一つ反応を返していない。すべてが「正常」を示したまま、扉だけが開いている。


「そ、そんな……リリ、何で反応してない——リリ!」


 モニターの隅でリリのアバターが瞬いた。だが応答がない。AIの処理が止まっているのではなく、何かによって「異常を異常と認識しない」状態に書き換えられている。マウスが構築した暗号レイヤーを、アラームの一つも踏まずに通過した何者かがいる。


 防爆扉が、ゆっくりと開いていく。


 鋼板の隙間から、煙草の煙が流れ込んできた。合成煙草ではない。上層の正規品だけが持つ、乾いた葉の焦げる匂い。


 レイナが動いた。


 椅子から跳ね上がり、マチェットを抜くまで一秒もかからなかった。左腕の義体が刃を握り込み、サーボが臨戦の周波数で唸る。NAS-07が自動で神経加速の待機状態に入り、レイナの瞳孔が収縮した。


 防爆扉が完全に開いた。


 一人の男が立っていた。


 黒の細身のスーツ。仕立ては上層の高級テーラーのものだ。スラムの地下には不釣り合いな、皺一つない生地が蛍光灯の下で鈍く光っている。左手に煙草を挟み、紫煙を細く吐きながら、男はゆっくりと歩み入った。護衛はいない。武器も見えない。たった一人で、マウスのセキュリティを無音で抜いて、ここにいる。


 シノノメ。


 血盟会の若頭。スラム最大の暴力組織で、実質的な最高戦力と呼ばれる男。


 カナメはシノノメの顔を知っていた。情報として。データとして。だが、実物が目の前に立ったとき、データにはなかった情報が一つ、カナメの体に直接入ってきた。


 空気が、重い。


 物理現象としての重さではない。だが旧変電所の地下室の空気が、シノノメが一歩踏み入れるごとに粘度を増していくのを、カナメの皮膚は感じている。人間一人が放つ気配が、部屋の温度と酸素濃度を変えるはずがない。だが体がそう報告している。呼吸が浅くなる。背中に汗が滲む。


 レイナが、止まっていた。


 マチェットを構えた姿勢のまま、一歩も動けずにいた。義体の左腕が微かに震えている。NAS-07は起動待機中だ。神経加速をかければ、三歩の距離を一秒で詰められる。だがレイナの足が、床に縫い止められたように動かない。


 本能だ。


 レイナの体は、殺し合いの中で研ぎ澄まされた生存本能で動いている。その本能が、全力で警報を鳴らしている。前に出るな。踏み込むな。あの距離を詰めようとした瞬間に、自分は死ぬ。マチェットが届く前に、この男は自分を殺す。根拠はない。だが全身の神経がそう叫んでいて、レイナはその叫びに逆らえなかった。


「——ッ」


 レイナの歯が鳴った。恐怖ではない。自分の体が自分の意思に従わないことへの苛立ちだ。だが足は動かない。義体の指がマチェットの柄を軋ませるほど握り締めているのに、それ以上のことが何もできない。


 シノノメは、レイナを見なかった。


 構えられたマチェットを視界にすら入れず、まるで自宅の居間を横切るような足取りで地下室を歩いた。作業台の横を過ぎ、モニターの列を一瞥し、それから——旧変電所の中央に置かれたソファの前で立ち止まった。


 腰を下ろした。


 足を組み、煙草を一服吸い、紫煙を天井に向けて吐いた。それから初めて、カナメの方を見た。


「——素晴らしいお城ができましたね、カナメくん」


 声は穏やかだった。丁寧な敬語。微笑みすら浮かべている。敵意は見えない。だがその穏やかさが、かえって異常だった。他人の城に無断で踏み込み、セキュリティを無力化し、最も深い場所に座り込んで、笑っている。それができる人間の余裕が、この部屋にいる全員の喉元に刃を当てている。


「監視網も、暗号化のレイヤーも、なかなかの出来だ。あのAIも優秀です。正直に言って、感心しました。南ブロックでこれだけのものを組み上げた新興勢力は、ここ数年で初めてじゃないですかね」


 カナメは動かなかった。


 動けなかった、と言うべきかもしれない。頭は猛烈な速度で回っている。血盟会や鉄蜘蛛クラスの巨大組織に目を付けられれば、遅かれ早かれ自分たちの防壁など何らかの手段で突破されることは理解していた。だが、あまりにも早すぎる。あの「錆びた鎖」の拠点を潰してからわずか数時間。それに加えて、たった一人でマウスの三重ロックとリリの監視を無音で抜けてみせたという事実。


 そして何より、カナメの計算を狂わせたのは目の前の男が放つ「暴力」の次元だった。神経加速装置を持つレイナが本能の警報に縛られて一歩も動けないという事実が、シノノメの戦闘力が彼女に匹敵、あるいは完全に凌駕していることを証明している。


 数時間前に思い描いたシステム拡張の青写真が、音を立てて崩れていく。


 だが、カナメの冷徹な思考の奥底には、まだ一つだけ死んでいないコードがあった。レイナにすら話していない、万が一の破綻に備えて仕込んでおいた「秘策」。今、カナメが為すべきことは一つだけだ。目の前の猛獣に、その切り札の存在だけは絶対に悟らせてはならない。


「……何の用ですか」


 カナメの声は、平坦だった。震えてはいない。だがそれは、感情を制御できているからではなく、声を出すことに全神経を注いでいるからだった。


 シノノメは煙草の灰を床に落とし、穏やかに微笑んだまま答えなかった。


 その沈黙の中で、カナメは理解した。


 自分たちは最初から、猛獣の庭の中にいたのだと。

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