8-3.広がる噂
勝利は麻薬だ。
最初の一服が一番うまくて、一番危ない。
南ブロックの酒場は、どれも似たような造りをしている。
廃材で組んだカウンター、合成アルコールのタンク、天井に這わせた裸の配線。客の顔を照らしているのは、色温度のばらばらなLEDパネルの光だけだ。そういう場所に、噂は水のように溜まる。
「錆びた鎖」が消えた。
それ自体は、スラムでは珍しくない出来事だった。半グレの組織が潰れる。よくある話だ。だが今回は様子が違った。
「——カメラに何も映ってねえんだと」
カウンターで安い蒸留酒を舐めていたチンピラが、隣の男に声を落とした。
「錆びた鎖のアジト、あそこ監視カメラ六台あっただろ。全部死んでた。電力も通信も、全部落ちてた。で、朝になって見に行った連中が何を見たと思う。三十二人。全員バラバラだ。刃物でやられてる。銃創は一つもねえ。一晩で三十二人を、刃物だけで」
「嘘だろ」
「嘘じゃねえよ。しかも薬も金も武器も、全部きれいに持ち出されてる。死体だけ残して。——プロの仕事だ。しかも、誰がやったか誰もわからねえ」
酒場の空気が、少しだけ冷えた。
南ブロックには組織の噂が絶えない。だが名前のない組織の噂は、名前のある組織の噂より怖い。敵が見えないということは、どこにいるかわからないということだ。自分の隣にいるかもしれない。今この酒場にいるかもしれない。
「シャドウ・バンク、っつう名前だけは出回ってる。だが顔も人数もわからねえ。幽霊みてえな連中だ」
チンピラは蒸留酒を一気に煽り、グラスをカウンターに叩きつけた。手が震えていた。
南ブロックの裏通りで、その名前は急速に浸透し始めていた。事実よりも恐怖のほうが足が速い。三十二人が一人に殺された。カメラにも通信にも痕跡がない。資産だけが消えた。尾ひれがつき、規模が膨らみ、やがて「あの区画には近づくな」という暗黙の境界線が、誰が引いたわけでもなく生まれていく。
カナメが欲しかったのは、まさにそれだった。
*
旧変電所の地下。
作業台の上に、場違いなものが並んでいた。ケーキだ。合成クリームの安物ではなく、上層の正規パティスリーから取り寄せた本物のバタークリームケーキ。それに真空パックの牛肉、果物の缶詰、マウスが個人的にリクエストした特注の冷却ジェルパッド(長時間のハッキングで手首が腫れるらしい)。全て、錆びた鎖から回収した軍資金で購入したものだ。
マウスが、ケーキの箱を開けた瞬間に目の色を変えた。
「ほ、本物のバタークリーム……これ、じょ、上層の『メゾン・リーフ』のやつじゃないですか……い、いくらしたんですか」
「錆びた鎖の薬の売上から出してる。お前の取り分だ。好きに食え」
「と、取り分……っ」
マウスは震える手でフォークを握り、ケーキの角を切り取って口に入れた。咀嚼した瞬間、目が潤んだ。スラムの人間が本物のバタークリームを食べる機会は、一生に何度もない。マウスはそのまま無言でケーキに没頭し、モニターの隅ではリリが「おいしい?」とテキストを表示していた。
レイナは食べなかった。
ケーキの箱には見向きもせず、カナメが座っている椅子の横の床に、そのまま座り込んでいた。肩をカナメの膝に預け、目を閉じている。返り血はとうに洗い落としているが、左腕の義体の関節部にはまだ薄く鉄の匂いが残っていた。
「……アンタ、食わねェの」
「後でいい」
「ふうん」
レイナはそれ以上何も言わず、カナメの膝に頭の重さを預けたまま動かなかった。殺戮の後に、この位置に戻ってくる。それがレイナにとっての「帰還」だった。基地に戻ることでも、飯を食うことでもなく、カナメの体温が届く距離に座ることが。
カナメはレイナの頭を払いのけなかった。邪魔だとも言わなかった。ただモニターの上に展開された南ブロックの地図を見つめたまま、右手でケーキのフォークを取り上げ、一口だけ食べた。
甘かった。当たり前だ。本物のバタークリームは甘い。
*
宴が緩やかに散り、マウスが作業台に突っ伏して眠った後も、カナメはモニターの前にいた。
画面には南ブロックの全域マップが表示されている。シャドウ・バンクの制御下にあるインフラが、青いドットで点灯している。一週間前にはゼロだった青が、今は南ブロックの東側を薄く覆い始めている。
数字を確認する。
回収した資産の総額。現在の人件費と維持コスト。キネへの支払いスケジュール。マウスのシステム拡張に必要な追加機材の費用。全てが黒字で回っている。初動としては理想的な滑り出しだ。
だが、カナメの頭の中で回っているのは足元の数字だけではなかった。
今夜の作戦で確認できたことがある。マウスの電子戦は、相手の通信と監視を完全に殺せる。システム通りに動く末端人員は、言われた通りに道を塞げる。そしてレイナは、三十二人の武装した人間を四分で肉塊に変えられる。
この三つの層が噛み合えば、相手の規模が倍になっても結果は変わらない。通信を潰し、逃走を塞ぎ、中身を壊す。手順は同じだ。スケールが変わっても、構造は変わらない。
だが、カナメは同時に己の足元を冷静に測ってもいた。
かつて彼が統括していた「オルビット」の中枢AIシステム。あの巨大で完璧な城と比べれば、手元の「シャドウ・バンク」などまだ泥遊びに等しい。スラム最大の連合組織である血盟会や、巨大な武装集団である「鉄蜘蛛」。彼らのような最大勢力に今の時点で目をつけられれば、一瞬ですり潰される。規模も練度も、システムとしての完成度も、遠く及ばないことなど計算するまでもない。
だからこそ、必要なのは「静寂」だった。
今日のような完全な情報封鎖と一掃の作戦を繰り返せば、噂だけを先走らせながら、誰にも実体を掴ませずにシステムを拡張できる。自分たちが彼らの脅威となる水準まで、南ブロックの暗部で気付かれないように、この歯車を回し続ければいい。
見つからなければ、壊されない。
その確信が、冷徹な計算の帰結としてカナメの中に灯っていた。完璧な情報統制。完璧な分業。投入したリソース以上の利益を生む構造。この拠点の存在をスラムの巨大な獣たちに隠し通したまま拡張していけば——
膝の上で、レイナが寝息を立てていた。
左腕の義体が、カナメの脚に重い。その重量だけが、今この地下室で唯一の物理的な現実だった。
カナメはモニターの光に目を細めた。青いドットが、南ブロックの地図の上で少しずつ増えていく。
嵐が来ることを、まだ誰も知らない。
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