4-2.スラム支配の三つの歯車
──支配とは、王座に座ることではない。全員の損益を、自分の手の中に収めることだ。
カナメは空になったコーヒーカップを机の端に退け、複製した記憶ドライブを手に取った。中身が因縁の『区画C』関連機密であることは分かっている。ノイマンたちオルビットのようなメガコーポは、表向きはあくまで健全でクリーンな企業という顔を持っている。非人道的な実験の記録が明るみに出れば、都市外の勢力や中層の他企業群から一斉に非難を浴びる。社内抗争においても弱みとして致命的だ。メガコーポの腹を内側から食い破る、極めて巨大な爆弾になる。
だが、今のままでは使えない。
「レイナ」
「ん」
レイナはマットレスの上であぐらをかき、義体の左手で自分の足首を掴んだまま顔を上げた。点検が終わったばかりの左腕は、まだ応急処置の段階だが、神経連動プラグの反応は正常値に戻っている。
「暴れるだけでは何も変わらない。スラムのゴミがどれほど真実を喚き散らそうと、データの信憑性を疑われ、握り潰されて終わりだ。有象無象には協力者すら作れない」
「知ってる。だからアンタがいるんだろ」
「そうだ。この爆弾を上層に突きつけるには、メガコーポを対等な交渉のテーブルに引きずり出すだけの『身分』がいる。中層で正規の企業や組織を立ち上げ、表社会のプレイヤーとしての顔を持たなければならない」
「中層? あたしたち、市民IDすらないスラムのネズミじゃん」
「それを獲得するんだ。そのためにも、まずは下層そのものを盤面として支配し、踏み台にする必要がある」
レイナは首を傾げた。理解というよりも、カナメが何かを語り始めた、という事実のほうに反応している顔だ。犬が飼い主の声のトーンに耳を澄ますのに似ている。
カナメはデータコアを机の上に戻し、端末を起動した。ひび割れた液晶に、自作の簡易マッピングツールが表示される。下層の縄張り図、物流ルート、主要ギャングの勢力圏。半年かけて蓄積したデータだ。
「中層へ上がるための力と身分をスラムで構築する。それには、三つの歯車が必要だ。一つでも噛み合わなければ、俺たちの組織は回らない」
カナメは液晶の上に指で三つの円を描いた。
「第一に『暴力と恐怖』。お前の存在だ。相手をテーブルにつかせ、手を出せば割に合わないと分からせる防壁になる」
「あたし、壁なの? まぁ、確かにこっちは結構デカい自信あるけど」
レイナは嬉しそうに歯を見せながら、自分の豊かな胸をわざとらしく強調した。
「物理的な体積の話はしていない」
カナメは呆れたように一拍置き、指を二本目に移した。
「第二に『金』。お前の義体を動かすだけで月に三十万かかる。加えて弾薬、情報網の維持費、お前の酒代と娯楽費だ。金が尽きれば暴力は止まり、すべてが終わる」
「酒は立派な燃料だろ」
「そういうことにしておいてやる」
カナメは小さく息を吐いた。
「そして第三に『信用とネットワーク』だ。スラムのドブネズミ一匹がメガコーポを脅迫したところで、握り潰されて終わる。だが、俺たちの下に情報屋や運び屋がぶら下がり、スラムの裏流通を握る『組織』になれば話は別だ。無視できない顔役として、中層の企業すら交渉のテーブルに引きずり出せる」
レイナが大きく伸びをした。
「要するにさ。アンタが全部計算して、足りないとこをあたしがぶっ壊して奪ってくればいいんだろ?」
「端的に言えば、そうだ」
「簡単じゃん」
レイナは笑った。システムの複雑な最適化など、おそらく三割も理解していない。だがカナメが長い時間をかけて「計画」を語ったこと、その計画の中に「お前が必要だ」と明言したこと、それだけでレイナの表情は曇りなく晴れていた。
「まずは組織の第一歩、中層へ繋がる人脈の開拓だ」カナメは端末をポケットに収めた。「この記憶ドライブの暗号を解くには、ただの技術者ではなく、腕利きのハッカーを見つける必要がある。だがそういう本物は表に出ない。紹介を頼めるほど顔が広く、実力を正しく査定できる人間が必要だ。心当たりが一人いる」
「誰」
「ジャンク屋のキネ。南第三ブロックで最も太いパイプと顔の広さを持つ老婆だ。口は悪いが目利きは確かで、どのギャングとも等距離を保っている」
「あー、あのクソババア。あたし前にあそこでパーツ買った時、ボッタクられた」
「つまり面識はある」
「ボッタクられた面識だけどね」
「充分だ。行くぞ」
カナメは立ち上がり、防酸コートのフードを被った。記憶ドライブをジャケットの内ポケットに収め、端末を確認する。キネの店までのルートは三通り。最も安全な経路は、縄張りの境界を二つ跨ぐが、いずれもカナメたちと敵対していない組織の管轄だ。
レイナが渋々マットレスから立ち上がり、Tシャツの上から戦闘用のジャケットを羽織った。裏地に仕込まれたケブラー繊維が肩と胸を覆う。腰のホルスターに愛用の大口径リボルバーを差し込み、背中のハーネスにマチェットを固定した。刃は昨夜の戦闘で半ばから折れたままだ。手に入れた大金で既に上質な特殊鋼の刃を闇市場に特注しているが、手元に届くのは三日後になる。
「よし」
レイナが義体の左拳を握り開きした。サーボモーターが控えめに唸る。完全ではないが、動く。それで充分だ。
「行くぞ、駄犬」
カナメが言った。振り返らず、コンテナの二重ロックを解除する。
レイナの右目が光った。呼び名がどれほど無愛想でも、カナメが自分を連れていく。それだけで、この女の世界は完結する。
「はいはい。あたしの散歩の時間ってわけだ」
コンテナの扉が開いた。酸性雨が二人の顔を叩く。灰色の空。錆びたパイプ。ネオンの明滅。冷たく、汚く、暴力で回る世界が、扉の向こうに広がっていた。
カナメは一歩を踏み出し、レイナがその半歩後ろに続いた。主人と狂犬。参謀と凶器。全く噛み合わないはずの二つの歯車が、泥水の中で回り始めている。
三つの歯車。その最初の一つを回すために、二人は酸性雨の中へ消えた。
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