第三十話 たった二歩、大きな一歩
門番と目が合って。
いきなり、私の足は動かなくなった。
本当に、いきなり。
その変化に自分が驚きながらも、全身には力が入り、震える指先を誤魔化すように拳を握った。
私の足が止まったことを不思議に思ったのか。エリゼオがそんな表情になって、大きく一歩を踏み出した。
それに合わせるように……いや、門番の視線から逃げるように、私は俯いて、自分の足先を見つめていた。さっきまで軽快に動いていたはずの足が、嘘みたいに動いてくれない。
頭の中では、ずっと、大丈夫と言い聞かせている。
大丈夫、大丈夫。今日は、出れる。あの日とは違う。今日は、出なければならない日だ。私が行かなければ、お嬢様も引き返すことになる。
そんなことをしたら……お嬢様に不都合となる。そんな、悪い行動を取ったら。
そこまで考えて。けれど。しかし。
……今日、私が行くことを、お嬢様は望んでいないのだと思い直す。
つまり。ここから出ても。出なくても。
私の存在自体が、お嬢様にとっては望まぬものだということで……
そう考えた途端、あの日の……九歳の頃の絶望が蘇ってきた。
つま先から、じわじわと体温を奪われるかのように。私の体が侵食されていく。
いつもはお嬢様と一緒に馬車に乗って出るから。この足で門を越えようとするなんて、あの、九歳の時以来だった。
だから、なのだろうか。
あの日のことが。早朝の言い争いから、走って逃げ出して失敗したことの記憶が、鮮明に頭の中に蘇ってくる。
どう……すれば、いいのだろう。
進もうが戻ろうが。その先は真っ暗闇のように思えた。
そんなことはない。顔を上げれば、エリゼオがいる。それは、分かっているのに。
体が動かせない。動いてくれない。
せっかく、前向きになれそうだったのに。
私の奥底にある絶望が、あの頃を忘れるなというように、私を止める。
「はっ……はっ……」
息が上がる。でも、どうにもできない。
どう、しよう。どうしたらいい?
ドクドクと耳の奥で音がして。自分の荒い呼吸も霞んでいくようで。
どうしよう。何をすれば。どうすれば。
そればかりが、浮かんで。視界が滲み、汗が垂れる。
空気を吸い込みたいのに、体は丸まって、息はしづらくなる一方だ。でも、生きるために、必死に息をして──
「ジェイラ」
正面から。
私の名前を……大事に大事に呼んでくれる、声がした。
「ジェイラ、大丈夫だ。俺しかいないから、顔上げて」
エリゼオしか、いない。その言葉を信じてゆっくりと顔を上げたら、私の少し前に、エリゼオがいる。
「汗がすごいな。汗拭いたら、一緒に出よう」
「…………一緒、に……」
「うん。一緒に。俺一人だと迷子になるかもしれねぇし」
にこりと笑うエリゼオは。
初めて会った日の、眩しい笑顔を、私だけに向けた。
「それに俺、こんな機会だけどジェイラと出掛けられるのはラッキーだと思ったんだ。ジェイラがいるって聞いたから、仮病使わずに来ようって決めたしな。まぁ、デートにできなかったのは残念だけど」
そうして、片手が差し伸べられる。
「今日は、その下見。一緒に行こうぜ、ジェイラ」
それは、たったの二歩分。
「…………」
たった、二歩だ。
その距離に、足はずっと、震えているけれど。
目の前には、私を待ってくれている人。
歩くことを、進むことを、一緒にと、言ってくれる。
あの日は、許されなかった。出られなかった。
でも、今日は違う。今は違う。一人じゃない。
動け! と頭の中で、九歳の私が叫んだ気がした。
この絶望にのみこまれないためには、自分から進まなければならない。きっと、今の私にならできる! と……背中を押してくれている気がしたから。
「……行く。行きます。私も、行きたい、です」
荒い息はそのままに、私は右足を上げる。思ったよりも上がらずに、すり足みたいになったけれど、ちゃんと一歩を踏み出せた。もう一歩。あと、一歩。
じわりと涙が滲んだ。あと一歩、の、一歩が、出ない。
ちゃんと、一歩目は出せたのに。もうすぐ、届くのに。
なんで。なんでなんで。
あと一歩、なのに。
「ジェイラ、ゆーっくり息して」
……息を、する。吸って吐いて。
「そう。上手。大丈夫。ちゃんと進んでる。すげぇよ。めちゃくちゃかっこいい」
エリゼオは笑う。
待ってくれる。
怒らずに、いてくれる。
「エリゼオ様……」
「おう。来い、ジェイラ!」
エリゼオの笑顔はまるで太陽だ。
曇りきった私の内側を晴れ渡らせるみたいに、オレンジがかった瞳が光に照らされキラキラと輝く。
この人の手を、取りたい。
この人と一緒に、歩きだしたい。
エリゼオの笑顔を、ずっと、見ていたい。
そのためには、踏み出さなければ。
私が、変わらなければ。
進め。恐がるな。大丈夫。あの手を、掴んで……!
この瞬間だけは、息を止めて。
これまでよりずっと、力を込めて足を動かした。
踏み出した一歩は、きっと生きていた中で一番、大きな意味のある一歩だ。
そしてすぐ目の前。私を待ってくれていた大きな手のひらに、自分の手を重ねて──
エリゼオの手と自分の手が重なった瞬間に。
強く握り返され、そのままぐんと体が引っ張られた。その力に身を委ね、私は正面からエリゼオに抱きしめられる。
「さすが! やっぱりすげぇよ、ジェイラは!」
両腕でしっかりと抱きしめられ、私の呼吸を落ち着かせるようにトントンと背中をゆっくりと軽く叩かれる。
その手に合わせて深呼吸をして息を整えると、体は自然と離れていた。
「……いきなり、ごめんなさい。お待たせしました」
「全然。最高だったから気にすんな」
「最高?」
「ジェイラが自分から俺のとこに来てくれたんだ。最高に決まってんだろ? めっちゃくちゃ気分がいい」
はい、汗拭こうな、と彼は取り出したハンカチで私の顔の汗を拭う。見たことのないハンカチは、エリゼオの私物だろう。
涙は流れる前に止まっていたけど、目元は親指で確認するように撫でられた。
「よし。準備万端。歩けそう?」
「はい。大丈夫、です」
「歩くの早かったら遠慮せず言って」
「はい」
返事をしたら、エリゼオの片腕が出された。
「俺の初エスコート。受けてくれませんか?」
おどけて言うエリゼオだが、その表情も眼差しもとても優しい。
「……喜んで。私も初めてなので、変な動きをしてしまったらすみません」
「初心者同士、ゆっくり行こうぜ」
歯を見せて笑ってくれたエリゼオと、同じ歩幅で一歩ずつ進む。途中でプフェルトの手綱を持って、二人と一頭で門を出た。
エリゼオが行ってきます、と門番に挨拶をして、私は頭を下げた。門番からは、お気をつけて、と返された。
「汗かいてたし、もしも寒くなったら言って。俺の服貸すから」
頷いたら、あっという間にプフェルトの上。そして目に映るのは、手綱を握る私の手を、上から握るエリゼオの大きな手。
背中にはエリゼオ。安心する温度に、小さく息を吐く。
「そんじゃ、出発しますか」
「はい」
「プフェルト、よろしくな」
「よろしくお願いします」
プフェルトはゆっくりと歩きだし、徐々にスピードを上げた。流れ行く景色が早い。
それでも恐くはなかった。エリゼオの体温を感じられて、私を囲う両腕には守られているような気分だったから。
移動中、あまり会話はなかった。門の前での私の挙動を、エリゼオは聞かずにいてくれた。
……もしかしたらエリゼオは、私の過去のことを誰かから聞いているかもしれない。エリゼオが知っているなら、ラフィクも知っているだろう。
けれど、過去を知っていたにせよ、動かなくなった私を急かすことも怒ることも呆れることもせずに、自分から行動できるように見守ってくれた。できるように励ましてくれて、できたら褒めてくれた。
そんな人、今までいなかった。
私は今日、間違いなく、エリゼオがいたから踏み出せた。
どんどんと私の中でエリゼオの存在が大きくなる。
もっとずっと、こうやっていられたらいいのに。そんな願いが心の中を占めた。
この腕の中にいたいと……贅沢にも願ってしまう。
けれど、それが叶わないのは分かりきっている。
もう少しで目的地に着く。そこにはお嬢様もいて、エリゼオはお嬢様のエスコートをすることになるのだろう。
私はそれを見ていなければならない。それは、旦那様からの命令だから。
そうでなければ……見ていたいなどとは絶対に思わない。
チラリ、と。少しだけ、後ろを振り向いた。
するとエリゼオの顔がすぐそこにあって、一拍、ドクンと心臓が跳ねる。
「どうした? 大丈夫か? ゆっくり行く?」
「いえ、大丈夫です」
「無理すんなよ。俺はゆっくり行きたい」
そんなことを、言ってくれるから。これ以上ゆっくりになったら、それこそプフェルトは歩いているようなものだろう。
エリゼオの言葉は、二人でいられる時間が長ければいいのに、と言外に伝えてくれているようで……
高鳴る心臓が心地好かった。
出発前に、反省したばかりだ。今日は仕事で来たんだ。
私に課せられたのは、お嬢様から目を離すな、ということ。
ここで思い出したのはミルヤミだ。彼女のように、自分にも仕事にも誇りを持つには……
与えられた役割を完遂しないことには、自己主張だって許されないだろう。だから、ちゃんとやってみせる。
大丈夫。私は踏み出せたから。きっとあの二歩分、強くなれた。あの二歩で強くなった私を抱きしめてくれたのは、他の誰でもない、エリゼオだ。
だから大丈夫。傷つくことなんてどこにもない。
そんな決意を固めたところで、公園が見えてきた。
エリゼオは、公園に入る手前でプフェルトを止める。エリゼオに手伝ってもらってプフェルトから降り、プフェルトにありがとう、と言いながら撫でると擦り寄ってくれた。
エリゼオを真ん中にして進むとすぐ、前方にザックガード辺境伯家の馬車が停まっているのが見えた。
お嬢様はもうどこかを歩いているだろうか、と考えていると、ジェイラ、とエリゼオから呼ばれる。その横顔は前を向いたまま、少しだけ唇が尖っていた。
「……公園の中だと、あんま話せないと思う。それに……エスコートとか、させられるだろうから。そこは見ないでほしい」
見ないでほしい、というのは。残念ながら、聞けない望みだった。
「旦那様に、お嬢様から目を離すなと言われておりますから、見なければならないんです」
「……そっか。そうだよな。ごめん。変なこと言って」
「旦那様の命令は絶対なので……でも、その命令を守りながらエリゼオ様との約束も果たせるから、良いんです」
「……約束?」
「はい。見てて、と前に言ってくださったじゃありませんか。旦那様の命令も守れて、エリゼオ様との約束も果たせる。それは、私にとっては素晴らしいことです」
ただ、見てるだけじゃない。命令を聞く中に、少しの楽しみを見出だせるなら。
「どんなエリゼオ様も見ておりますから」
それは、本心だった。
エリゼオの隣が私ではなくても。
話したい、エスコートしたいと言ってくれた彼を見落としたくない。
そう言った私に、エリゼオは小さく笑った。
「……見てくれるのは嬉しい、けど。差し入れの時みたいに解剖されそうでちょっとそわそわすんな」
「解剖?」
「俺の考え筒抜け、みたいな」
「筒抜けまでは」
「いやいや。でも、そうか。見ててもらえんなら、何考えてるか当ててもらうのはありだな。それなら楽しめそう。ジェイラ、やっぱり、俺のこと見てて。後で俺が何考えてたか、答え合わせしよ」
「全問正解を狙いますね」
「やっぱ解剖すんじゃん。あ、でも、俺が困ってそうだったとしても、あんまあの人には強く言わなくていいから。後ろにうるさいのがいるし」
あの人、がお嬢様で。うるさいの、は護衛騎士のことだろう。
……恐らく。
「俺は大丈夫だから。ここで色々言ってくれて、ジェイラは離れてろとか言われる方が俺は嫌」
「……大丈夫ですか?」
「いざとなれば腹が痛くなる予定だから。看病して」
「承知しました」
作戦会議みたいになったそれに、二人で顔を見合わせてくすりと笑った。
「ラフィク様の知恵も入ってますか?」
「ほぼあいつ。色々パターンとか言い回しとか覚えさせられた」
「さすがですね」
「おかげで寝不足だわ」
エリゼオが大きく欠伸をし終わったところで、私達は馬車の停車場に着いた。そこには御者がいて、お嬢様は既に公園の中にいると言われた。
プフェルトを御者に預け、エリゼオと二人、噴水へと向かった。
邸内では遠慮していたというように、お嬢様はエリゼオにべったりとくっついて歩いた。
エスコートに慣れていないエリゼオは、恐る恐るといった足取りでお嬢様に引っ張られながら歩く。足を踏まないか心配なのだろう。
もう少し距離をおいてください、と頼むエリゼオの言葉も、危ないので適度な距離をお保ちください、と言った私の言葉も、もう十回はお嬢様に無視されていた。
私はお嬢様とエリゼオの後ろにいる。私の後ろには騎士二人が。
私がお嬢様に離れるよう言う度に、後ろからは舌打ちが聞こえてきて、その度にひやりとして体に力が入った。
しかし前を向けばエリゼオがいる。後ろのことは極力気にしないようにしていたら、そのうちに噴水の前までやってきた。
そこは見事に咲き誇った花々が、噴水を取り囲み色鮮やかな景色となっている。
「……これは確かにすごいですね。王都にもこんなとこはなかなかないんじゃないかな」
「そうなのね。今度はエリゼオに王都をエスコートしてほしいわ」
「いや、俺はそこまでできるほど詳しくもないし、エスコートも上手くないんで……」
「大丈夫よ。私が教えてあげるから」
いやいやそんな、と言いながらも進む二人。追いかける私達。
はたから見たらどう見えてるのかな、と思いながらも。花の香りに包まれると、それだけで気分は浮上しそうだった。
ずっと機嫌良く話すお嬢様は、私から見てもとても可憐で可愛いご令嬢。これがきっと、お嬢様本来の姿。
あの笑顔に領民も明るい未来を思い描き、お嬢様の幸せを願うのだろう。
しかし、私はそれができそうにない。
エリゼオには見ておく、と言ったのに。お嬢様の手がエリゼオの腕に絡んでいるところも。歩幅を合わせてゆっくりと歩く姿も。お嬢様がエリゼオに向けて美しい笑顔を見せる時も。
すべて。下唇を噛みたい気持ちになる。
でも、見ると決めたから。私が、決めたんだから。
これはきっと意地でもある。
この現実から逃げてたまるものか、と。そう思い始めた自分もいて、目を逸らしたくはなかった。
まるで対抗心のように燃えるこの思いを、私は捨て去ろうとは思わなかったし、その必要だってないと思えた。
だって……お嬢様がエリゼオを好きになれと言ったんだから。
この対抗心は間違ってない。持って当然のものだ。
その言い訳を思い浮かべて、私は今、自分の中にある感情をはっきりと自覚し──
「おねえちゃぁーん!」
子供の大きな泣き声に、私の思考も視線も奪われた。




