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第二十一話 オレンジ



 今日も差し入れを作るべく、昼食のタイミングで厨房にこもり、一人で作業しながら頭の中では別のことを考えていた。


 それは、最近のエリゼオとのことだ。


 エリゼオとはあの桃の焼き菓子を渡した日以降、よく話をするようになった。その時には、お礼に感想に、言い過ぎなくらいの褒め言葉に。時間があればちょっとした立ち話もする。

 部屋の家具の配置の違いとか、二人部屋の様子とか。そういう違いを話すこともあって、これが雑談、というものなのだな、なんて思ったりした。

 私の部屋が角部屋だと話すと、じゃあ夜にこっそり話せるな、とも言っていた。


 レシピのメモを直接渡した際には、字が綺麗だな、とさらっと褒められ、ちょっと嬉しくなった。そしてラフィクを経由して材料をもらい、またラフィクに完成品を渡した日の夜。

 部屋の窓をコンコンコン、と叩く音がして返事をすると、小さな声でエリゼオが私を呼んだ。

 窓を開けると、彼は満面の笑みで窓の外に立っていた。 


「ごめんな。あんまりにも美味いから、いてもたってもいられなくなってお礼言いにきた。本当ありがと。めちゃくちゃ美味かった。しかも紅茶のやつまで入ってた。あれも美味かった」


 小声でもとても喜んでいることが伝わってきて、わざわざ言いに来てくれたことに胸が温かくなる。


「喜んでいただけて良かったです」

「美味すぎてあっという間になくなったんだよ。また食いたいから、お願いしても良い?」

「はい。いつでもどうぞ」


 そう答えた私に、エリゼオは驚いたようだった。

 私としてはおかしなことを言ったつもりはなかったのだが、何に驚いたのかと首を傾げる。


「……いつでも?」


 と彼も首を傾げた。


「私はいつでも大丈夫ですが……」


 そこまで言うと、エリゼオの手が伸びてきて、窓枠を掴んでいた私の手がエリゼオの手によって握られる。


「ジェイラさん」

「は、はい」


 いつもより真剣な様子に、思わず緊張すると……


「あんまり俺を甘やかしてはいけません」

「……はい?」

「ここで断っとかないと、本当に買ってくるんだけど。ジェイラの負担増やしたくないのに、食べたすぎる。どうしよう」


 これは……私を心配してくれながらも、期待が大きいということなのだろう。

 心配してもらえるのはありがたいが、このぐらいなら負担になんてならない。なにより、期待には応えたい、全力で。


「大丈夫ですよ。ぜひ、いつでもお待ちしています。次はもっと、桃を活かせるようなものを考えておりますので」

「……まさか、それは……新作……!?」

「はい。成功させてみせますから」

「やっべぇ楽しみだわ! ありがと!」


 それから少し話をして、巡回の騎士に見つかる前にエリゼオは帰っていった。彼に握られていた手が温かくて、しばらく私はその温度を逃さないために自分の手を握っていた。

 エリゼオの感謝の言葉は、とても心地が好かった。


 エリゼオと交流を持つようになると、ラフィクとも話をする機会が増えた。ラフィクは私達の間の橋渡し役を快く引き受けてくれた。

 ラフィクとの話題は、大体が彼の婚約者であるミルヤミのことだ。彼女の話をするラフィクはとても幸せそうに笑う。エリゼオには惚気は聞き飽きたと言われるから、私に彼女のことを聞いてもらえて嬉しい、とラフィクは言う。


 そうして話をするうちに、ラフィクからはジェイラちゃん、と呼ばれるまでになった。しかも手紙でミルヤミに私の話題を出し、ミルヤミからもジェイラちゃん、と呼んでもらえているそうだ。


 エリゼオとラフィク、そしてミルヤミ達三人のずっと繋がっている関係を羨む気持ちはあった。私にはどうやっても手に入らないものだからだ。

 しかしそれよりも、美しいものを見ているような清々しさが勝る。

 私には経験のない友情や愛情は、とても美しく感じられた。

 そして……誠に勝手ながら、私もその三人の輪の端っこにちょっとだけ混ぜてもらえている心地にもなっていた。



 エリゼオやラフィクとの会話を思い出すと、それだけでも 自分の中に彩りが増えていくような、そんな心境だ。ワクワク、といった名の感情が、つけられると思う。

 手際良く進められるようになった差し入れ作りも、これまでと明らかに違うのは、これをエリゼオが食べた時にどんな反応をしてくれるのかが楽しみになっているところだ。


 エリゼオは、お嬢様から受け取った後に必ず私の方を見て美味しい、と言ってくれる。私が作ったことを知ってからは、確実に私へと目線を向けているから、私も素直に頷いている。

 ここで声を出せない自分が情けないところではあるけど、エリゼオは気にしていないふうだから、彼の態度に私こそ甘えているのだ。


 ……エリゼオは私が言葉にせずとも態度で、行動で示してくれる。それがすごく嬉しいし、ありがたい。


 変わりたいと思っていても、どこまでも突き抜けられてはいない。でも、エリゼオはそんな私を待ってくれている……なんて、調子に乗りすぎた考えまで出てくるのだ。


「……私の方が甘やかされてるのになぁ」


 元気をもらうのも、勇気をもらうのも私だ。

 だから私も……彼に何か。彼のために何か、できることをもっとしていきたいのだけど。


 そんなことを考えていた時だった。


「お疲れー」


 聞き覚えのある声に振り向くと、なんと使用人棟の厨房にエリゼオが入ってきたのである。

 呆気に取られ、手に持っていたレモンが手から落ちる。


「ここで作ってたんだな。こそっとあっちの厨房覗いてもいなかったから、どこにいんのかと思ったけど。それ、差し入れだよな?」


 当たり前のように、彼は手を洗って私の隣に立つと、じっと私の手元を見つめて尋ねてくる。はい、と返事をすると。


「俺も手伝うから、やり方教えて」

「……手伝う?」

「そう。お手伝い」


 先ほど私の手から落ちて台の上に転がったレモンを掴んだエリゼオは、ちょっとしかめっ面になって私に差し出す。


「酸っぱいの以外でお願いします」


 そこは要求があるんだ、と思う。

 よく分からない状況ながら、こうも堂々と横に立たれては、私もそれを受け入れた方がすんなりいくのだろうと勝手に納得した。


「オレンジとか?」

「それならいける」


 エリゼオが手の平を上に向けて私へと出したので、とりあえず、オレンジを一つ手渡した。大きな手の平には、いくつかの傷跡がある。きっと剣などで切ったのだろう。強そうな手だった。


「これ、どうすりゃいいの?」

「この袋に入れて、こう……もむようにして潰していただければ」

「了解」


 私が渡した袋に、ぽいぽいといくつかのオレンジを入れて。

 大きな手で袋の上からオレンジを。


 グシャッと握り潰した。


「おお」

「おお」


 二人して、同じ反応をする。そのぐらい、一気に潰れた。


「これで合ってる?」

「はい。こんなに一気に潰せるなんて。すごいですね」

「これ、全部同じように潰していいんだな?」

「良いです。潰し終えたらここに入れてください」

「ほーい」


 エリゼオは楽しそうにオレンジを潰す。あっという間に終わって、残るはレモンを絞るのみとなった。

 私が絞るところじっと黙って見つめ、今度はレモンを見つめ……そうしてレモンを一つをその手に取り、ボウルの上でレモンを絞る。

 それはもう絞るというより、やはり握り潰す、で。

 あまりの強さに果汁は飛び散るし、私の時では何度かやらないと絞りきれないのに、たった一回で絞りきってしまった。


「けっこう散ったな。レモン汁ってより、俺の手の色々のが落ちて、俺汁になってそう」

「俺汁」

「美味いと思う?」

「う……うーん……」


 私が首を傾げると、エリゼオはフッと吹き出した。


「そこは否定していいぞ」


 笑ったエリゼオは機嫌良さそうに次のレモンを手に取る。


「あと何個?」

「それだけです」

「オレンジとレモンでできるの? というより、これってジュースかなんか作ってんの?」

「はい。オレンジの発注数を間違えたらしくて。余るそうなのでもらいました」

「へぇ。あれもそう?」


 辺りを見回したエリゼオが小さな山を作るオレンジを見つけた。それに私は、はい、と頷く。


「あれどうすんの?」

「余れば廃棄になるので、食べたい人が食べていいということになっています」

「じゃあさ、三つほど食べようぜ」

「三つ?」

「俺が二つで、ジェイラが一つ」

「私も?」

「俺一人で食べても寂しいじゃん」


 この間にも、私はオレンジとレモンを混ぜ合わせ、味を整えていた。エリゼオは色の良さそうなオレンジを三つ取ってきて、台の上に置く。


「よぉし、とりあえず食べやすい大きさだな」


 そう言って、まな板の上にオレンジが三つ。左手は腰。右手に包丁。左手は……腰?


「エリゼオ様!」

「ん?」


 頭の上まで振り上げられた包丁が、勢いよく振り下ろされる前に制止した。だめ、この人に、包丁を握らせては!


「あの、これ、味を確認していただけますか? レモンが多かったかもしれないので。オレンジは私が切りますから」

「え? あー……いいの?」

「はい。ですから、包丁をそっとまな板に戻してください」


 ほーい、と返事をして大人しく従ってくれたエリゼオは、そのままオレンジジュースを飲んで、美味い、と笑った。私も手早くオレンジを切って、お皿に盛ってテーブルに置く。

 厨房にも椅子があるのだが、エリゼオはいつの間にかそれを見つけていて二つ並べておいた。

 二人とも手を洗って、真ん中にオレンジのお皿を置いて、横並びに座って話をする。


「昼はもう食べてんの?」

「あ、いえ……まだ。というより、あまりお昼は食べれなくて」

「まさか、これの準備で?」

「いえ、これだけというわけでもないのですが……手際が悪くて、時間が取れないことが多くて」


 何だか悪いことをしている気がして縮こまると、エリゼオはそうじゃなくて、と私の言葉を軽く否定した。


「手際が悪いんじゃなくて、ジェイラが頑張り屋さんなんだよ」

「頑張り屋さん……」

「でも、やっぱり昼は食べた方がいいぞ。何か作業しながらでも食べやすいやつ、持ってこようか」

「持って……くる?」


 エリゼオがなぜ……私の昼食を持ってこようと?

 私が疑問を口にするより早く、エリゼオが答えをくれる。


「いっつも美味いもん食べさせてもらってるからな。そのお礼。どんな味が好きとかある?」


 ……その質問に、すぐに明確な答えが出せなかった。


 頑張り屋だと言われたことも。

 お昼を抜いていることをどうすればいいか、考えてもらえたことも。

 私の好きなものを、訊いてもらえたことも…………


「ジェイラ?」


 ザックガード領地に来て、初めてのことが一気に押し寄せて。返事が上手くできない。


「……あ、あの……」

「うん」


 相槌は、いつものエリゼオの声より、ずっとずっと優しくて、温かくて穏やかで。

 覗き込んできたつり目も、いつもの鋭い印象なんて、鳴りを潜めたように柔らかで。


「あの、好きな、味……」

「うん」


 私は……どんな味が、好き?

 どんなものが好き?


 私の、好きなものを、言っても良いの?


 許される状況だと、分かっているのに。

 数年間も考えずにいたから、頭の中には何も思い浮かばなくて。


「……あの、ごめんなさい」

「何で謝んの?」


 自分の好きなものすら言えない私に、呆れたりしないだろうか。せっかく聞いてもらえたのに、答えられなかったらもう話してもらえなくなるかもしれない。

 何かを答えたくてハクハクと口だけ動かすけれど、音にはなってくれない。


 どうしよう。何も思い浮かばない。でも、何か、言わないと……と、焦る私の肩にエリゼオの手が乗った。


「ジェイラは何も悪くないから、謝んなくていい。すぐに出てこなかったら、ゆっくり考えような。分かんない、でもいいんだし」


 肩を擦る手つきは、私を安心させるような優しいものだった。その手の温かさにゆっくりと息を吐き出し、彼の質問に答えを返す。


「……あまり、考えてこなくて……分かりません」

「そっか。じゃあ、まずは俺が選んだのを持ってきてみるか」


 それから試そうな、と笑ったエリゼオは、一つオレンジを手に取ると、あーんと私の口の前へと持ってくる。

 促されるまま口を開けて、オレンジを口の中に入れる。噛めばすぐに甘酸っぱい爽やかな味が広がった。


「美味い?」

「おい、しい」

「これは好きな味?」

「……好き、です」


 私が頷くと、エリゼオは目尻を細めて笑った。


「もう一個、好きを見つけたな」


 俺ももーらい、とオレンジを食べる。美味いな、と。もう一つ食べて、もう一つ。私が飲み込んだのを見ると私の口元にも持ってきて。

 オレンジ一つ分、エリゼオから食べさせてもらっていた。


「美味かったなー」


 エリゼオは……どうしてこんなに優しくしてくれるんだろう。

 胸がいっぱいになる。苦しい。胸が締め付けられるように、苦しくなった。


 けれど全然。まったく。これっぽちも。

 嫌じゃないし、痛くもないし、恐くもない。


 この苦しさは、どこからきて。何という名前で。


 それを知りたい。これが分かれば、私はもっとエリゼオと──


「あー毎日来たい。毎日来て、ジェイラに何か食べさせたい」


 私が一人思い悩んでいる途中で、その悩みをかき消すようなエリゼオの発言に意識を取られる。


 毎日来たい。毎日来て…………なにか、たべさせたい。


 その言葉が頭を巡って、やっと。先程までの自分とエリゼオの行動を理解した。


「たっ……!?」

「お、赤くなった」


 厨房台に片肘ひじをついて手に顔を乗せ、エリゼオはいつもより意地の悪い笑みで私を見つめている。エリゼオが足を開いて座っているから、その体の間に私がいるような状況だ。


 こんなに……座った距離は近かっただろうか。


「ジェイラの好きなもんをもっと探していこうぜ」

「好きなもの」

「そう。今日だったら、オレンジだな。まぁ、桃好きの俺としては? ぜひとも桃も仲間に入れてもらいたいけど」


 耳が……頬が、顔が、熱い。

 エリゼオの表情や眼差しに、胸がドキドキとうるさい音を立て始める。意地悪なのに……いつもよりどこか男らしいその笑みはかっこよくてズルいと思う。

 もういっそ目も耳も塞いでしまえば心穏やかになるのに、それはしたくなくて私はエリゼオを見つめながらも、彼の言葉に耳を集中させていた。


「食べ物じゃなくてもいい。何でもいいから。花でも空でも景色でも……とはいっても、花の名前言われても分かんねぇから、そん時は連れてって。一緒に見よ」

「……一緒に」

「そう、一緒に。俺もジェイラが良いなって思ったもんを見たい」

「……分かりました。その時は、お声をかけます」

「おう。楽しみだな。と……やべ、もうこんな時間? うわぁー時間足りねぇ」


 その言葉とともにグデン、と項垂れたエリゼオ。この人は……本当に、感情表現が豊かだ。


「ごめん、ジェイラ。片付けまでする気だったのにできそうにねぇ」

「あ、いえ……それはお気になさらず。いつもよりずっと早く終わりましたから。それよりもこんなにいてもらって大丈夫だったのですか?」

「ん? 大丈夫ってのは?」

「他の方々に、探されたりは……」

「ラフィクが上手いこと言ってるから心配ねぇよ。いや、それより、中途半端になってごめん。次は片付けまでやるから。それじゃ、また来る。あ、約束はどのタイミングでもいいから、声かけてくれ」

「はい、分かりました」

「俺もまた声かけるわ。じゃあ、ごめんな! 行ってきます」


 急ぎ足で厨房を去るエリゼオに、お気をつけて、と言ったら柔らかな笑顔が返された。その笑顔にまた胸が高鳴り、瞬きをしている間にエリゼオはいなくなっていた。


 一人残された私は長く息を吐き出した。お皿には、オレンジも何も残っていない。


「……好きなもの……何が……好き、かな?」


 首を傾げてもすぐには見つからない。

 いや、でも…………エリゼオの笑顔は、好き、だな。


 考えることが楽しい。探すことにワクワクとする。

 こんなのは、何年ぶりだろう。この地に来て、初めてかもしれない。


「また……エリゼオ様が初めてをくれた」


 そう、認識してしまうと。

 先ほどなんかよりずっと。胸がキュゥっと締め付けられて、そこに手を当てる。


 好きなものを見つけて報告したら……きっとまた、エリゼオは笑ってくれる。報告より先に、話しかけたことを嬉しそうにしてくれるかも。


「一緒に」


 心が弾む。

 新たな明日に向けて。


 これが前向きになるということなんだ、と。自分の中の変化を一つ、認識すると同時に、私は知らなければならないと思った。


 この胸の痛みの、正体を。


 知るためには……情報を、集めないと。

 そうだろうと思う感情はある。けれどそれが正解かは今の私には分からない。


 そうだと決めつけてしまうのは簡単だけど。

 分からないままに名付けるにはあまりに大きいから。


 でも、そうであってほしいとも、願うのだ。

 これが、『好き』であってほしいと。


 それならば私は。出会った時から、きっと──



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