第二十話 もっと話そ
エリゼオがすぐそばでしゃがみこんだ気配がした。
「ジェイラさん? ジェイラさんですよね?」
とんとんと優しく肩を叩かれて、ゆっくりと顔を上げる。
エリゼオが、膝をついて心配そうに私を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
優しい声だ。
けれど、その質問には答えられない。
呼吸が浅く、肩で息をしているような私に、エリゼオの手が肩から背中へと移動する。
「失礼します。俺の呼吸を聞いて、それに合わせてゆっくり息して」
わざと大きく呼吸音をさせたエリゼオのタイミングに合わせて、ゆっくりと息をする。そう、上手、という声を聞きながらそれを繰り返した。
しばらくすると呼吸も落ち着き、エリゼオの手が背中をゆっくりと撫でてから離れる。
「落ち着いて良かった。体調悪かった? どこか痛いとこがある?」
私が小さく首を横に振ると、エリゼオは私の前にどかりと座って、はぁー……と息を吐き出した。
「あー……良かった。安心したらちょっと気が抜けた」
「……申し訳ございません。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「本当に大丈夫か? 熱でもある?」
いいえ、と否定しようとしたところで、彼の口調がいつもよりもくだけたものになっていることに気づく。
本人もそれは自覚済みのようで、少し目尻を下げて笑う。
「俺、あんまり綺麗な言葉遣いが得意じゃねぇんだ」
本格的にその口調になったタイミングで、私の体から力が抜けた。騎士、ではなく。エリゼオ、として認識したのかもしれない。
私の体が緩んだことを見抜いたのか、エリゼオの心配そうな表情が少しだけ和らぐ。
「熱は……まったくありません。本当に、何もないのですが、ちょっと緊張してしまって」
「緊張?」
しまった。
今度は私がそんな顔をしたと思う。
緊張なんて言ったら、こんなところでなぜ緊張をしていたのかと説明しなければならなくなる。というより、こうなってしまった以上、彼に何があったのか説明しなければ、余計に心配をかけてしまうかもしれない。
けれど……当時のことを言葉に出すには、まだ心の準備も何もできていなくて。
どうすればいいか考えていたところで、いきなりエリゼオがずいっと顔を近寄せてきて、私の顔の横でスンスンと匂いを嗅いだ。
「……甘い匂いがする」
顔を離してそう言った後、連動するかのようにグーと鳴る、エリゼオのお腹。エリゼオは自身のお腹を見て、顔を上げて無言で私を見つめてくる。
その視線には耐えられず、私はおずおずと今の状態を白状することとなった。
「……ここで焼き菓子を……食べていました」
「やっぱり。すっげぇ良い匂いすんだもん。めっちゃ腹減った」
言いながら、エリゼオはお腹をさする。
「何も食べていないのですか?」
「食った。めっちゃ食った。でもなぁ、差し入れもらうようになってから、甘い匂いすると腹が減るようになって」
「それはまた……」
「な? 困ったもんだろ? そもそもさぁ、あの差し入れがどうにもこうにも俺の好みドンピシャなのが良くねぇんだ。どれ食べても美味いが更新されていく」
「そ、そうですか……」
どうしよう。あからさまに喜んではいけないのに。ここで喜んだりしたら、エリゼオの分も私が作ったとバレてしまいそうだ。
しかし……嬉しいものは嬉しい。
あの差し入れは、エリゼオのことを考えて作ったのだ。前にも褒めてはくれたし、いつもお礼を言われるが、このエリゼオ本来の口調で褒められると、また違った喜びが押し寄せてくる。
「それに今は、ジェイラさんから良い匂いがしてるからなぁ。今はっていうか、いつも、だけど。もうジェイラさん見たら腹減るようになってる」
「……私、ですか?」
そんなことになっているとは思わず、自分の肩口を嗅いでみたけれど匂いについてはよく分からなかった。
「自分では分かんねぇもん?」
「意識したことはありませんでした」
「あれ、そうなの? あんだけ良い匂いさせてたら、あの差し入れは全部ジェイラさんが作ったって言ってるようなもんだけど」
……嘘。バレてる?
これまで何も言われてこなかったところを突かれて、私は目を見開いた。その反応をした時点で認めたようなものかもしれないが、表向きは違うと言っているのだから、否定しなければならない。
「……いえ、お嬢様もお作りになっておりますよ。エリゼオ様の分は……」
「あの人からは、一度だって菓子を焼いた匂いがしたことないな」
ここまで言い切られるなんて。
彼の中では、私が作っていると確信している口調だった。
「俺が言い出したから始まったもんなんだろうけど。でも、あの人とは別に、俺のために、余計に時間を使ってくれてる人がいる」
エリゼオは少し笑って、優しい表情で私を見つめていた。
「あの人はそれなりのことを言った後、俺が美味いと言えば満足って感じで、具体的にどんなんが好きかとか訊かれたことはない。それなのに、回を重ねるごとに味とか食感とか、とにかく俺の好みに合ってきてる。それはつまり、食べてる時の俺の反応を見て、試行錯誤してくれてる人が他にいるんだと思う。で、あの差し入れの時間に、そんなふうに俺を見てきてんのは、ジェイラさんしかいない」
「……それは……」
「俺、既にがっつり胃袋掴まれてんの。もうあれが一番の楽しみですらある。だから、いっつも美味しいもんを作ってくれてありがとうって、ちゃんとお礼を言いたい」
私はなおも否定しようとしたけれど、あまりにも温かな眼差しとまっすぐな言葉に、否定の言葉が口から出てこなくなった。
そうして、エリゼオの視線を受け止め続けた私は……謝罪と真実を口にしていた。
「誤魔化してすみません。エリゼオ様の分も、私が作っています」
「だよな。いつも美味しいもんをありがと。俺の方こそ、ジェイラさんからしたら誤魔化さないといけないとこを無理矢理にごめんな。もうさ、どーしてもはっきり礼を言いたくて」
「……これまでも、お礼は言っていただいておりましたよ」
「あんなんじゃ足りねぇって。ほんと、めちゃくちゃ美味いんだもん」
ありがとな、と言ってエリゼオは笑う。
エリゼオにバレてしまうほど、私は彼を見ていてしまっていたのかと反省しながらも……見つけてもらえたことを嬉しいとも、思ってしまう。
これまでの自分なりの努力が報われたような心地だ。
……私こそ、見つけてくれてありがとう、という気持ちが込み上げてくる。そしてこの気持ちを表すのに、言葉にするよりもっと良い方法が思い浮かんでいた。
「今朝は、試作品を作ったんです」
「試作品? すっげぇ良い匂いするとは思ってたけど、そんな素敵なもんを……羨ましい」
これが彼の本音だと分かるから、私はごそごそとお腹に隠していた袋を取り出した。その中から焼き菓子を出して半分に割る。
私が口をつけていない方をエリゼオへと差し出すと、エリゼオは目を丸くして私の手にあるものを見つめた。
「せひ、食べていただけませんか?」
「え、いいの?」
「はい。桃を使ってみました。感想をいただきたいです」
「俺、桃すっげぇ好き。ありがと!」
にっこにこで焼き菓子を受け取ったエリゼオは、大きな口で半分をバクリと食べた。しばらく咀嚼して飲み込んで。美味い! と一言。
「めっちゃ美味い。これまでで一番美味い」
「良かったです。私も気に入っていただけそうだと思っていました。これでレパートリーが増えます」
私がそう言うと、エリゼオは笑顔を引っ込めて不満そうな顔になった。
「えーこれ差し入れで出すの?」
「そうですね。そのための試作品ですし」
「俺一個じゃ足りねぇ」
「え」
「無理。こんな美味いもん、一個で止まれる気がしねぇ。ラフィクの奪う」
「だめですよ、ラフィク様の分をとるなんて」
悪いことを言うエリゼオを止めると、今度はじとっとした目で見られた。
「こんな美味いもんを俺に食わせたジェイラさんが悪い。これは無理。美味すぎる。なぁ、これ、作るのって大変? 時間かかる?」
「これはそんなにかかっていませんが」
「分量っての? いるもん教えてくれよ。今度買ってきて渡すから。これは俺だけに作って」
エリゼオだけに?
「桃は何でもいい?」
「たぶん……今日のは、けっこう熟れているものを使いました」
「了解。じゃあ、今度買ってくるわ」
「は、はぁ……」
さくさくと進む話に、とりあえず頷く。エリゼオは残る半分も口に入れて、やっぱり美味い、と唸った。
「はー美味かった。あ、材料は買って渡すけど、作るために無理はしないでくれ。余裕があったらでいいから。作れなかったらジェイラさんが桃食べてもいいし。体調優先で」
「はい……分かりました」
「あーっと……俺とはあんま、個人的にこういうのはしない方がいいか?」
エリゼオ相手だったら、と考えた時。真っ先に思い浮かぶのはお嬢様だ。そして次は、お嬢様を慕う騎士達。
お嬢様は……今回の命令の通りに動きました、で良いだろう。そのために確認もしたのだし。
けれど問題は騎士の方だ。
私と多くやりとりをしていたら、エリゼオが何か言われるかもしれない。
「……少し、心配なところはあります。周りの方々が何か言ってくるかもしれないので……」
「俺もそんな気がしてる。じゃあラフィク挟むか。あいつに頼むわ」
「ラフィク様に?」
「ラフィクを経由してやりとりしよ。ラフィクなら何かあっても上手く誤魔化すから」
「誤魔化す」
「あいつの方が、俺よりずっと口上手いからな」
ラフィクは普段から飄々としているが、エリゼオがこう言うのならば私の想像よりも強かな一面もあるのかもしれない。
「しっかし……すげぇな。こんなに美味いもんをいくつも作れて」
「……ありがとうございます。光栄です」
「ああいうのって本とか読んで作れるようになんの?」
「はい、私は本から選んでます」
「勤勉だな」
エリゼオは本当に感心したように呟く。こんなにも真っ直ぐに褒められるのはほとんどないので、何だかそわそわとする。
「どれも最高だからさ。毎回楽しみにしてる」
「嬉しいです。そう言っていただけると、作り甲斐があります」
「もっと早くから、お礼とか感想とかちゃんと言いたかったんだけど、なかなかなぁ。俺から話しかけられるのは迷惑じゃなかったか?」
「迷惑ではありませんでした。感想を聞かせていただけるのは嬉しかったです」
「じゃあ、今度からもっと話そ。俺、感想以外のことも話したい」
「感想以外のことも?」
「俗に言う雑談みたいなの」
エリゼオと出会った初日のやりとりを思い出した。あの時も話そうと言ってくれていたのだ、彼は。
それを私が内にこもってしまったから、話せなかった。
そんなのはだめだ。私は変わるんだから。
自分のしたいことは、ちゃんと言葉で伝えなければ。
「私も、話したいです」
「お、嬉しいこと言ってくれんね。あ、あとさ……ジェイラって呼んでいい?」
私がそれにも頷くと、エリゼオはにこりと笑った。
「これからもよろしくな、ジェイラ」
清々しい笑顔を向けられて、名前を呼ばれて。
……心臓がドキドキする。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
目を合わせたままでいるのが気恥ずかしくなって、小さく頭を下げた私だったが、どこからかエリゼオを呼ぶ声が耳に届いた。
「あ、やべ、勤務中だった」
言いながら立ち上がったエリゼオは、柔らかい表情で私を見下ろす。
「ここにジェイラがいたことは言わねぇから。人も近寄らせない。邪魔した俺が言うのもなんだけど、ゆっくりしといてくれ」
「ありがとうございます。邪魔なんて、全然」
こちらこそありがとな、と言ってエリゼオは去ろうとしたが……私も立ち上がって、その背中に声をかけた。
「エリゼオ様」
「ん?」
私は手に持っていた半分の焼き菓子をもう半分に割り、彼へと差し出した。
「エリゼオ様が気に入ってくださると良いなと思って作ったので……よろしければ召し上がってください」
私の手と顔をエリゼオの視線が何往復かする。すぐに受け取られなかったから、もしかするともういらなかったかな、と思ったらエリゼオが目尻を細めて笑った。
「……餌づけの才能ありすぎるんだけど。嬉しすぎてすぐに反応できなかったじゃん。お言葉に甘えるけど、これ、本当にいいの?」
「はい。ぜひ」
「すっげぇ嬉しい」
……彼の今の表情を見たのは、二度目だ。
口元だけでありがとうと伝えてくれた、あの時。
この笑顔は、目に焼き付けていたいな。忘れたくない。
「遠慮なく、いただきます」
「はい。残りの勤務も頑張ってください」
「おー! ジェイラも……って、もしかして今日、差し入れだったりする?」
そこで、あ、と気づく。
エリゼオは以前確認した予定では、今日は昼の鍛錬組だったはずだ。しかし現に今、夜の巡回メンバーとしてここにいる。
突発で人員に交代があったのだろう。昼は休みになると思うから、差し入れを渡せない。
差し入れの材料を既に用意しているし、エリゼオがいないからというだけの理由ではずらせない。
「そうですね。エリゼオ様は、お昼はお休みになられますよね?」
「そうなんだよ。昨日の昼に急遽交代になっちまって……うわー俺、今日、差し入れ食えねぇんだ。なぁ、今日の差し入れ、手ぇ抜いて」
「え?」
「食べれねぇのに他のやつが美味しいのもらってたら悔しいから」
何、それ。と思う。
でも、それだけ期待してくれているということなのだろう。
「今日は甘さを控えたものにしてみます。茶葉を使ったものに挑戦してみたかったので」
「……美味しそうだから、俺がいる時も作って」
「はい。それはもちろん」
「……ジェイラは相変わらず俺に甘い。優しい」
その言い方は、なんとなく。可愛かった。
「甘い……というわけでは」
「ありがとう、いつも甘やかしてくれて。これからも頼む」
真剣な顔でそんなことを言われるなんて。
エリゼオは本当に……
「こちらこそです。エリゼオ様に美味しいと言っていただけると、作って良かったと思えますので」
「はー……優しい。色々ほんとありがと。ごめん、それじゃあ呼ばれてるし行くわ。仕事始めまでゆっくりしてて」
「はい。ありがとうございます」
「またな」
エリゼオは柔らかく微笑むと、手を振って去っていった。朝日を浴びたその姿はやけに爽やかでかっこよくて、ドキドキとする心臓を悟られまいと顔に力を入れて彼を見送った。
私はまた座って、残り少なくなった焼き菓子を食べる。エリゼオとわかれた後も、最初にかじった時よりずっとずっと口の中は甘い味が広がっていた。
今度の桃は、とびきり甘いものだったらいいのに、とほのかに期待した。いつの間にか、恐怖を忘れられていた。
心に柔らかな明かりが灯ったような心地がして……これは衝動とは違うし、特別の中でももっと特別なものだと思った。
そして何よりも大切にしようと思った。




