第十九話 見つけないで
予定よりも早く起きてしまった朝。
二度寝もできず、諦めて早々に厨房に向かって、試作品兼朝食と差し入れの下ごしらえをすることにした。
ここ数日の朝の目覚めはこんなかんじだ。数日、というのは旦那様とお嬢様から例の命令を出されてからの、数日間。
お嬢様からの命令は、それこそ考えれば考えるほどモヤモヤとして寝付きも寝覚めもが悪くなった。いくら恋愛関連に疎い私でも、そういう気持ちはお嬢様に言われて、ハイ好きになりました、となるものでもない。
こればっかりは自分の心に従うしかないし、いざとなったら口先だけでも好きになったと言わせてもらおう。そうやって凌ぐことも大事だ、たぶん。
……朝の目覚めが早くてぼんやりとしてしまうせいか。何となく適当になってしまっている部分がある……気がする。
これは良いことなのか悪いことなのか。
苦しくはない、というのが正直なところなのだけど。
このぼんやりとしたまま考えて決めたこととしては、私には旦那様とお嬢様、どちらの思惑が叶う未来なのかは知りようもないのだから、その時々の自分の衝動を無視はしないでいようというものがある。
そうした方が、心が軽くなることが多いから。
まさにそれが、あのお茶会での一幕。
お嬢様にはすごく怒られたけれど、これまでよりずっと、私は達成感を抱いたまま過ごしている。自分の意志は失くした方が生きやすいと分かっているのに、そうしたくはないと反発する自分を受け入れている。
そうすると、少し、楽しいのだ。生きることが。
……適当なんじゃなくて、気が大きくなっているのかも。
いや、気が大きくなっているから、適当なのか?
いっそ開き直ったようなものだから、なるようになれ、と思えているのかも。それはそれでいいな。
だって、エリゼオを思って行動をすることなら、私は咎められることはない。
お嬢様がおっしゃったんですからね! が私の中の切り札だ。
そんなことを考えながら手を動かしていたら、試作品が焼き上がっていた。
以前の早朝にエリゼオと会って、彼から直接感想をもらってから、この試作品作りへの義務感は薄まっている。
お嬢様に言われて始めたことでも、誰かを喜ばせられると知った。ほんの少しだけ……祖父母との優しい思い出に浸れたのも良かったのだろう。
祖父母のことは、九歳のあの日に記憶に蓋をしたつもりだ。思いだしたら自分が辛くなるだけだから。しかし、今回は辛さを伴わずに思いだせたので、とても心地好いとすら感じている。
本当に……エリゼオには感謝することばかりだ。
そんなふうにエリゼオのことを考えると、どうしてもお嬢様からの彼を好きになりなさい、という命令がチラついてしまって……
「む……難しい……」
試作品を前に、気づけば深いため息を一つ。
好きって、何だろう。運命を感じるほど、手紙や贈り物をするほど、好きになるのは何がきっかけなのだろう?
話しかけてほしい、笑っていてほしい、と思うのは、好き、ということなのだろうか? それなら私は……エリゼオに出会った早々に、エリゼオを好きになっていたようなもの、なんだけど……
うーん、と声に出してみても答えはもちろん返ってこない。
そもそもとして、知識が少なすぎるのだ。
これまで恋愛なんてものは仕事に必要なかったから、何一つ、そういう情報源になりうるものを意識して集めてきてない。
あるとすれば、お嬢様のことを良く想っているご子息方の手紙だが、彼らの熱烈な手紙を読む度、私が読んで申し訳ないとしか思えないし……返事はほぼ定型文……
ご令嬢方の話も、政略結婚だから恋愛がしたい、とかそういうのばかりで……
使用人や騎士からは当然、そんな話を聞くこともない。
だから、という言い訳だけど。
恋愛としての好き、がどのようなものなのかはっきりと分からないのである。
……しかしながら、お嬢様からはエリゼオを好きになれ、と言われたのだから。もしもこの、笑ってほしい等々の気持ちが好きだと言うのなら、許可はおりてるのだから自分の気持ちを大切にしようとは思う。
好きかどうかは分からないけれど、私にとってエリゼオは特別なことには変わりない。
「うーん……!」
伸びをしてみたけど。残念ながら気分は晴れることはなかった。
けれども、できあがった試作品は香りも見た目もいい。十分に食欲を唆る。
せっかく美味しそうに焼き上がったのに、このまま悶々として食べるのも嫌だな、と思った。どうせなら気分を変えよう。
厨房の窓から外を覗くと、まだ朝の早い時間なので外は薄暗い。明るいところで一人食べるのは気が引けるが、この暗さなら良いかもしれない、と。
試作品を持って、私は外に出ることを決めた。
これも衝動の一つだな、と思いつつ。
通路は静かに歩きながら外に出て、思いっきり朝の空気を吸い込んだ。
朝らしい、透き通った空気が肺に入って良い気分転換になる。もう一度深呼吸をしてから歩き出し、本館からも騎士団の宿舎からも離れた木陰の近くで、座るのにちょうど良さげなところを見つけた。
ここなら巡回中の騎士も覗き込まないと見えないだろうから人の目も気にならない。私はそこにハンカチを敷いて座り、大きく息を吸い込んだ。
朝の空気はおいしい。これだけでお腹がいっぱいになりそうだ。
膝を抱えて、その上に試作品を乗せる。
けっこう手早く作れるようになった。時間の使い方だって上手くなったし、文字の読み書きも刺繍もそれなりにはこなせ、洗濯も掃除も自分の分なら問題なくできる。貯金も、それなりに貯まってきている。
一人暮らしに必要な金額がどんなものかは分からないけど。クビと言われてあんなにも恐がる必要はなかったのかもしれない……なんて。
あの時にこうやって思えていれば良かったのに。それができないのが私のだめなところだな。
自分の成長を感じつつ、反省しつつ。
そんな私の目の前には、美味しそうな焼き菓子。
これは……きっと、エリゼオも喜ぶだろうと思った。何と言っても彼の好きな桃果汁入りだ。
ほんのり桃の香りがする。本当はスライスした果実を上に乗せられたらもっと良いのだけど、予算の関係で難しかった。
この差し入れの予算は騎士団の食費から賄っている。普段の食事の方でいっぱい使ったら、こちらは限られた材料で作らなければならなくなったりする。
そういうやりくりも学んできた。だから何だという話だが、これまでの努力が詰まったお菓子に見えて、より一層、美味しそうに見えた。
よし、食べよう、とパクリと一口噛むと、柔らかな甘みが口の中に広がった。
「……美味しい」
予想していたよりずっとずっと美味しいそれに、自然と気分が浮上していく。しっとりとしていて、これなら変に口も乾かないし飲み物が何であれ相性が良さそうだ。
なにより私調べでは、このしっとり感と甘みはエリゼオの好みだ。
きっとこれを食べた彼は、美味しい、と笑って言ってくれるだろう。その笑顔を思い浮かべただけで、じんわりと胸のあたりが温かくなった気がした。
随分と気分も良くなって、これは差し入れの定番に加えようと一人で頷いていたら、ガサガサと植え込みを揺らす音がした。
巡回中の騎士かもしれない。それもありうることではあったのだが……
私は咄嗟にお菓子をお腹へと隠し、身を縮こまらせていた。
別に悪いことはしていない。
外で食事をしてはいけない、ということはないし。今はそれも隠し、何もない状態だ。
だから見つかったとしても、何ともない、はずなのに。
それなのに、本格的に近づいてくる音に、少しずつ、恐怖を感じ始めていた。
怒られないはずだ。だって悪いことはしていない。
でも……もしかしたら、という悪い考えが、頭を支配していく。
大丈夫な、はず。ただ、座っていただけ。悪いことは、してない。悪いことなんて、何もしていない。私は、悪くない。
思わず頭ごと抱え込んで、見つからないように小さくなる。
どうして、ただの足音にここまで怯えてしまっているのだろう。
そう考えた時、この場所が過去、三男との一件があった場所と似ていることに気づいてしまった。そして同時に当時の痛みや記憶が蘇る。
蹲り、足蹴にされ、踏まれた時の背中の痛み。
あの日の自分は、何も間違ったことも悪いこともしていなかった。それなのに受けた痛みが今になって体を蝕んでいく。
あれらは……痛かった。ちゃんと、痛かったのだ。
それに気づかないフリをして。立ち止まったら、また別の人から怒られると思った。自分を守るために、痛みをすぐに忘れるようにしたのだ。
植木を揺らす音は、間違いなく近づいてきている。
もしも……もしも、私を見つけた人が……あの人達のように悪くない私に、痛みを与えてきたら?
そう考えると、息苦しくなるほどの恐怖に苛まれた。
誰かに助けを求めたいのに。声にならないかすれた息だけが口から出てくる。
逃げ出したいのに、身体は自由がきかない。
自分を抱きしめるように縮こまって、遠くに行って、とだけ祈り続ける。
お願い。遠くに行って……私を見つけないで!
しかしその祈りも虚しく……とうとうガサリと一番近くで音がした瞬間に、私は大きく体を震わせより一層小さくなるように蹲った。
「おわっ! 誰……ってジェイラさん?」
驚いたような声の主は……エリゼオだった。




