044「追いかけっこ」
「捻挫の具合は、どうだ?」
「おかげさまで、順調に回復してるわ。足を床に付けるとき、まだ、ちょっとだけピリッとした痛みが走るけど」
オフィスビルの一角にある、ソフトドリンクのサーバーや軽食の自販機が壁面に並ぶ休憩ラウンジで、江崎はコンビニの薄茶色のレジ袋から弁当を出して割り箸で食べながら、あゆみは白色のレジ袋からサンドイッチや惣菜パンを出して噛り付きながら、ほのぼのと会話を弾ませている。
「そうか。俺も、今朝は久々に、こむら返りになったんだ。あの程度の走りで駄目だとは、すっかり鈍ったものだな」
「良い薬じゃない。いい歳して調子に乗るからよ」
「おい、少しは労えよ。追い打ちをかけないでくれ」
「あら、ごめんあそばせ。医務室で、湿布を貼ってあげましょうか?」
「せめて、塗り薬にしてくれ。俺は、爺さんじゃない」
「そう? 明日あたり、昨日の痛みが遅れてやってくるんじゃなくて?」
「嫌な予言をするな。まだ、そこまで歳を食ってないはずだ。――それより、今夜の映画のことだけどさ」
改まった口調で江崎が話しはじめると、あゆみは身構えながら口を挟む。
「レイトショーにしようって話だったわね。何か問題でも生じたの?」
「あぁ、いや。覚えてるんなら、良いんだ。何でもない」
歯切れ悪く江崎が話を終わらせて紙パックのカフェラテにストローを挿して啜ると、あゆみは、いくぶん不満が残る顔をしつつ、スチール缶のプルタブを開けて微糖コーヒーを飲んだ。
――続きは映画館で、というわけね。
*
――今日は、残業も無く定時で上がることが出来た。私は映画館へ、みどりちゃんは書店へ行くという楽しみが待っていたからか、いつも以上にスムーズに仕事が進んだ。こんなことで、やる気のスイッチが入るとは、我ながら単純というか何というか。今ごろ、みどりちゃんのほうは、小岩くんとトークに花を咲かせていることだろう。ひるがえって、私のほうはというと。
「うぅ。結末を知ってから観ても、良い映画だった。再発見の連続だ」
隣で歩く三十を過ぎた男が、感動のあまり、親指と人差し指で鼻梁をつまんで目元を押さえている。
「どれだけ泣いたら気が済むのよ。脱水症状になるわよ?」
あゆみがバッグからタオルハンカチを出して渡すと、江崎はそれを受け取り、溢れる涙を拭ってから返した。
――ここまで感情移入する人間も珍しい。そういえば、前に付き合ってた頃は、家でレンタルビデオを借りたことはあっても、映画館まで足を運んだことは無かったなぁ。借りてくるのも、ラブコメやヒューマンドラマより、エスエフやホラーが中心だったっけ。歳を取ると、涙もろくなるものね。
受け取ったタオルハンカチをバッグにしまいつつ、あゆみは江崎に質問する。
「結局、お昼に言いかけてたことは、何だったのよ? 何か言われるのかと思って、今か今かと待っていれば、普通にディナーと映画を楽しんだだけじゃない」
「グスン。ムードの無い女だな、森永は」
そこまで言ったところで、二人はあゆみのアパートの部屋の前に辿り着く。二人は足を止めつつ、玄関ドアの前で話を続ける。
「悪かったわね。私には、男のロマンが理解できないの。現実のデートなんて、こんなものよ。音楽も無ければ、陽気に歌い出すこともないわ」
「オッ! デートだって意識してくれたってことは、次に期待しても良いってことだよな?」
言質取ったり、というしたり顔で、江崎はニンマリと口角を上げた。
――何を言ってるんだろう、私。これじゃあ、まるで江崎くんのことを異性として意識してるみたいじゃない。いやいや、まぁ、そうじゃないのかと言われれば、そうなんだけど。でも、違うのよ。違うんだって。誰が何と言おうが、ひと味違います。
あゆみは、自分で言ったことの重大さに気付き、急に顔を赤らめて俯く。すると、そのとき、玄関ドアが開く。
「やっぱり、あゆみさんだったんですね。声が聞こえたので……」
部屋の中から出てきたシーニーは、まず、あゆみの姿を見て安心し、次いで、隣にいる江崎を見て身構え、そして、二人のあいだに流れるただならぬ空気を察して発言を止めると、静かにドアを閉めた。ドアの向こうでは、鍵を閉める音と、バタバタと走っていく物音が聞こえる。
「いま少年が、四葉が言ってたマジシャンの弟子か?」
「えっ? えぇ、まぁ、そうよ。それじゃあ、今日は、この辺で。また、月曜日に」
バッグから鍵を取り出してドアを開けつつ、訂正と挨拶をなおざりに済ませると、あゆみは急いで部屋に入っていった。その、あまりの慌てように、江崎は鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしつつも、小首を傾げながらアパートをあとにした。




