026「くのいち気分で」
――避難する形で、二階に上がったのは良いものの。ここから上がった以上は、この部屋を避けては通れないわよねぇ。
薄明かりが差し込むだけの暗闇で器用に羽目板を戻し、スーッと押入れの襖を内側から開けると、天板の上が小綺麗に整頓された古いスチール机や、文芸書と学術書が半々で犇めき合う本棚、そして、白衣とスーツがクリーニング店のハンガーにかけられた状態で、長押に吊るされているのが見てとれる六畳ほどの和室に繋がっている。
「この隠し通路を知っているのは、今や私だけなのよねぇ」
あゆみは小声で呟きつつ、スチール机の天板下の浅い横長の引き出しを開けると、手前にある文房具を入れておくためのトレーを外し、その下に隠してあった一本の小さな鍵を手に取る。
――まるで、脱出ゲームをやってる気分だわ。こっそり忍び込んだ背徳感もあって、なんだか、ちょっと楽しくなってきちゃった。
そのままトレーを戻して引き出しを閉めると、その隣にある、それとは半分ほどの幅で倍近い深さの引き出しの前に移動し、鍵穴に手にしている鍵を差し込んで開けると、鍵を付けたまま引き出しを開け、一番上に置いてある大学ノートを取り出し、引き出しを閉める。
「もう、この世に続きを書く人間がいないから、内容に変化は無いと頭では理解してるんだけど、ここへ来たら確認せずにはいられないのよね」
あゆみは、ブツブツと独り言を吐きながら、キャスターの付いた椅子を引いて座り、紫外線で茶色に変色しつつあるビニールが敷かれた天板の上にノートを置くと、一枚ずつ慎重にページをめくりはじめた。七ミリ幅で罫線の引かれたページには、現在から二年以上前の日付と、事細かな数式や化学式が、几帳面な字とともに並んでいる。
――この片田舎の県立高校から、珍しく国立大学に現役合格して、しかも大学院の博士課程まで進んだのよね。書いてある意味は、高等過ぎてサッパリ理解できないけど、この研究に心血を注いでたことは、ペンの走らせかた一つから読み取れる。
「こんなに良くできた弟が居たから、私は大学進学を諦めて、都心へ就職したというのに。ジュンも、ツイてないわ」
ページをめくっていくにつれ、徐々に数字や図式の並びに乱れが見られるようになり、何も書いていない行が目立ち始める。
――気付かなかった、いや、遠くに居て気付けなかったけど、この頃からジュンは、横柄で名誉欲のかたまりの指導教授に振り回されて、うつ病に近い状態になったんだろうな。精神的に追い詰められてる様子が、手に取るようにわかる。
そして、あゆみは、ページをめくる手を止める。そのページには、ちょうど二年前の日付と、簡潔な一文だけが記されている。
「いくら見返しても、このページは『僕は、もう闘うことに疲れました。先立つ不孝をお許しください』だけよね。でも、何度見ても、どう考えても、これは遺書にしか見えないわよ、ジュン。どうして、もっと早く相談してくれなかったのよ。姉弟間では、秘密は無しにしようねって約束したじゃない。ねぇ、どうして……」
あゆみは、そっとページを閉じて項垂れると、静かに目を閉じ、口をキッと真一文字に結んで、思わず慟哭しそうになる衝動をグッと抑えつつ、椅子を引いて立ち上がり、ノートを元あった引き出しに戻して施錠し、鍵も同じ場所に同じように隠して引き出しを閉め、そのままレースのカーテンだけが引かれた窓辺に移動し、しばらく佇む。
――下に降りたら、きっと客間と寝室の襖を外して、三回忌の準備が始まってることだろう。ばったり誰かに遭遇すれば、夜にアパートに帰る時間が来るまで、ひと時も解放されることが無いはずだ。それでは困る。私には、もう一つ、やっておきたいことがあるんだもの。
あゆみは、手前のレールにかかっている二枚の厚手のカーテンをフックから外すと、それをロープのように結び合わせ、片方の端を窓際にあるベッドの脚に固定すると、反対の端を持ったまま窓棚を乗り越え、そのままカーテンを命綱代わりにして一階の屋根へと降り立つと、カーテンから手を離し、そのまま屋根伝いに歩いて行く。
――あとは、向こうにある樫の樹に飛び移れば、下まで降りられる。履き物は、縁側に置いてあるものを借りて行こう。




