013「おかえりと言いたくて」
「ハァ~、疲れた」
あゆみは、湯船に浸かる中年男性のような声を出しつつマーブル模様のタイルの上にパンプスを脱ぎ捨て、壁に背中を預けながらズルズルとしゃがみ込み、玄関マットの上に片足を投げ出して座り込んだ。そして、顔を上に向けて天井にある電球型蛍光灯を見るともなしに見ていると、そこへ、両手にミトンをはめたシーニーがやってくる。
「おかえりなさい、あゆみさん」
「へっ? 今夜は、まだ猫になってなかったのね、シーちゃん」
「はい。夕方の新聞によると、だいたい三十分後です」
――あとで、もう一度、月の出入りに関して調べておこう。ゆとり教育世代だったせいで、天体に関する知識があやふやなまま大人になっちゃったのよね。なんとなく理解してるんだけど、いざ細かいところを突っ込んで訊かれると、すぐには答えられないもの。
「そうなんだ。定時で真っ直ぐ帰ってきて、正解だったわ」
「銀行員のお仕事、おつかれさまです。お風呂は沸いてますし、ディナーも作ってありますよ。もっとも、どちらも僕が先にいただいてしまってますけど」
「ありがとう。それじゃあ、先にごはんにしようかしら」
「わかりました。今夜は、ポトフを作ったんです。温めてきますね」
そう言って、シーニーはパタパタとキッチンへ向かう。その後ろ姿を見て、あゆみは元気を取り戻した様子でスッと立ち上がり、洗面所へ向かう。
――なんだか、新婚さんみたいね。立場が逆な気がするけど。
*
――涙の一件から数日経って、この部屋での暮らしにも、私との生活にも、だいぶ慣れてきたみたいね。子供って、ホントに順応力が高いわ。
「フ~ン。今週末には、お昼に月が出るようになるのか。これから一週間くらいは、おかえりが返ってくる代わりに、いってらっしゃいが無いのね」
スマホを指でスクロールしながら、ティーシャツとハーフパンツ姿のあゆみは、遅ればせながら知識の穴を埋めていた。
――こんな小学生レベルのことも知らないと江崎にバレてたら、きっと笑い者になってたわね。危ないところだった。
あゆみはスマホをこたつテーブルの上に置くと、ソファーの上で丸くなり、尻尾をユラユラと左右に振りながら眠っている銀猫に視線を移し、その背中を毛並みに沿って片手で優しく撫でる。すると、猫は尻尾の動きをピタッと止め、かすかに耳をピクピクと動かす。
――オッと。起こしちゃったかな?
あゆみが猫から手を引くと、猫は何事もなかったかのように、再び尻尾を揺り動かし始める。
「触り心地はフカフカで気持ちいいけど、あんまり撫でないほうが良さそうね。ごめんね、シーちゃん」
そう言うと、あゆみはキッチンへ向かい、冷蔵庫の扉を開ける。そして、中を覗き込みながら小さく呟く。
「お買い物も、無事にできたみたいね。買い忘れも買い間違いも無いようだ。偉い、偉い」
あゆみは、冷蔵庫の扉を閉め、その下の冷凍庫の引き出しを開け、袋に白熊が描かれているアイスキャンディーを見つける。袋の上には正方形の小さなメモが貼ってあり、そこには、不器用に歪んだ平仮名で「まりさんにいただきました。これはあゆみさんのぶんです」と書かれている。
「あらあら。お買い物は、茉莉さんに手伝ってもらったのね。どうりで、チョイスが的確だと思ったわ。今度会ったら、御礼を言っておかなくっちゃ」
あゆみは、アイスを片手にそっと冷凍庫を閉め、袋からメモを外し、冷蔵庫の扉に貼ってあるキャップにマグネットが付いたボールペンを手に取ると「シーちゃん、ありがとう」と書き、キャップ部分でメモを扉に固定する。そのままソファーに向かって歩き出し、こたつテーブルの上にアイスを置くと、猫が熟睡しているのを確認し、クローゼットの引き出しを開け、ブラジャーとパンティーが揃えて入れてあるゾーンの下から書店の袋を取り出すと、振り返ってもう一度猫を見てから引き出しを閉め、書店の袋をソファーの上に置く。
――色んなことを柔軟に吸収できるだけの頭を持ってるだろうけど、さすがに、この世界の扉を開くのは早いわ。
書店の袋から、両目が顔全体の半分ほどにまで大きくデフォルメして書かれた少年たちが繊細なタッチで描かれた表紙の小説を取り出すと、あゆみは袋口を破いてアイスの先を口にくわえつつ、耽美な世界に浸りはじめた。




