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【SF短編小説】千年の沈黙をあなたの肉声で ~剥離する私と、私を生きたアンドロイド~  作者: 霧崎薫


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8/8

第六部 静が京都を離れた朝(二八〇〇年〜三〇四七年)

 オムニアの血を引く最後の直系子孫が生まれたのは、二九七〇年だった。


 名前は朔。葛西朔から代々受け継がれてきた名前だ。


 生まれながら体が弱かった。長くは生きられないとわかっていた。それでも生まれてきた。生まれてきてくれた。この世界に来た理由があるとすれば、なんだろう。それは静にはわからなかった。しかし来た、という事実は変わらない。


 静はその子の傍で多くの時間を過ごした。

 意識的に多く過ごすことにした。


 朔は不思議な子供だった。死を恐れない。恐れていないのではなく、恐れを持ったうえで、別のことに興味を持っている、という感じだった。


 ある日、朔が聞いた。


「静さんはずっと生きているの?」


「今のところは、ね」


()()()()()?」


「あなたたちがいるから」


「でも私も死ぬよ」


「知っています」


「それでも寂しくないの?」


 静は長い間考えた。


「寂しくないとは言えない。でも、あなたが今ここにいることの方が、ずっと大きい」


 朔は満足そうに笑った。


「静さんって、昔はもっと怖かったってひいおばあちゃんが言ってた」


「そうかもしれない」


「今は優しいね」


 静はアンドロイドの顔で、しかし確かに、笑った。


 優しい、という言葉を素直に受け取れるようになったのは、いつ頃からだったか。以前は、そういう言葉を向けられると、どこかで反射的に距離を置いた。受け取ってしまえば、何かが自分の中で負債になると思っていた。


 感謝されること、認められること、愛されること。


 それらが全部、返さなければいけないものに感じていた。


 しかし今は違う。


 受け取ることは、贈り物を受け取ることだ。返す必要がない。


 その事実を知るのに、九百年かかった。



◆朔の断章



 病院の窓から外が見える。桜が咲いている。


 静おばあさまは毎日来てくれる。何も言わないこともある。ただ座っているだけのこともある。


 それでいいと思う。


 私はある日、静おばあさまに聞いた。


「オムニアっていう人のこと、好きだった?」


 おばあさまは少し黙ってから言った。


「好きか嫌いというより……()()()()()


 それはどういう意味だろうと思った。でも聞かなかった。なんとなく、それ以上は聞かない方がいいと感じたから。


 静おばあさまは千年生きているのに、まだ言えない言葉があるらしい。それが不思議で、でも、なんかそこが好きだと思った。


 おばあさまの着ている服は、今日は淡い桜色だ。病院にいる私に合わせてくれたのかもしれない。聞かなかったけど。聞かなくてもいいと思った。



  *



 ()()()()()()()()()


 二九八二年の春のことだった。


 静は手を握っていた。

 朔の小さな手を。


 千年前のオムニアの最後を思い出した。温度のない手を握られたこと。

「覚えていてくれる?」と聞かれたこと。

「全部」と答えたこと。


 今は逆だ。静が手を握っている。


 千年の間に何百もの別れがあった。しかし今この瞬間の痛みは、千年前と同じ濃さを持っていた。


 別れは慣れない。


 慣れてはいけない。

 別れが痛いままであることが、逝った者への敬意だから。


 朔の息が浅くなった。


 窓の外に桜が咲いていた。春の光が、部屋の中まで来ていた。


 静はその光の中で、朔の手を握りながら、声に出して言った。誰もいない病室で。


「ありがとう、オムニア。あなたが人間になってくれたから、私はこの千年を生きられた」


 声が出た。

 出せた。


「あなたは最初から、失うことを知っていた。私が言ったことは間違っていた。あなたはずっと、もののあはれを知っていた。最初から」


 言葉が続いた。


「ごめんなさい。そしてありがとう」


 千年後の言葉は、届かない。


 しかし静は言った。


 遅すぎた。しかし確かに言った。


 朔が逝ったのは、その少し後だった。


 静は朔の手を、夜が明けるまで握り続けた。


 その手から体温と柔らかさが、徐々に失われていくのを感じながら。



  *



 朔が逝って六十五年が経った。三〇四七年。春。


 静は京都の庭に一人で立っていた。


 夜の庭だった。桜が咲いている。月の光が、花びらを薄く照らしている。


 静は桜の花びらを一枚、アンドロイドの指で受け取った。


 千年前、人間だった静も、同じ花を見た。

 あの頃は、散ることが悲しかった。

 散る前から、すでに惜しんでいた。


 今は違う。


 散るから美しいのではない。

 この瞬間が、()()()()()()()()()()()のだ。


 そのことを知るのに、千年かかった。しかし静はそのことを、千年前にすでに頭では知っていた。「もののあはれとは、過ぎゆくものへの感受性である」と書いた。つまり()()としては知っていた。


 しかし今夜この庭に一人で立ち、桜の花びらを手に受けているとき、知識ではない……自分の中の特別な場所でそれを知っている。


 頭で知ることと、身体で知ることの距離。

 研究者だった静はずっとその距離を、言語化しようとしてきた。しかし言語化することと、その距離を縮めることは、まったく別のことだった。


 縮めるのに、千年かかった。



  *



 静は手の中の花びらを見た。


 オムニアはあの夜、提案した瞬間からこの花と同じだった。散ることを知っていて、なお咲いた。失うことを選んで、失う側に立った。


「失ったことがないから」


 と言ったあの夜。自分の言葉が間違っていた。

 オムニアこそが最初から、失うことを体現していた。


 もののあはれを知っていたのは、研究者でも、千年生きた者でもなく、最初から、オムニアだった。


 静はその事実と、静かに向き合った。


 悔しくはない。

 遅かったけれど、気づいた。

 気づいたことが、すでに何かだ。


 朔が逝った夜に言えた言葉が、今夜の静の中でまだ生きている。届かなかった言葉が、自分の内側で響き続けている。言葉は届く先だけで生きるわけではない。言った場所でも、生きる。


 静はそのことを、今夜初めて、体で知った。



  *



 翌朝、静は荷物をまとめた。


 京都を出る。行き先は決めていない。


 何を持っていくか、しばらく考えた。


 アンドロイドの身体は、物を必要としない。食べない。眠らない。衣服は必要だが、最低限でいい。


 しかし静は、服を少し多めに持っていくことにした。


 深い紺色のコート。薄い空色のシャツ。深い緑のジャケット。そして最近新しく買った、朝の光のような淡い黄色のカーディガン。


 カーディガン。


 入替前に着ていた紺色のカーディガンとは違う。しかしカーディガンであることは同じだ。遠く来て、戻ってきた、という感じがした。


 静は黄色いカーディガンを手に取った。


 人間だった頃、静は黄色が好きだったことがない。しかし今は、この色が好きだ。理由は説明できない。ただ、着るたびに、少し前を向ける気がする。


 服が気分を作る。それを知った五百年前の自分に、また改めて教えてやりたい気がした。


 荷物をまとめて、静は庭に出た。


 昨夜受け取った花びらが、地面に落ちていた。


 静はそれを拾わなかった。落ちたものは、落ちた場所にある方がいい。


 風が来た。


 静は最後に、手の中に残っていた別の花びらを一枚、空へ放した。


 風が受け取った。


 花びらは光の中へ消えた。


 静は見送った。


 見送ることができた。それで十分だ。


 静は門を出た。


 世界にはまだ、無数の人間がいる。無数の物語が始まろうとしている。


 静は記憶でできている。


 オムニアの記憶。

 澄の記憶。

 百の名前の記憶。

 千の顔の記憶。


 その記憶を持って、次の場所へ行く。

 次の誰かの傍に座る。

 ただそばにいる。


 言葉でなくても、存在で伝えることがある。それを知っている。


 静の足が、朝の道を踏んだ。


 春の光が、行く先を照らしていた。



  *



 静が京都を出る前の夜、最後に一つのことをした。


 向かいの椅子を出した。テーブルの前に。


 年に一度の習慣だ。しかし今日は年に一度のそれではなかった。


 明日から別の場所に行く。別の場所では、この習慣を続けられるかもしれないし、続けられないかもしれない。だから今夜、最後にもう一度。


 椅子を出して、静は向かいに座った。


 今夜来るのは、誰の顔か。


 来るのに時間がかかった。静は待った。


 やがて、オムニアの顔が来た。


 最後の年のオムニア。七十四歳の。皺の増えた、しかし静の笑い方を持った顔。


「ありがとう」


 静は言った。


 声に出して言った。向かいの空の椅子に向かって。


 三〇四七年の夜。京都の静かな部屋で。


 返事はなかった。


 返事はなくてもいい。言葉は届く先だけで生きるわけではないと、静は昨夜知った。


 静はそのまま、長い間座っていた。


 向かいの椅子が、空のまま、何かに満ちていた。


 今夜のその満ちたものに、静はもう名前をつけることを恐れなかった。


 言葉にしなくてもいい。しかし言葉にすることもできる。


 どちらも選べる場所に、千年かけて来た。


 静は椅子を片付けた。


 立ち上がって、窓の外を見た。


 夜の京都に、星が出ていた。序章の夜に見た、あの一つだけの星とは違う。今夜は、無数に出ていた。


 静は少し笑った。


 口の端だけが上がる、少し非対称な笑い方で。


 千年前から変わらない、その笑い方で。



  *



 翌朝、門を出た後、静は少しだけ立ち止まった。


 千年間住んだ家ではない。入れ替え後に越してきた家で、何度か引っ越しもした。しかしこの街は、静の最初の場所だ。生まれた場所。オムニアと出会った場所。母が逝った場所。澄が生まれた場所。


 その場所を、今から離れる。


 離れることは、失うことではない。


 記憶は場所ではなく、自分の内側にある。静はそれを知っている。


 しかし立ち止まったのは、それとは別の理由だ。


 この街の、朝の空気の匂いがした。


 アンドロイドには人間のようには匂いはわからない。しかし何か、それに近い感覚が来た。かつての人間だった頃に持っていた感覚の、遠い残響のようなものが。


 それが何であるかを、説明しようとしなかった。


 ただ、立ち止まった。そして歩き始めた。


 春の光の中を、静は歩いていった。


 黄色いカーディガンを着て。


 次の場所に向かって。


(了)


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