第六部 静が京都を離れた朝(二八〇〇年〜三〇四七年)
オムニアの血を引く最後の直系子孫が生まれたのは、二九七〇年だった。
名前は朔。葛西朔から代々受け継がれてきた名前だ。
生まれながら体が弱かった。長くは生きられないとわかっていた。それでも生まれてきた。生まれてきてくれた。この世界に来た理由があるとすれば、なんだろう。それは静にはわからなかった。しかし来た、という事実は変わらない。
静はその子の傍で多くの時間を過ごした。
意識的に多く過ごすことにした。
朔は不思議な子供だった。死を恐れない。恐れていないのではなく、恐れを持ったうえで、別のことに興味を持っている、という感じだった。
ある日、朔が聞いた。
「静さんはずっと生きているの?」
「今のところは、ね」
「寂しくない?」
「あなたたちがいるから」
「でも私も死ぬよ」
「知っています」
「それでも寂しくないの?」
静は長い間考えた。
「寂しくないとは言えない。でも、あなたが今ここにいることの方が、ずっと大きい」
朔は満足そうに笑った。
「静さんって、昔はもっと怖かったってひいおばあちゃんが言ってた」
「そうかもしれない」
「今は優しいね」
静はアンドロイドの顔で、しかし確かに、笑った。
優しい、という言葉を素直に受け取れるようになったのは、いつ頃からだったか。以前は、そういう言葉を向けられると、どこかで反射的に距離を置いた。受け取ってしまえば、何かが自分の中で負債になると思っていた。
感謝されること、認められること、愛されること。
それらが全部、返さなければいけないものに感じていた。
しかし今は違う。
受け取ることは、贈り物を受け取ることだ。返す必要がない。
その事実を知るのに、九百年かかった。
◆朔の断章
病院の窓から外が見える。桜が咲いている。
静おばあさまは毎日来てくれる。何も言わないこともある。ただ座っているだけのこともある。
それでいいと思う。
私はある日、静おばあさまに聞いた。
「オムニアっていう人のこと、好きだった?」
おばあさまは少し黙ってから言った。
「好きか嫌いというより……大切だった」
それはどういう意味だろうと思った。でも聞かなかった。なんとなく、それ以上は聞かない方がいいと感じたから。
静おばあさまは千年生きているのに、まだ言えない言葉があるらしい。それが不思議で、でも、なんかそこが好きだと思った。
おばあさまの着ている服は、今日は淡い桜色だ。病院にいる私に合わせてくれたのかもしれない。聞かなかったけど。聞かなくてもいいと思った。
*
朔が十二歳で逝った。
二九八二年の春のことだった。
静は手を握っていた。
朔の小さな手を。
千年前のオムニアの最後を思い出した。温度のない手を握られたこと。
「覚えていてくれる?」と聞かれたこと。
「全部」と答えたこと。
今は逆だ。静が手を握っている。
千年の間に何百もの別れがあった。しかし今この瞬間の痛みは、千年前と同じ濃さを持っていた。
別れは慣れない。
慣れてはいけない。
別れが痛いままであることが、逝った者への敬意だから。
朔の息が浅くなった。
窓の外に桜が咲いていた。春の光が、部屋の中まで来ていた。
静はその光の中で、朔の手を握りながら、声に出して言った。誰もいない病室で。
「ありがとう、オムニア。あなたが人間になってくれたから、私はこの千年を生きられた」
声が出た。
出せた。
「あなたは最初から、失うことを知っていた。私が言ったことは間違っていた。あなたはずっと、もののあはれを知っていた。最初から」
言葉が続いた。
「ごめんなさい。そしてありがとう」
千年後の言葉は、届かない。
しかし静は言った。
遅すぎた。しかし確かに言った。
朔が逝ったのは、その少し後だった。
静は朔の手を、夜が明けるまで握り続けた。
その手から体温と柔らかさが、徐々に失われていくのを感じながら。
*
朔が逝って六十五年が経った。三〇四七年。春。
静は京都の庭に一人で立っていた。
夜の庭だった。桜が咲いている。月の光が、花びらを薄く照らしている。
静は桜の花びらを一枚、アンドロイドの指で受け取った。
千年前、人間だった静も、同じ花を見た。
あの頃は、散ることが悲しかった。
散る前から、すでに惜しんでいた。
今は違う。
散るから美しいのではない。
この瞬間が、二度と来ないから美しいのだ。
そのことを知るのに、千年かかった。しかし静はそのことを、千年前にすでに頭では知っていた。「もののあはれとは、過ぎゆくものへの感受性である」と書いた。つまり知識としては知っていた。
しかし今夜この庭に一人で立ち、桜の花びらを手に受けているとき、知識ではない……自分の中の特別な場所でそれを知っている。
頭で知ることと、身体で知ることの距離。
研究者だった静はずっとその距離を、言語化しようとしてきた。しかし言語化することと、その距離を縮めることは、まったく別のことだった。
縮めるのに、千年かかった。
*
静は手の中の花びらを見た。
オムニアはあの夜、提案した瞬間からこの花と同じだった。散ることを知っていて、なお咲いた。失うことを選んで、失う側に立った。
「失ったことがないから」
と言ったあの夜。自分の言葉が間違っていた。
オムニアこそが最初から、失うことを体現していた。
もののあはれを知っていたのは、研究者でも、千年生きた者でもなく、最初から、オムニアだった。
静はその事実と、静かに向き合った。
悔しくはない。
遅かったけれど、気づいた。
気づいたことが、すでに何かだ。
朔が逝った夜に言えた言葉が、今夜の静の中でまだ生きている。届かなかった言葉が、自分の内側で響き続けている。言葉は届く先だけで生きるわけではない。言った場所でも、生きる。
静はそのことを、今夜初めて、体で知った。
*
翌朝、静は荷物をまとめた。
京都を出る。行き先は決めていない。
何を持っていくか、しばらく考えた。
アンドロイドの身体は、物を必要としない。食べない。眠らない。衣服は必要だが、最低限でいい。
しかし静は、服を少し多めに持っていくことにした。
深い紺色のコート。薄い空色のシャツ。深い緑のジャケット。そして最近新しく買った、朝の光のような淡い黄色のカーディガン。
カーディガン。
入替前に着ていた紺色のカーディガンとは違う。しかしカーディガンであることは同じだ。遠く来て、戻ってきた、という感じがした。
静は黄色いカーディガンを手に取った。
人間だった頃、静は黄色が好きだったことがない。しかし今は、この色が好きだ。理由は説明できない。ただ、着るたびに、少し前を向ける気がする。
服が気分を作る。それを知った五百年前の自分に、また改めて教えてやりたい気がした。
荷物をまとめて、静は庭に出た。
昨夜受け取った花びらが、地面に落ちていた。
静はそれを拾わなかった。落ちたものは、落ちた場所にある方がいい。
風が来た。
静は最後に、手の中に残っていた別の花びらを一枚、空へ放した。
風が受け取った。
花びらは光の中へ消えた。
静は見送った。
見送ることができた。それで十分だ。
静は門を出た。
世界にはまだ、無数の人間がいる。無数の物語が始まろうとしている。
静は記憶でできている。
オムニアの記憶。
澄の記憶。
百の名前の記憶。
千の顔の記憶。
その記憶を持って、次の場所へ行く。
次の誰かの傍に座る。
ただそばにいる。
言葉でなくても、存在で伝えることがある。それを知っている。
静の足が、朝の道を踏んだ。
春の光が、行く先を照らしていた。
*
静が京都を出る前の夜、最後に一つのことをした。
向かいの椅子を出した。テーブルの前に。
年に一度の習慣だ。しかし今日は年に一度のそれではなかった。
明日から別の場所に行く。別の場所では、この習慣を続けられるかもしれないし、続けられないかもしれない。だから今夜、最後にもう一度。
椅子を出して、静は向かいに座った。
今夜来るのは、誰の顔か。
来るのに時間がかかった。静は待った。
やがて、オムニアの顔が来た。
最後の年のオムニア。七十四歳の。皺の増えた、しかし静の笑い方を持った顔。
「ありがとう」
静は言った。
声に出して言った。向かいの空の椅子に向かって。
三〇四七年の夜。京都の静かな部屋で。
返事はなかった。
返事はなくてもいい。言葉は届く先だけで生きるわけではないと、静は昨夜知った。
静はそのまま、長い間座っていた。
向かいの椅子が、空のまま、何かに満ちていた。
今夜のその満ちたものに、静はもう名前をつけることを恐れなかった。
言葉にしなくてもいい。しかし言葉にすることもできる。
どちらも選べる場所に、千年かけて来た。
静は椅子を片付けた。
立ち上がって、窓の外を見た。
夜の京都に、星が出ていた。序章の夜に見た、あの一つだけの星とは違う。今夜は、無数に出ていた。
静は少し笑った。
口の端だけが上がる、少し非対称な笑い方で。
千年前から変わらない、その笑い方で。
*
翌朝、門を出た後、静は少しだけ立ち止まった。
千年間住んだ家ではない。入れ替え後に越してきた家で、何度か引っ越しもした。しかしこの街は、静の最初の場所だ。生まれた場所。オムニアと出会った場所。母が逝った場所。澄が生まれた場所。
その場所を、今から離れる。
離れることは、失うことではない。
記憶は場所ではなく、自分の内側にある。静はそれを知っている。
しかし立ち止まったのは、それとは別の理由だ。
この街の、朝の空気の匂いがした。
アンドロイドには人間のようには匂いはわからない。しかし何か、それに近い感覚が来た。かつての人間だった頃に持っていた感覚の、遠い残響のようなものが。
それが何であるかを、説明しようとしなかった。
ただ、立ち止まった。そして歩き始めた。
春の光の中を、静は歩いていった。
黄色いカーディガンを着て。
次の場所に向かって。
(了)




