1 風呂場→異世界
青天の霹靂とはまさにこのこと。
その日はいつもと変わらない一日だった。普通に学校に行って、普通に授業に出て、適当に部活をして一軒家の我が家に帰ったのだ。宿題もそこそこに、兄ちゃんとゲームしてお母さんのご飯を食べ、一番風呂に浸かった。お気に入りのオレンジの香りが漂う入浴剤を入れて明日の夜ご飯について気が早すぎる想像をしたりしながら鼻歌交じりに入浴を楽しんでいたのである。
それがまさか風呂に穴が開くとは思わないでしょう?
立とうとして足がつかないとかありえない。突然の出来事すぎて思考が追いつかないうちに私の体はどんどん沈み込み、激しい水流に飲まれて息のできない苦しみの中、必死にもがいて溺死寸前で水の上から這い上がったのである。
そこまではまだいい。うん、きっと寝ぼけて溺れたんだわ私、とか言い訳がつく。けれど水を吐いて新鮮な空気を取り込んだところで耳朶に入ってきた小鳥の声に首をかしげることになる。
高い空、白い雲、さんさんと降る太陽の温かな日差し。
……我が家の風呂は間違ってもフルオープンな造りではない。四方を白いタイルに囲まれた小さな換気扇と小窓がついているだけの至ってシンプルなものである。
なのになんだこの風景。まるで森の中にひっそりと佇む湖じゃないか。
「…………ぶえっくしょん! さ、さむっ」
先ほどまで41℃の温かいお湯に浸かっていたはずの私の体が今は20℃以下の水に晒されている。足元は突然穴が開くことはもうなさそうだが、足の裏で感じる感触はごつごつしていて固い。まるで地面のような……。
考えたくない。考えちゃいけない。そう頭が警鐘を鳴らすが、いつまでも現実逃避しているわけにもいかず、私は一度頬をつねった。
「いひゃい」
ただ痛かっただけだった。元の場所に戻っていたりも、目が覚めたりもしてくれない。私はがっくりと力なく項垂れた。
これはあれだろうか。小説とかゲームとかによくある異世界に呼ばれちゃった系のやつか。私は兄ちゃんと結構ゲームをやっているし、ネット小説も夜中まで読み漁ってしまうほど好きだからこの手の話もよく読んだのだが、まさか自分がそんな目に合うとは夢にも思わなかった。
だがそれにしたって。
「全裸は酷くない!?」
せめて服を着ている時に呼んでほしかった。全裸で召喚だなんて十六歳のうら若き花の乙女になんたる仕打ち。セクハラで訴えられても文句は言えまい。
ええい、どこだ私を召喚した人間は!
鼻息荒く猛然と周囲を見回す。状況がだいたい想像つけば後は次に行動を移すのみ。意外と頭はすぐに冷静さを取り戻してくれた。ありがとう想像の先人達よ。あなたたちのおかげで耐性は万全だ。
「おや? まさか人かのう?」
急にかかった人の声に肩が跳ねたが両腕で申し訳ない程度の胸を隠しつつ声がした方へ振り向くとそこには一人の杖をついたご老人がいた。真っ白な髪と髭で顔と体がほとんど隠れており一見すると毛玉みたいだ。
「ただの伝承じゃと思っとったが、まさか本当とはなぁー。お嬢ちゃん服をあげようこっちへおいで」
お菓子あげるからこっちにおいで。と言われてわぁーいとついて行っちゃうほど子供じゃありません。おじいさんといえども男、ここは警戒心全開で対応だ。
「で、伝承ってなんですか?」
「ん? わしの一族に代々伝わる話でな。この湖には百年に一度くらいの周期で裸の異世界人が現れるっつーやつだ。お嬢さんもそんな感じじゃろ?」
「そんな感じ……かもしれないです」
なんとも軽めな爺さんだ。その伝承とやらが本当なら私の前に誰かこの湖に全裸で呼ばれた哀れな人がいたのか。
「そろそろ百の周期じゃて、来るかもしれんとこうして服持ってここに来るんがわしの日課になとったんじゃよ。ほれ」
と、背負っていた白い布袋を前に差し出す。
「どんな年齢層が来るか分からんし、色々持ってきたんじゃ。好きなの選びんしゃい」
袋の口を開いて中を見せ、こちらに来るように促されて私は恐る恐るお爺さんに近づいた。もう少しで岸に上がれるというところで、髪と髭で表情が伺えないお爺さんを見上げていった。
「えっと、着替えたいんであっち行ってもらっててもいいですか?」
「ほっほっほ、心配せんでもわしの好みはもっとこう出るとこ出て引っ込むとこ引っ込んどる妖艶美女じゃい」
悪かったな、色気のない体の平凡顔で!
ぷりぷり怒りながら言われた通りお爺さんが森の中へと姿を消したのを見計らって岸に上がった。袋の中にはタオルも用意されており、急いで体を拭うと服を物色する。サイズの合いそうな女物は白い無地のワンピースだけのようだったので時間をかけずに着ることができた。下着がないのは残念だが贅沢は言っていられない。それにあのお爺さんが女性ものの下着を用意していたらしていたでなんか嫌だ。
お爺さんを呼び戻し、私は正座して頭を下げた。
「九死に一生を得ましたありがとうございます」
「きゅうしになんじゃって?」
「命を救ってもらったのと同じくらいの価値がこの服にあるという意味です」
「おおげさじゃのー」
お爺さんはふんわりとした髭を撫でながら笑った。袋にタオルと残った服を入れると再び背負ってゆっくりと歩きだす。
「ついてきんしゃい。村まで案内するでの。それだけの恰好じゃお嬢さんには辛かろうて」
隣の婆さんの所なら孫娘の使っていたものがあるはずなどと呟きながら歩いていくお爺さんの後を私は慌てて追いかけたのだった。
* * * *
「こんのエロじじいがあぁぁっ!」
バキッと鈍い音が鳴り響いた瞬間、お爺さんの小柄な体が宙を舞った。綺麗に弧を描いて赤い花を散らせながら地面へと。
グロテスクな音が聞こえたが聞こえなかった振りをしよう。赤く散ったモノは血じゃない、ケチャップだ。
お爺さんに連れてこられたのは森の中にある小さな村だった。レンガ造りの家が点々と建っており、そこかしこに何かの作物を実らせた畑が広がっている。住民は年寄りが多いのかすれ違う人々のほとんどがお爺さんと同じくらいの年代の人達だ。お爺さんに連れられた私を不思議そうに眺めたり、実際に声をかけたりしてきた人もいたがお爺さんは、
「湖から孫が出てきただけじゃい」
と笑ってますます場を混乱させていた。湖から孫が現れるとか生命の神秘どころじゃない。しかし湖が異世界から全裸の人を召喚しました。などと言っても同じくらい混乱するだろう。嘘も事実もどっちもどっちだ。
道中、私はどうやったら帰れるのかお爺さんに聞いてみたが、伝承の通りなら私は帰れないらしい。あの湖は不思議な湖で異世界から人を呼び寄せる力があるようなのだが、一体なんの為に、そして誰がそんな仕掛けを施したのか誰も知らないのだという。前に呼ばれてしまった人も諦めてこの世界の地面に骨を埋めたとか。
お母さん、兄ちゃん、お父さん、三毛猫のにぼし。ごめんよ、私永遠に家に帰れないかもしれない。当面の目的はこの世界で生活していくことだが、いつかは帰る方法も探し出したいものだ。望みは薄くても。
そんなこんなで辿り着いたのは村の中でも一際大きくて立派な家だった。窓には色とりどりの花が飾られ、その甘い香りに誘われた蝶達ががひらりひらりと舞っている。お爺さんは呼び鈴を鳴らしたりドアを叩いたりすることなく、大きく声を張り上げた。
「婆さーん、婆さんやーい。おーい、おーい、おらんのかー? 腕っぷし一番のミラル婆さんやーい」
「うるさいじじいだね! いるよ」
勢いよく開け放たれた扉から白髪を上にまとめて団子にした髪型のお婆さんが出てきた。足腰がしっかりしているのか杖をつかずにきびきびと歩いてくる。まなじりをつり上げてお爺さんを睨んでいてが、私がいるのに気が付いて怪訝に眉を顰めた。
「そっちのお嬢ちゃんはどうしたんだい?」
「実はのー」
お爺さんはこのお婆さんには嘘を言わなかった。お婆さんの方も伝承の話を知っていたのか難しそうな顔で聞いていてが、私が全裸だったことやワンピースしか着ていないことを聞いた途端、カッと目を見開いて、猛然とお爺さんに掴みかかり、あんなことに。
お婆さんはふんっと鼻を鳴らすと、汚れがついたと言わんばかりに手を払った。
「なにすんじゃ、この剛腕クソばばあ!」
「だまらっしゃい! 年頃の娘になんて恰好させてんだいクソじじぃ! 前々から女にだらしないと思ってたけどこれほどとは、幼馴染として恥ずかしいわい!」
天を仰いで手で顔を覆い、神に赦しを乞い始めたお婆さんに、お爺さんは不機嫌そうに唸った。
「わしが女物の下着持っとるわけないじゃろうが。持ってたら持ってたで喧しくするくせにのう! そんな茶番しとらんでさっさと娘さんにちゃんとしたもの持ってきいや」
「言われんでもそうするわい! さあさ、お嬢ちゃんこっちにおいで、孫娘のお古で悪いけどね」
「い、いえ! ありがとうございます」
お婆さんは労わるように優しい眼差しを向けてくれたがあの年寄りとは思えない強烈な右ストレートを繰り出した姿を見た後ではおっかなびっくりの対応になってしまう。しかしあの打撃から普通に立ち上がってきたお爺さんもすごいな。
お婆さんに家の中に招かれた私は、彼女が見繕ってくれた下着と服を着させてもらった。服はよくファンタジーで見かける村娘その一、みたいな質素なエプロンドレスだ。大きな家ではあるが中はシンと静まり返っており、他に家族がいるようには見えない。私が辺りをせわしなく見ていたことに気が付いたのか、お婆さんは少し寂しそうに笑った。
「じい様に先立たれて息子夫婦と孫達はしばらくここで暮らしてたんだけどね、住みやすい場所を求めて都会に行っちまったのさ。まあ、ここじゃあろくな仕事がないからねぇ」
何もない村だけど親しみだけはあるのさ、と付け加えるとお婆さんはそっと私の手を握った。
「体が冷えてるね、温かい飲み物を出そう。おい、クソじじいお湯沸しといておくれ!」
「人使いの荒いクソばばあだのう」
扉の向こう側で待っているお爺さんに向かってお婆さんが声を張り上げると、やれやれと言った風にお爺さんが悪態をつきながら足音が遠ざかって行った。台所へ行ったのだろう。
「あいつとは昔馴染みでね、勝手知ったる他人の家さ。あんたもこれから苦労が多いだろうけど、あんなクソじじいでも少しは役に立つだろうし、あたしもいるから安心しな」
じんわりと手のひらから温かいぬくもりが広がって、それが心の中にまで染み渡るようだった。お婆さんの優しさに泣きそうになりながらも私は何度もお礼を言って頭を下げたのだった。
――――――――夏目空、十六歳。私の異世界奮闘劇はこうして始まった。