第57話 始まりの終わり
白い空間に、二人だけが立っていた。
始祖神。
そして、アルト。
その背後では、世界が静かに動いている。
風が吹き、海が揺れ、人々が暮らしている。
始祖神が管理していた世界。
その管理を失っても、世界は続いていた。
「不思議なものだな」
始祖神が口を開いた。
「私が手を離しただけで、これほど頼りなく見えるとは」
「頼りないんじゃない。お前が見てこなかっただけだ」
「何をだ?」
「お前が管理していた世界の、その先をだ」
始祖神は遠くの景色を見た。
一人の男が、畑を耕している。
子供が転び、母親が駆け寄る。
街では人々が行き交い、誰かが誰かに道を尋ねている。
どれも、神の力など必要としない小さな営みだった。
「私は、あらゆるものを守ろうとした」
始祖神は言った。
「争いをなくし、病をなくし、飢えをなくし、死を遠ざけた。だが、それでも人々は苦しんだ。何度も失敗し、何度も傷つき、同じ過ちを繰り返した」
「そうだな」
「ならば、私のやり方が間違っていたと言うのか」
「間違っていた」
アルトは迷わず答えた。
「だが、お前が守ろうとしたことまで否定するつもりはない」
始祖神の目が、わずかに動いた。
「守ろうとしたことは、間違いではないと?」
「守りたいと思うことと、すべてを自分のものにすることは違う」
アルトは拳を握った。
「お前は世界を守るために、世界から選ぶ力を奪った。それが間違いだった」
「選ばせれば、失敗する」
「するだろうな」
「失えば、取り戻せないものもある」
「そうだ」
「それでも、お前は世界に任せると言うのか」
「任せるんじゃない。世界は、もともと世界のものだ」
始祖神は黙った。
その表情から、怒りが消えていた。
代わりに、深い疲労のようなものが浮かんでいる。
「私は、恐れていたのかもしれない」
「何を?」
「失うことを」
始祖神は自分の手を見つめた。
「世界が生まれ、命が生まれ、文明が生まれた。だが、どれも永遠ではなかった。守っても、守っても、何かが失われていく。私はそれに耐えられなかった」
「だから、終わらない世界を作ったのか」
「そうだ。終わりさえなければ、失うこともない」
アルトは目を伏せた。
かつての自分を思い出していた。
力を持たず、誰かの命令に従い、使い捨てられるだけだった少年。
自分を守るために力を求め、力を得て、やがて他者を管理する側に立った。
守るため。
秩序のため。
世界のため。
理由はいくらでも作れた。
「俺も、同じことをした」
アルトが言った。
「俺は、かつて人を管理していた。必要なものを選び、不要なものを切り捨てた。自分が正しいと思っていたからな」
「お前も、私と同じだったのか」
「違うところもある。だが、似ているところもある」
アルトは始祖神を見た。
「だから、お前を倒すことにした」
「同情しているのか?」
「していない」
「ならば、なぜ話を聞く」
「お前を殺すからだ」
始祖神の顔から、わずかに表情が消えた。
「死、か」
「ああ」
「お前は死そのものになった。私を殺せば、神々はすべて終わる」
「神々だけじゃない。お前自身もだ」
「私が死ぬことに、意味はあるのか」
「ある」
アルトは静かに答えた。
「終わりがあるから、次が始まる」
始祖神は、遠くの世界を見た。
「次が始まる保証など、どこにもない」
「保証なんてない」
「それでもか」
「それでもだ」
始祖神は目を閉じた。
そして、ゆっくりと両手を広げた。
「ならば、最後まで確かめよう。お前が信じる世界に、私が終わりを与えられるか」
次の瞬間。
始祖神の身体から、光が噴き出した。
管理の力は失われている。
世界を支配する輪も、もう存在しない。
それでも、始祖神は神だった。
その身体には、世界の始まりから積み重ねられた膨大な力が残っている。
白い空間が震えた。
始祖神の周囲に、無数の光の刃が現れる。
「これが、私自身の力だ」
光の刃が一斉に放たれた。
アルトは波を展開する。
反射。
屈折。
干渉。
光の刃の軌道をずらし、互いにぶつける。
だが、始祖神は止まらない。
両手を振るたびに、新たな刃が生まれる。
アルトの肩をかすめ、腕を切り裂き、足元の空間を砕いていく。
「キュイイイイイッ!」
アルトは高周波の波を放った。
始祖神の身体が揺らぐ。
しかし、その傷はすぐには塞がらなかったものの、始祖神は倒れなかった。
「世界を管理する力は失った。だが、私が積み重ねてきた力までは消えていない」
始祖神が拳を振るう。
衝撃がアルトを襲った。
身体が後方へ吹き飛ばされる。
「アルト!」
リナの声が響いた。
「大丈夫だ!」
アルトは空中で姿勢を立て直す。
「大丈夫じゃないでしょ!」
「うるさい。見ていろ」
「見てるわよ!」
リナは歯を食いしばり、二人の戦いを観測し続けていた。
その隣で、ゲンダが拳を握る。
「手を貸せねえのが、もどかしいな」
「今は、彼自身の戦いです」
セナが答えた。
「私たちができることは、もう終わりました」
カイは黙って二人を見ていた。
「……いや」
やがて、彼が口を開いた。
「終わったんじゃない。俺たちの役割が変わったんだ」
「どういうことだ?」
ゲンダが尋ねる。
「これからの世界を、俺たちが生きる。それが俺たちの役割だ」
三人は、アルトを見つめた。
その先には、始祖神がいる。
「お前は、私を殺せるのか?」
始祖神が尋ねた。
アルトは答えない。
代わりに、両手を広げた。
世界を満たす波を探る。
かつては音だけだった。
やがて物質を伝わる波を知り、光を知り、あらゆる変化に波が関わっていることを知った。
波を重ね、打ち消し、反射させ、つなぎ、切る。
そして今、アルトは死となった。
命の終わりを知り、終わりが次の始まりにつながることを知った。
「キュイイイイイッ!」
アルトの身体から、黒い波が広がった。
終端波。
だが、以前とは違う。
それは単に存在を壊す波ではない。
あるものが、そこにあり続けるための関係を終わらせる波だった。
始祖神は両腕を交差させ、光の壁を作った。
黒い波が衝突する。
白い空間が大きく揺れた。
「その波では、私を終わらせられない!」
始祖神が叫ぶ。
「私は世界の始まりにいた。世界とともに存在してきた。世界の終わりでも来ない限り、私に終わりは訪れない!」
「違う」
アルトは波を押し進めた。
「お前は、世界そのものじゃない」
「何だと?」
「お前は世界の始まりにいた。だが、世界のすべてではない」
黒い波が、光の壁を少しずつ侵食する。
「お前は世界を守ろうとした。世界を管理しようとした。世界の終わりを恐れた」
アルトの声が響く。
「だが、お前は世界じゃない。世界が続くことと、お前が続くことは別だ」
光の壁に亀裂が入った。
始祖神の表情が変わる。
「私は……世界を守ってきた!」
「もう分かっている!」
アルトは叫んだ。
「だからこそ、お前自身に終わりを与える!」
黒い波が、始祖神の身体に届いた。
始祖神の胸に、細い亀裂が走る。
そこから光が漏れ出した。
始祖神は片膝をついた。
「……これが、死か」
その声は、驚くほど静かだった。
「そうだ」
「私は、終わるのか」
「ああ」
「世界は……」
始祖神は、遠くを見た。
世界が見える。
山があり、海があり、街がある。
人々が暮らしている。
誰かが生まれ、誰かが老い、誰かが死ぬ。
誰かが失敗し、誰かが立ち上がる。
誰かが何かを作り、誰かがそれを受け継ぐ。
完璧ではない。
それでも、動いている。
「私がいなくても……」
「ああ」
「世界は、続くのだな」
「続いていく」
始祖神は、初めて微笑んだように見えた。
「そうか」
その身体から、光が一つ、また一つと消えていく。
「私は、終わることを恐れていた」
始祖神は言った。
「終わってしまえば、すべてが無意味になると思っていた」
「無意味にはならない」
アルトは答えた。
「お前が守ろうとしたものも、お前が間違えたことも、ここまで続いてきた世界の一部だ」
「そうか……」
始祖神の身体が、ゆっくりと崩れていく。
「ならば、最後に一つだけ聞かせてくれ」
「何だ」
「お前は、これからどうする」
アルトは少しだけ考えた。
「俺は死だ」
「世界の死を司る者として、世界を管理するのか」
「しない」
「ならば、何をする」
「必要なときに、終わりを与える」
アルトは遠くの世界を見た。
「だが、いつ何を終わらせるかを、俺が決めるわけじゃない。世界のすべてを見渡して、正しい答えを選ぶつもりもない」
「それでは、死を司る意味がないのではないか」
「そうかもしれない」
アルトは答えた。
「それでも、俺はお前の代わりにはならない」
始祖神は、ゆっくりとうなずいた。
「そうか……」
その身体が、最後の光を放った。
「ならば、世界を見届けてくれ」
「約束はできない」
「そうか」
始祖神は、かすかに笑った。
「それでいい」
光が消えた。
始祖神の身体は、白い空間に溶けるように消えていった。
最後の一片まで消えたとき、世界のどこかで鐘が鳴った。
それは神の命令でも、世界の仕組みによるものでもない。
ただ、どこかの街で、誰かが鐘を鳴らしただけだった。
長い沈黙が訪れた。
やがて、リナが口を開いた。
「……終わったの?」
アルトは振り返った。
「ああ」
「本当に?」
「本当にだ」
リナはしばらくアルトを見つめていた。
そして、ようやく息を吐いた。
「そっか」
ゲンダが大きく息を吐く。
「終わったんだな」
「ええ」
セナは目を閉じた。
「もう、誰かの命を守るために、世界そのものと戦う必要はありません」
カイは遠くの世界を見た。
「これからは、あの世界が自分で進んでいく」
アルトはうなずいた。
そのとき、白い空間に亀裂が走った。
「おい、アルト!」
ゲンダが叫ぶ。
「ここも崩れるぞ!」
「始祖神がいなくなったからか?」
「違う。ここは、あいつが作った管理のための空間だ。もう維持する必要がないんだろう」
アルトは仲間たちを見た。
「戻るぞ」
彼らの足元に、光が広がる。
次の瞬間、世界が変わった。
風が吹いていた。
草原だった。
青い空の下、草が揺れている。
アルトたちは、かつて旅をしていた世界に戻ってきた。
誰も倒れていない。
誰も消えていない。
空には雲が流れ、遠くでは鳥が飛んでいる。
リナはその場で一回転した。
「空気が違う!」
「そうか?」
「違うわよ! なんだか、すごく普通!」
ゲンダが笑った。
「普通が一番ってことか」
「普通って、こんなにありがたいものだったんですね」
セナが空を見上げた。
カイは草を一握りつまみ、指の間から落とした。
「世界は、続いている」
アルトは何も言わなかった。
ただ、風を感じていた。
その風は、どこかから命令されて吹いているわけではない。
空気の温度差によって生まれ、地形にぶつかり、向きを変え、どこかへ流れていく。
誰かが管理しているわけではない。
それでも、そこにある。
「ねえ、アルト」
リナが声をかけた。
「これからどうするの?」
「さあな」
「さあなって……」
「旅を続ける」
「それだけ?」
「それだけだ」
リナは少し考えたあと、笑った。
「じゃあ、私も行く!」
「俺もだ」
ゲンダが言った。
「まだ直してねえものが山ほどあるからな」
セナも続く。
「私も行きます。助けを必要としている人は、これからもいるでしょうから」
カイは肩をすくめた。
「一人で残る理由もない」
アルトは仲間たちを見た。
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。
彼らは歩き出した。
それから、世界は変わっていった。
すべてが良くなったわけではない。
国と国の争いは続いた。
病に倒れる人もいた。
飢えに苦しむ地域もあった。
人々は時に間違え、互いを傷つけた。
だが、誰かが助けを求めれば、別の誰かが手を差し伸べた。
壊れた橋は、人々の手で架け直された。
枯れた土地には、水を引く方法が考えられた。
失われた知識は、残された記録から少しずつ取り戻された。
誰も、完璧な世界を与えてはくれない。
だから、人々は自分たちで世界を作っていった。
アルトたちも旅を続けた。
ゲンダは各地の建物や設備を直し、リナは見たことのない現象を追いかけた。
セナは病人を治療し、救える命を救った。
カイは必要な場所で境界を作り、人々が安心して暮らせる場所を守った。
そしてアルトは、彼らとともに歩いた。
時には人を助け、時には何もできず、時には誰かの死を見届けた。
死はなくならない。
悲しみもなくならない。
それでも、誰かが生まれ、誰かが生き、誰かが次へとつないでいく。
ある日、アルトたちは小さな村に立ち寄った。
村の広場では、子供たちが走り回っていた。
そのうちの一人が転び、膝を擦りむいた。
泣き出す子供に、別の子供が駆け寄る。
「大丈夫?」
「痛い……」
「立てる?」
「うん」
二人は手をつないで立ち上がった。
アルトは、その様子を見ていた。
「何を見てるの?」
リナが隣に立つ。
「いや」
アルトは子供たちから目を離さなかった。
「世界は、続いているんだなと思ってな」
「当たり前じゃない」
リナは笑った。
「でも、当たり前って大事よね」
「ああ」
アルトは空を見上げた。
雲が流れている。
風が吹いている。
草が揺れている。
そこには、神の命令も、完璧な計画もなかった。
ただ、変化があった。
生まれるものがあり、終わるものがあり、その先にまた何かが始まる。
アルトは歩き出した。
「行くぞ」
「待ってよ!」
リナが追いかける。
その後ろから、ゲンダとセナ、カイも続いた。
誰かが世界のすべてを決めることはない。
誰か一人が、すべてを背負う必要もない。
明日、何が起こるかは分からない。
それでも、明日は来る。
世界は、誰かの所有物ではない。
世界は、続いていく。
終わりがあるからこそ、始まりがある。
そして、始まりはいつだって、誰かの小さな一歩から生まれる。
アルトたちの姿は、風の吹く草原の向こうへと消えていった。
その先に、何が待っているのか。
誰にも分からない。
だからこそ、世界は続いていく。
――完。




