第53話 予測できない世界
最初に消えたのは、空だった。
アルトたちが街に戻ってから、わずか数分後。
青空の一部が、まるで紙を切り取ったように消失した。
その向こうには、何もなかった。
星も、光も、闇さえもない。
「また始祖神か……!」
ゲンダが空を見上げる。
「違う。これは攻撃じゃない」
アルトは目を細めた。
「世界が、消されている」
消えた空の縁から、白い線が伸びてきた。
線は建物を横切り、道路を横切り、人々の身体を通り抜ける。
触れられたものは、音もなく消えた。
「逃げて!」
リナが叫ぶ。
人々が走り出す。
しかし、白い線は彼らの逃げ道を先回りするように伸びていった。
アルトが手を振る。
「キュイイイイイッ!」
衝撃波が広場を走る。
白い線にぶつかった瞬間、波は消えた。
いや、消された。
アルトの攻撃が発生したという事実そのものが、なかったことになっている。
「何だと……!」
「アルト、こっち!」
リナが叫んだ。
彼女は白い線の先を見ていた。
「線が来る前に、消える場所が見える!」
「どういうことだ?」
「まだ消えていない場所が、先に消える未来として見えているの!」
アルトは理解した。
始祖神は攻撃しているのではない。
世界の中から、消滅する可能性を選び出し、それを現実にしている。
「ならば!」
アルトは地面に手をついた。
地中を伝わる弾性波が広がる。
街の構造を読み取り、白い線が通る経路を探る。
だが、波が届く前に、その経路が消えた。
「くそっ!」
ゲンダが両手を地面につける。
「構造を支える!」
彼の視界に、街を形作る無数の線が浮かび上がった。
消えかけた建物の構造をつなぎ直す。
だが、つないだ瞬間、その構造が存在しない可能性へと押し戻された。
「駄目だ! 支える場所そのものが消えていく!」
カイが境界を作る。
白い線と街の間に、巨大な壁が現れた。
しかし壁は、完成する前に消えた。
「境界を作ること自体を、なかったことにされた!」
セナは人々の中に駆け込んでいた。
倒れた老人の身体に触れ、生命の流れをつなぐ。
「まだ生きている! この人たちは、まだ終わっていない!」
しかし、白い線が老人の身体を通過した。
セナの手が止まる。
生命の流れが、途中で途切れた。
「そんな……」
アルトは振り返った。
「セナ!」
「大丈夫。まだ間に合う人がいる!」
彼女は立ち上がり、別の人へ走った。
そのとき、空間が白く染まった。
始祖神が現れた。
「抵抗は無意味だ」
「お前……!」
アルトが飛びかかる。
だが、始祖神は動かなかった。
アルトの身体が、始祖神に届く前に消えた。
右腕がない。
続いて、左脚も消えた。
「アルト!」
リナの声が遠くなる。
始祖神は静かに告げた。
「お前たちが行うことは、すべて可能性として存在している。攻撃する可能性。防御する可能性。逃げる可能性。仲間を救う可能性」
白い空間に、無数の光が浮かび上がった。
「私はそれらをすべて把握している。そして、望ましくない可能性を消している」
アルトの身体が崩れ始める。
「世界に、予測できないことなどない」
アルトは白い空間に倒れていた。
身体は戻っていない。
仲間たちの姿も見えない。
始祖神の声だけが響く。
「お前は時間に触れた。だが、時間を理解したわけではない。まして、可能性を生み出すことなどできない」
アルトは顔を上げた。
「……可能性を生み出す?」
「世界は、私が選ぶ前からすべての可能性を持っている。私はその中から最適なものを選ぶだけだ」
「そうか」
アルトは笑った。
「お前は、選ぶだけなんだな」
「何?」
「世界がどう変わるかを決めているつもりで、実際には、用意された可能性から選んでいるだけだ」
「それが何だという」
「お前は、世界がどうやって可能性を生むのかを知らない」
始祖神の目がわずかに動いた。
「愚かなことを」
「なら、試してみろ」
アルトは目を閉じた。
自分の身体を取り戻そうとはしなかった。
始祖神を攻撃することもしなかった。
ただ、仲間たちの存在を感じようとした。
遠くに、小さな波があった。
リナ。
ゲンダ。
セナ。
カイ。
それぞれが、別々の場所にいる。
そして、それぞれが何かをしようとしていた。
最初に動いたのは、ゲンダだった。
彼は崩れかけた空間の中で、一本の構造線を見つめていた。
それは、始祖神が作った世界を支える線ではない。
始祖神が消し残した、わずかな隙間だった。
「……ここか」
ゲンダは両手を伸ばした。
「俺は機械の修理屋だ。壊れたもんを直すのが仕事だ」
彼はその隙間に、構造をつなぎ直した。
「だがな、壊れてないもんまで勝手に作り替えるのは、修理とは言わねえんだよ!」
空間に、一本の亀裂が走った。
始祖神が振り返る。
「なぜ、その構造を認識できる?」
ゲンダは答えない。
彼はただ、自分が見つけた線を支え続けた。
次に動いたのは、カイだった。
彼は亀裂の両側に境界を作った。
一方は始祖神が管理する空間。
もう一方は、ゲンダがつなぎ直した空間。
「ここから先は、お前の世界じゃない」
カイは境界を閉じた。
始祖神の管理が、亀裂の先へ届かなくなる。
「そんな境界が成立するはずがない!」
「成立するかどうかは、俺が決める!」
カイの境界が震えた。
だが、消えなかった。
セナは、倒れた人々の中にいた。
彼女の前には、息をしていない少女が横たわっていた。
生命の流れは、ほとんど途切れている。
「まだ……」
セナは少女の胸に手を当てた。
「まだ終わっていない」
彼女は少女の生命の流れをつなぎ止めた。
少女の指が、わずかに動く。
その瞬間、セナの周囲にいた人々も動き始めた。
誰かが少女を抱き起こす。
誰かが助けを呼ぶ。
誰かが別の人へ手を伸ばす。
始祖神が用意した世界にはなかった動きが、次々に生まれていく。
リナは、白い空間の中で目を閉じていた。
彼女には無数の可能性が見えていた。
そのすべてが、始祖神によって選別されていく。
だが、彼女は気づいた。
始祖神が見ているのは、世界の可能性だ。
しかし、人々が何を見て、何を考え、誰に手を伸ばすか。
その一つひとつが、次の行動を変えていく。
「……そういうことか」
リナは目を開いた。
「可能性って、最初から並んでいるものじゃない」
彼女は、まだ誰も見ていない場所を見つめた。
「見つけた可能性を選ぶだけじゃない。誰かが何かをしたから、初めて生まれる可能性もある」
彼女は、その瞬間を観測した。
誰かが誰かを助ける。
助けられた人が、別の誰かを助ける。
その人がまた別の人に手を伸ばす。
小さな選択が連なり、誰も予測していなかった動きが生まれていく。
リナの視界に、新しい光が灯った。
始祖神の周囲に、無数の光が現れた。
それは、彼が把握していた可能性ではない。
今、この瞬間に生まれている可能性だった。
「馬鹿な……」
始祖神が手を伸ばす。
光を消そうとする。
しかし、消した先で、別の光が生まれる。
一つの選択を封じれば、別の選択が生まれる。
一人の行動を止めれば、別の誰かが動く。
「これは……何だ?」
始祖神の声に、初めて動揺が混じった。
そのとき、アルトの身体が再び形を取り戻した。
右腕が戻る。
左脚が戻る。
胸に鼓動が戻る。
彼は立ち上がった。
「ようやく分かった」
始祖神が睨む。
「何を理解した?」
「お前は、世界を管理しているんじゃない」
アルトは仲間たちを見た。
ゲンダは構造を支え、カイは境界を保ち、セナは人々の命をつないでいる。
リナは、新しく生まれる可能性を見つめていた。
「お前は、世界が生み出した可能性を、後から選別しているだけだ」
「それが管理だ!」
「違う」
アルトは首を振った。
「世界は、お前が選ぶ前から動いている。お前が把握できる範囲だけが、世界のすべてじゃない」
始祖神の背後で、巨大な光の輪が揺れた。
「私はすべてを把握している!」
「なら、今起きていることも把握できるはずだ」
アルトは手を広げた。
「俺たちが何をするか、予測してみろ」
始祖神は黙った。
「俺が何をするか。リナが何を見るか。ゲンダが何を支えるか。セナが誰を救うか。カイが何を通すか」
アルトは一歩踏み出した。
「答えてみろ」
始祖神は答えなかった。
彼の周囲に、無数の光が生まれ続けていた。
「……そんなはずはない」
アルトは言った。
「お前が世界を決めるんじゃない。世界が変わるから、お前の選択にも意味が生まれるんだ」
始祖神の表情が歪んだ。
「黙れ!」
巨大な光の輪が回転する。
空間全体が激しく揺れた。
だが、アルトたちは倒れなかった。
彼らはそれぞれ、自分の判断で動き続けていた。
始祖神は、初めて理解した。
自分が把握できないものがある。
それは、世界の外にある何かではない。
世界の中で、今まさに生まれ続けているものだった。
「……お前たちは」
始祖神の声が震える。
「私の管理から外れたというのか」
アルトは答えた。
「最初から、お前のものじゃない」
始祖神の背後で、巨大な光の輪に亀裂が走った。
しかし、始祖神自身はまだ倒れていない。
彼はゆっくりと顔を上げた。
「ならば、世界そのものを止める」
その瞬間、無数の光が一斉に消えた。
音も、風も、人々の動きも止まる。
アルトたちの身体も、再び動かなくなった。
始祖神は静かに告げた。
「可能性が生まれない世界なら、私の管理から逃れることもできまい」
アルトは動かない身体の中で、ただ一つのことを考えていた。
始祖神は、世界の可能性を選別することはできる。
だが、世界が可能性を生み出す仕組みそのものを理解していない。
そして今、始祖神はそれを止めようとしている。
「……そうか」
アルトの口元が、わずかに動いた。
「お前は、自分が何を止めようとしているのかも分かっていないんだな」
白い世界に、静寂が広がった。
その奥で、まだ誰にも見つけられていない小さな変化が始まっていた。




