ショック
ゼヒー、と乙女に似合わぬ荒い息を吐くのは羊谷麦。
青い顔は体調不良でもなく、また震える足は疲労からではない。
崩れ落ちて四つん這いになる。アスファルトに素肌の膝を突くが、その程度気にしていられない。
抱えられていた腹の圧迫感から開放され、ようやく一息つける。そして今の今まで自分の腹を抱えていたもう一人の乙女を見上げた。
「ふぅ……」
今の今まで全力疾走していたはずである。そして太ってはいないが重たいはずの自分を抱えたままだったはずである。また、塀の上、屋根の上を駆けるというよりも跳んできたはずである。
なのに、一度の深呼吸で既に息が整った様子の糸子を見て、羊谷は空中にいる間に感じていたものとほとんど同じ恐怖を浮かべた。
「多分、総一たちは道場だろう。行くぞ」
多分ではない。ほぼ間違いなくではある。ついてこいと糸子は羊谷を促し、自身は勝手知ったる自宅の門を潜り足を踏み入れる。
震える足を叱咤し立ち上がった羊谷は、その糸子の表情に見た。
まるで、これから喧嘩にでもいくような気合いを。
板張りの玄関に、二人が上履きを脱ぎ捨てて上がる。
フローリングともまた違う磨かれた板は靴下で滑り、一歩踏み出した羊谷は危うく転びそうになった。
「道場破りって、危ないんすか?」
「危ないに決まってるだろう」
背中で吐き捨てるような糸子の言葉。それにわずかに羊谷はムッとする。
そもそも、自分はまだ事情をほとんど聞いていないのだ。
ここは糸子の家の道場だという。そして総一はここに道場破りに来たのだという。糸子の弟との勝負を目当てに。
そして道場破りは、決闘や喧嘩のようなものなのだという。
そこまでは糸子に聞いた。その程度までは。
しかし、喧嘩はまだしも、決闘という荒事には門外漢の羊谷は疎い。
故に理解は『喧嘩』で止まり、そしてその喧嘩すらも所謂『ぽかぽかと叩き合う』程度に留まる。
道場で行っているのだ。素人のものではないだろう。だが、それでも格闘技の試合のようなものであり、そこまで危ないものではないのだろう、と思っていた。
昨今の安全に配慮された格闘技の試合では、試合場で大怪我をすることはほとんどない。多いとされる柔道やレスリングなどでも、精々肉離れや脱臼などで試合中止になる程度。重大なことがあるとするならば、減量の末に行ったボクシングなどの試合で起こるリング禍程度であろうか。
故に羊谷の理解も今はまだその程度であり、そしてその理解はすぐに更新されることとなる。
庭に面した廊下を、するすると慣れた様子で早歩きで進む糸子。羊谷はその背を、靴下が滑らないよう、どたどたと小走りでついていく。
そして道場の入り口が見えたところ。
扉も閉まり、羊谷からすれば何も見えない中、糸子が立ち止まり舌打ちをする。
それから中から感じる空気に、「遅かったか」と呟いた。
ドン、という音が響いた。
糸子はそれが床を踏み抜く音だとわかって、そして鉄板入りの床を踏み抜くだけの力がある誰かがそこに一人しかいないと理解していた。
音がしたのを羊谷もわかった。けれどもまだその理解は追いつかず、そして理解が追いつく間もない一瞬の後のこと。
ぐしゃりと何かが潰れるような音がした気がする。それと同時に、道場の扉が弾けるように飛び、中から飛び出してきた『何か』が、日本庭園のような庭に転げるように落ちた。
「ひぇっ…………!!?」
その一瞬の出来事に驚く羊谷。
まだ何が起きたのか理解出来ていない羊谷を置いて、糸子は靴下のまま庭へと飛び降りる。
弾けた扉にそっと歩み寄り、そして中と、外に落ちた『何か』を見た羊谷は、その光景がまた理解出来ずに頭が真っ白になる思いだった。
中腰近くになるまで腰を屈め、おそらく構えというものをとったまま、ハァハァと荒い息を吐いているのは同年代の男。しかしその容貌にどこか糸子の片鱗を見て、『あれが弟さん』と羊谷は納得した。
納得し、それからその男の視線の先を追って、そして『何か』の正体をようやく察する。
理解したくなかったことが強制的に脳内へと浸食し、ぎくりと背筋が冷えた。
ならば、あれは。
「総一……!」
受け身も取れずに庭に落ちたまま、動かない総一の顔を覗き込み、糸子は呟く。
それから中にいた理織を睨むように見て、小さく溜息をついた。
理織の、だらりと下げた右腕に、掲げるようにして挙げていた左腕。その両の腕を下げ、また直立するように立ち上がり、理織が構えを解く。
それと同時に、高弟の一人がぱらぱらと拍手を始め、巻き込まれるように他も行いその拍手が大きくなってゆく。
「お見事です!」
「若、お見事です、若!!」
声援のような声には応えず、しかし段差の下に落ちてほとんど見えない総一に対し理織は深々と頭を下げた。
頭が理解した。勝ったという事実。
自分は総一の反撃もものともせず、頭部への打撃を振り切ることが出来た。
故に、勝った。
呻き声も上げず、叫び声も上げずに倒れ伏した彼。それを見下ろす自分。この現状は、明らかな勝敗。
そして実力差。
勝った。
顔を上げて見れば、目に映る戸も弾け飛んだ明るい外。
もう自分の前には誰もいない。
天井を見上げて、またフウと息を吐けば、吐いた分だけ何か新鮮なものが胸になだれ込んでくる。
それから左の拳を握る。達成感。今自分は何かを掴んだ。きっと。
今思い出したかのように、庭を見る。しゃがみ込んだ姉の焦るような横顔。
「……総一さんの手当を」
今の自分は勝者だ。ならば相手にも礼儀を尽くさねば。
高弟に対し、理織はそう指示する。
たしかに。憎々しい相手だが、今はそうせねば。そう感じた高弟の一人は頷いた。
「総一! おい! 返事をしろ!!」
呻き声も上げずに、総一は地面に横たわる。
揺らしてはいけない、という程度は糸子にもわかる。けれども、気絶した門下生にいつも向けていた落ち着きは今はなく、ただ顔を覗き込み叫ぶように呼びかけを続けていた。
庭に落ちた『何か』が総一だとようやく理解出来た羊谷もそこに駆け寄る。
駆け寄ろうとした。しかし羊谷は、その総一の姿に立ち止まる。
投げ出された左手が腫れ上がっている。手の甲がぱんぱんに膨らみ、ピアノを弾いていたときのスマートさはない。
それに、顔面。
何か違和感がある。少しだけ考えて、その違和感が頬の大きさの左右差にあると気付いてからも、それに気付いたからこそそれ以上近寄れなかった。
右の鼻から僅かに零れる鼻血。
閉じられた目は気を失っているからだろうか。呼吸はしているようだ、荒く、短く、小さく。
「……総一、先輩……」
負けたのだろう。きっと、その『道場破り』で。
そして怪我をした。この『弟さんとの勝負』で。
「…………あ……」
格闘技の試合、というものを見慣れているわけではない。
そもそも、自分は格闘技というものを理解していなかったのではないだろうか。
怪我をする、ということは知っていた。拳道の練習でも、総一が相手をぼこぼこにしている、という話は聞いていた。
けれど、怪我をする、ということ。
それは本当は目の前の、総一の現状で。
ザ、と音を立てて、羊谷が両膝を地面につく。
痛んだ髪の毛を両側から掬い上げるように、両手で頭を掻きむしる。
「……ああ……」
喘ぐようにしながらも、目の前の光景から目を離せなかった。背けたい、と思っても身体がいうことを聞かなかった。
こういうものは以前も見たはずだ、と羊谷の中でどこか冷静な自分が呟く。あの自分が万引きをした日の次の日、糸子が四人の友達を鎮圧した日。あの日も、犬上一人を除いて糸子は気絶をさせたはずだ。背中を壁に叩きつけて、腹を打ち抜いて、顎を揺らして。
だが今目の前の男子は、怪我をしていて。
「どいてください。お嬢さんも」
呼びかけ続けていた糸子が、高弟たちの持ってきた布担架に道を空ける。
転がすように引きずられ、そこに乗せられ持ち上げられる総一の姿。力が抜けた死体のようで、その総一が横を通るその時にも、羊谷は横目でそれを追っていた。
喉の奥から何かが駆け上がってくる感触。嘔吐しそうになり、羊谷はそのまま前のめりに倒れる。かろうじて突いた両手は、自分で見ても綺麗なものだ。綺麗なままだ。
視界の外で、総一が建物の中に運び込まれる足音だけが響く。
「……羊谷、いくぞ。医務室だ」
「…………」
糸子にまた促され、羊谷は顔を上げようとする。
けれども肩にとてつもなく重たいものが乗せられたように、身体を起こすことが出来なかった。
「羊谷」
「…………」
声が出ない。
総一が怪我をした。気絶していた。
腫れ上がった腕や腫れつつある顔面も、きっと軽い怪我ではない。
その程度は羊谷にもわかり、そしてわかったからこそ。
「羊谷」
糸子に強く呼びかけられ、またその肩を前からぐいと押され、強引に羊谷が身を立たせる。しかし、その視線の先にいた糸子の姿が涙で歪んで、羊谷は前にぐらりと倒れかかる。
もたれ掛かるようにして糸子に受け止められた羊谷は、糸子の肩に顔を押しつけるようにして呻いた。
「羊谷、大丈夫だ、総一は無事だ」
「……っ、でも、あれ、あの、……」
「落ち着け。生きてる。あの程度の怪我はこの道場なら日常茶飯事だ」
抱きしめるようにして、糸子は羊谷に言い聞かせる。
多分、という言葉を省き、自身でもそれを考えないようにしながらも。
羊谷は、背中に回された糸子の手が震えているのを感じ、その嘘を見破る。
けれども縋るように、その嘘を信じるように、糸子の身体に強く抱きついた。
「……姉さん、その人は?」
見下ろすように、縁側から理織が声をかける。
その声が聞こえていても、糸子は一瞬応えに戸惑った。しかし、何を戸惑うことがあるのだろうと思い直し、静かに口を開く。
「私たちの後輩だ。……総一がここに来たきっかけらしい」
「そう」
理織は羊谷を見る。
後輩、ということは二年か一年。私たちの、ということは総一も含めるのだから、きっと登竜学園の一年生の女子だろう。
きっかけになった、ということはよくわからない。どういう話でそうなったのか、までは理織は読み取れない。
けれどならば礼を言わなければ。
ここに総一を導いてくれた。そのおかげで、ここで決着がついた。自分が勝ち、総一は負けた。これでもう悩むこともなく、優劣もついた。
視線を向けられた羊谷は、糸子の言葉にぴくりと背を固める。
思っていたこと。わかっていたこと。それを言葉にされて、なお苦しくなった。
「ありがとうございます。総一さんと戦わせてくれて」
理織に快活にそう告げられて、羊谷は一瞬困惑する。
けれどもその言葉が頭の中で反響し、何かを抉られた気がした。
「……あたし、あたしはっ、そんなつもりじゃ……」
本格的に涙が溢れ、羊谷の鼻からも液体が漏れる。
察した糸子は、羊谷の背を軽く二度叩く。落ち着け、と言葉にするように。
「大丈夫だ、羊谷。お前は悪くない」
理織は今更ながら、目の前の女性が泣いていることに気がついた。
何故だろうか、と一瞬考えたが、考えるまでもない、と思った。彼女らの事情など知らない。後で姉に聞けば、知っていれば教えてもらえるだろう。
とりあえず、おそらくは。
「総一さんの様子が心配ならば、医務室へどうぞ。案内させます」
「いらん、私が行くから」
「そう?」
その程度の親切が必要だろう。そうした言葉は、姉が断った。ならば後の応対は姉に任せておけばいいのだろうし。
「では俺はまだ、稽古があるので」
総一さんが目を覚ましたら教えてください。そう付け加えて、理織は道場の戸を閉めようとして閉められないことに気がついて苦笑した。
壊れた床も含めて、後で父に謝らないと。
糸子の肩に顔を埋めた羊谷。
その耳で、理織の引きずる足音が遠ざかっていくのがわかった。




