最適最速
人体というものは、意外と頑丈だ。
重要な血管、臓器、また経絡とも呼ばれる急所を損傷しなければ生命は守られる。
そしてそういった急所は多くの場合きちんと生体の構造上守られている。脳は頭蓋骨に。心臓は胸郭に。縦にして差し込まれたナイフの刃が、肋骨に阻まれたおかげで内臓まで届かず致命傷を免れた、というのはよく聞く話だろう。
故に戦などに携わる人間は工夫を重ねてきた。
その工夫の集大成を、武術や兵器と呼ぶ。
トントン、と直立をしたまま短く跳んで、総一が赤俣へと近づいていく。
そして二人の間合いが接した瞬間。
赤俣は全身に熱を感じた。
それを見ていた理織の表情が厳しくなる。
響いたのはほとんど一呼吸の破裂音。だがその中で重なるようにいくつも打たれた音は鋭くも鈍く、その場にいた全員の耳に響いた。
(痛……えっ……!?)
赤俣の視界が暗くなる。同時に痺れるように全身に広がる感触に、蟻や羽虫が全身にまとわりついてきたように感じた。
自身の身体が傾いていくのを赤俣も感じた。倒れまいと思った。けれども、その思考は一切身体の動きに反映されず、そして、迫る床が朧気に見える。
倒れた、が、しかしその感触を赤俣は知ることもなかった。
ただ、白目をむいて、涎を垂らしたまま床に頭を打ち付けていた。
(全身の……急所を打ち抜いた)
総一の神速の打撃を視認出来たのは、理織と他二名の高弟のみ。
だが、見事だと思った。
咋神流の打撃。その打撃は、『最適』を求めて工夫を重ねられてきた。
人体というものは頑丈だ。重要な箇所はほとんど頑丈な骨に守られ、また眼球などは人間における最速の行動『反射』の一つ、瞬きによって守っている。無防備に外部に露出した急所は、男性の睾丸くらいのものだろう。
だが、先人はその人体の防備を凌駕するよう工夫を重ねてきた。
たとえば顎。首に力を入れたところに当てる通常の打撃では、なかなか効果は出ない。だが、横方向から掠らせるようにすれば、もしくは上に勢いよく跳ね上がらせられれば、頑丈な頭蓋骨の中を存分に揺らして相手にダメージを与えられる。
こめかみ。固く尖ったもの……たとえば指を半端に握った中高一本拳などで打ち付ければ薄い骨に罅も入ろう。
人中。垂直に叩けば命すら奪える当て込み急所。
眼球、鼓膜。眼窩や耳介を掌底などで覆うようにしながら押し込めば、そのものや奥の蝶形骨などの骨の損傷を狙える。
前胸部。鼓動の最中鋭く拳で押し込むように衝撃を与えれば、心不全からの死亡も考えられる。
その他様々な『急所』とそこに対する有効な攻撃法はどの武術流派でも多かれ少なかれ伝わっているだろう。
そして、咋神流の特色は、その神速の手足でその全てを『最適』な形で叩くことにある。
無論、それは難しい。それはごく簡単にいえば全弾をクリーンヒットにすることであるし、約束稽古などでならばまだしも、『対戦相手』という動き続ける的に当てるのはほとんど無理というべきことだ。
だが咋神流の修行はそれを可能にする。
それは、人体の最速の動き、『反射』を利用することによって。
通常人体は、大脳から発せられた信号を小脳でまとめ、その信号により各部の筋肉を収縮させることで動作する。
俗に言われる『反射速度』とは、何かしらの信号を受けてから、大脳でそれを認識し、また小脳から筋肉へと信号を送り届ける時間のこととされている。多くの人間は最短で0.2秒程度、優れたものでも0.15秒ほどといわれている。
そして実際の『反射』とは、人体が何かの刺激を受けた際、その大脳を介さず小脳のみでまとめて返す反応のことだ。たとえば熱いものに触れた際、自身が熱いと感じる前に手を引くのもこれだろう。
『反射』の速度は経路が少ない分、『反射速度』の比ではない。
咋神流の修行、膨大な型稽古。
その修行を七歳までに始めなければいけない理由もそこにある。
型稽古とは、どの流派にも存在する、流派の動きを身体に染みこませる修行だ。正しい突き、正しい蹴り、正しい受け、その他諸々の『正しい動き』を。
大脳で覚え、小脳に刻み込み、動きを精密に速くこなす。結果、熟練者は初学者と比べて同じ動きでも差が出ていく。
咋神流が七歳以前からその型稽古をさせる理由。
それは現代風にいえば『神経の発達』を狙ったもの、とするのがわかりやすいだろうか。
無論、発祥はそのような概念すらなかった戦国時代。だが経験則から、咋神流は型稽古でその修行者の身体の全てを作り替えてゆく。
打ってから蹴る、蹴ってから打つ、打ち終わりに引いて、また踏み込んで相手の腕を取る。そのような動作を、大脳で覚え、小脳に刻み込み、そして身体を最適化する。
人間の身体とは学習をするものだ。そして幼い人体というものは、成長してしまえば失われてしまう神経の可塑性をまだ持っている。
咋神流は、型稽古でその身体、神経の隅々に至るまで学習をさせる。
ある特定の動きの次の動きは。そのまた次の動きは。視界から入った情報から、次にどう動くのが最適なのか。
幼い日の可塑性に任せ、全身の神経を発達させてゆく。
そして発達した神経は、その節々に複雑な神経節を形成し、小脳を介さず動けるほどの回路……小さな脳とも呼ぶべき器官を設計する。
故に咋神流術者の動きは大脳の範疇に収まらず、人体各部が自身で思考し協調しあい、そして相手を打ち倒すための『最適な動き』を取る。
術者の思考、大脳を介さない即ち『反射』で。
それが肉体に神が宿ったということ。
大脳が小脳を介し、運動器官に信号を届ける速度。
人体各部が自身よりも末梢に向けて信号を届ける速度。
比べればその差は些少なれど歴然で、故に咋神流は速く、そして最適な打撃を打てる。
相手に打たれると認識されようが、その回避動作よりも早く届く打撃。
投げられぬよう相手が自護体を作ろうとしようが、その前に投げられる。
避けられぬ打撃。堪えられぬ投げ。
そしてその速さを活かし、全ての行動に対するカウンターを自動的に行う。
故に咋神流術者は、戦いの際にはただ自身の身体に命ずるだけでいい。
『勝て』と。
「……それまで」
理織の一言に、高弟たちの間にどよめきが湧く。
その言葉に反応したわけではない。ただ一瞬の出来事、その出来事の後に、頑強なはずの同輩が沈められた事実によって。
打ち終わり、引いた総一も赤俣を見下ろして安堵の息を吐く。
下顎呼吸などもせず、意識がないだけ、に見える。
きっと死んでいないだろう。
白目をむいたその白が、赤に変わりつつあることからもきっと重傷ではあるのだろうが。
す、と僅かに頭を下げて、総一がもう少し下がる。
軽口もなく嘲りもないその様は、一介の武芸者のもの。
「……頑丈な人でよかったよ」
「やっぱり相手にはなりませんよね」
殺さなくてよかった、と理織に対して総一は微笑む。
その態度が鼻にはついたが、目の前の死体のような同輩を見て高弟たちはそれに反論する言葉を失った。
辰美流柔術とて、実戦的な古武術だ。稽古でも実際に叩き合い、骨を軋ませて鍛錬する。打たれることなど日常茶飯事、師範である当主が稽古に混ざるときには、交通事故に遭ったかのような怪我をすることもある。
だから、自身らが打たれ強いはずだと思っていた。巷で行われている格闘技の試合などちゃんちゃらおかしく、安全に配慮しすぎだ、やはり自分たち以外は軟弱だ、と侮り憤っていたほどに。
事実、頑丈だっただろう。
丑光相手や、もしも拳道の高校生大会で使ったならば殺していた打撃の数々。それを受けて息があるのは相当なもの。
引きずられるように運ばれて、道場の隅に寝かされる赤俣の手首は関節が増えたかのようにひしゃげていた。
(外れ……じゃないな、折ったんだ)
骨折。見慣れたものではあるが。
理織はそれを見て、恐怖でもなくまた高揚が浮かぶ。
その原因の打撃は見えなかった。もしくは難解で、どの打撃かを理解も出来なかった。
強い。
強いのだ、やはり目の前の男は。
「一応先に聞いておきますが、……道場破りとは何故?」
「んー、色々俺にも理由があるんだけど……ま、一番は弟君と戦うことかな?」
元々乱れていない息を整えるための時間。肩を回し、総一は身体を背ける。視界の中、並ぶ高弟たちが座ったまま殺気を湛えた目で総一を睨んでいた。
「拳道の試合でもよかったのに」
「俺、登竜学園の代表にはなれないし」
「今のあの学校に総一さん以上の実力者がいると?」
理織は自分の言葉を笑い飛ばす。
そのようなことはあるはずがない。
自分と、彼。二人でも奇跡なのだ。そのような強者が同じ世代にまだいるとは思えない。
総一も笑う。そのようなことはない。
ただ、骨のある男が一人いるだけで。
「ま、期待しててよ。そこそこ強い奴が出るから」
「あの時の赤い髪の奴なら期待は出来ませんね」
「バレてら」
理織を見下ろしたまま、改めて総一はケタケタと笑う。
それから周りを見渡して不敵に笑みを強める。
「それで? 他の方々ももしかしてやりたい?」
総一の言葉に、ざ、と何かが擦れるような音が道場に響いた。
見られた高弟たちが膝に力を入れて引いた音であり、まだ立ち上がっておらずとも、臨戦態勢に入った者が三人。
「させませんよ」
そして、静かにそう言ったのが、一人。
この場で最も強い男。理織。
袴の裾をはためかせ、片膝立ちから一歩立ち上がる。それだけで場がシンと静まった。
総一の額に汗が垂れる。その理織の僅かな迫力に。
「でもさぁ、どうせ俺が弟君を倒したらかかってくるんでしょ?」
「どうでしょう? 姉さんがいればそんなことはさせないでしょうけど」
「むしろその場合、お姉ちゃんが俺に向かってきそう。そうしたら俺勝てないんだけど」
「俺でも厳しいですね」
ははは、と爽やかに理織は笑い、姿勢を正して総一に向かう。
それから目だけを細め、笑みを崩さずに言う。
「でも、俺には勝てると?」
「どうかな」
総一はまた理織に向き直り、無意識に身体が下がりそうになるのを堪えた。
圧力を受け流すように呼吸し吐き出しても、それでもまだ息が詰まる。
(やっべえこれ)
身長は総一よりやや高い程度。
腕や足などは総一よりも太いが、先ほどの赤俣と呼ばれていた男よりも細く締まっている。 平均的な男性、それかもしくはそれよりもほんの少しだけ高い程度の背のはずが。
臨戦態勢を取った、ということだろう。
まだ構えていない。そのままの立ち姿が、総一の目からは巨大に見える。
突然道場が狭くなった気がする。きっと猛獣の檻に閉じ込められた時にはこのように見えるのかもしれない、と思った。
門下生たちの顔が緩んだ気がする。
それは総一の気のせいでもなくたしかなもので、それは理織に対する絶大なる信頼故のもの。
この最強たる辰美流の道場に、挑戦的に踏み込んできた狼藉者に向けて。
その狼藉者が辿るべき惨劇の道が、ありありと想像出来たために。
一歩、と理織が歩を進める。それはただ中央部、向かい合うべき場所に歩き出しただけだが、けれども総一の身体はそれを察して少しだけ足を引いた。
だが。
(もう少しだけ付き合ってくれよ、な)
その足に命令し、強引に総一も前に出る。この圧力に負けるわけにはいかない。
希代の天才、辰美理織の拳道ではない実戦の姿。
拳道の試合ではなく、道場破りという実戦を選んだのは自分だ。
実戦の殺気。
『勝とう』ではなく『倒す』という辰美理織の意気。それを侮っていたわけではない。
理織は、足を進める度に、何かの階段を上がっている気がした。
待ち望んでいた試合。
二年前、ついに自分が本当に勝てなかった試合。
同年代で初めてだった。自分が勝てるかどうかもわからない男。
決着がつけられる。これでようやく。
自分がどれだけ強いのかわからなかった。周囲には圧倒的な格上か、圧倒的な格下しかいなかった。
強いのかもしれない。同年代には負けないのだから。
弱いのかもしれない。父母や姉には未だに勝てないのだから。
見上げる空にいる者たちと、足下を這いずる蟻しかいない孤独な世界で。
ようやく出会えた、自分と同じ目線にいる男。
この男ならば自分を試せる。
挑戦出来る。
ほら勝った、と誰かに誇りたいわけでもない。
ただ、挑戦出来るのだ。
井戸から出た蛙の望みはただ一つ。
自分がどれだけ高く跳べるか知りたいだけで。
「辰美流師範代、辰美理織……よろしくおねがいします」
「……咋神流、鳳総一」
久しぶりに自分から名乗ったな、と総一は何となく思う。
あの頃は忌憚なく名乗れていた自分の名前。きっと、これからの人生ではほとんど名乗ることなどないのだろうと思うのだが。
だが、今はいいだろう。
今これからは、二年前の続き。あの日の。
「羊谷はいるか」
がらりと糸子が教室の戸を開く。
そこは羊谷の教室、一年A組。だが放課後故に、もう人は少ない。いるのは友達と駄弁る数人と、そしてノートを広げて今日の授業の復習を行っていた羊谷だけだ。
「あ、はい、会長」
「すまんが急な用事なんだ。勉強やめて、私と一緒に来てくれないか」
「構いませんけど……」
咥えていたチョコレートの菓子を噛み砕き、羊谷は眉を顰める。
何だろうか、この会長の真剣な眼差しは。また自分は何かをやってしまったのだろうか。
「どこにっすか?」
「私の家だ」
「会長の?」
どういうこと? とまた困惑が浮かんだ。
用事というからには何かの叱責か、もしくは学校内での何かの仕事を頼まれるのだと思っていたのだが。
いや、そもそも生徒会役員でもない自分に何かしらの仕事を頼むこともそうないだろう。そう思いつつ、だから、と尚更糸子の家に行くということの意味がわからなかった。
「兎崎の勧めで……いや、じゃなくて……」
そして糸子も、そもそも何故羊谷を連れていかなければならないのかもわかっていない。
そもそも兎崎も何故勧めたのか。一応勧めた理由は、この件に羊谷が関わっているからということだったのだが……。
黙り込んだ糸子の焦るような顔が気になり、羊谷はそれを首を傾げて覗き込む。
「……お前、総一と何かあったのか?」
「っひっ!? いえ!? 何もないっすよ!!?」
糸子の言葉に今度は羊谷が焦る。
なんも、何も、と手を振って否定するが、しかし糸子とて、その様子に何もないわけがないと悟った。
「総一が今、うちの道場を訪ねてきて、……道場破りにきたらしいんだ」
「……道場破り……? ってなんすか?」
「理織に向けて、決闘なんかと言ったほうがわかりやすいのか? もしくは、喧嘩に」
糸子は羊谷よりも、兎崎よりも事態を理解している。
道場破りは綺麗な試合のようなものではない。形式張ってはいるが、しかしその実態はただの喧嘩。それも、最後は袋だたきにされて死人が出るかもしれないようなもの。
「私は止めたい。……そして、兎崎は、総一がお前が理由で行ったと言うんだ。だから」
そしてまだ糸子も事態の把握は出来ていない。
未だにわからない。羊谷が総一と何かがあったのはわかっても、それで何故総一が道場破りなどを選んだのか。
もしも理織との試合を望むなら、拳道の試合で充分だろうに。
「来てもらえるか。お前も」
「…………」
羊谷のほうは、何となくその理由はわかった。
自分の失礼な言葉、きっとそれが原因で、総一は戦うことを選んだのだろう。
ならば戦うことを決めた総一を止めるのは、それもまた彼に失礼ではないだろうか。
「あたしは……」
「と、すまないが、時間が惜しい。後で靴は貸すし、帰りは誰かに送らせるから荷物については我慢してくれ」
「……へ?」
ガシ、と糸子が横から羊谷の胴を抱える。身長はさほど変わらないはずだが、けれども羊谷の身体は無意識の抵抗むなしく引きずられるように簡単に動いた。
「ちょっと待って? 何を?」
「邪魔したな」
糸子はこちらを見ている女生徒たちに爽やかに挨拶をし、羊谷を抱えたまま窓辺に歩み寄る。そして静かに窓枠に飛び乗った。
「黙っていろ。ちょっと揺れるからな」
「え、待って? 待って!?」
まさか、と思って羊谷は血の気が引いた。
温い風が窓から吹き込む。遠くで野球の練習の音が聞こえる。吹奏楽の音合わせが響く。
そして糸子が窓から一歩踏み出したところで覚えた浮遊感。
「待って待って!!! ここ! 三階で……!!」
「舌を噛むぞ」
ギャー! という女生徒の叫び声に、応えるようにどこかで犬が遠吠えをした。




