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賢者は死ぬと決めている  作者: 明日


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道場破り




 武道を学ぶ上で、道場、というものは通常よく使われる教育施設だ。

 縁のない者がその言葉を想像したときによく浮かぶのは、剣道などで使われるような板張りの広間であるだろう。また、柔道などの『床』をよく使う武道であれば、板張りの代わりに畳であるかもしれない。

 子供向けであれば、もしくは『道場』という特定の施設ではなく建物を借りて行われる『武道教室』とも呼ばれる形式であれば、広い部屋、フロアマットの上にウレタンのシートを敷くだけ、というものもあるかもしれない。


 辰美流柔術の道場の中は、その最もよく想像されるものに近いだろう。

 板張りの冷たい広間。窓は視線よりも高い位置に横に長く開けられて、その下にはやはり板の壁が広がる。

 高い塀に囲まれた屋敷のような外観は、ビル立ち並ぶ街中には少しだけそぐわないが。



 その入り口。大きな門は開かれており、更に踏み入り建物の玄関に立てば中に声を届けるのは容易だ。

「たのもー!!」

 ふざけているのかとも思うような声だ。事実、玄関近くにいた道場の門下生は、来客とも思えずに不審者としての警戒を露わにした。


 『受付』というような業務も係もない。だが、それでも応対はしなければいけないだろう。門下生は溜息をつきつつ、その太い指で髪をかきむしりながら玄関に立った。

 そこにいたのは、明らかな高校生。師範代と同年代の若者で、何かしらの納入業者のようなものにも見えない。


「何の御用でしょうか」


 自分と同じ門下生ではないだろう。ならばこのようなふざけた入り方はしないだろうし、もしそうならば自分の手でぶん殴っている。

 もしかしたら入門希望者かもしれない。だがそうだとしても、それならば入門後に礼儀を叩き込まなければならないだろう。


 じと、と睨むように門下生は総一を見る。

 自然と乱れた髪の毛。へらへらとした表情。見るからに覇気のない見た目。細身というわけでもないががっしりとしてもいない体型。

 その全てが気に入らない。

「鳳総一といいます。辰美理織先生いらっしゃいますか?」

「……はい。お取り次ぎしましょうか」

「そうですね。お願いしまっす」


 ぺこりと頭を下げる総一に、いくらか気を抜いて、門下生は背を向ける。

「道場破りに来た、ってお伝えくだせえ」

 だが総一の言葉に、驚きまた振り返る。その先では、総一は、ただにこにこと笑っていた。




「何だって!?」


 その頃登竜学園では、一人の乙女が電話口で大きな声を上げていた。

 糸子は聞き返したが、聞こえなかったわけではない。ただ、その内容が信じられなかった。

 電話の先で、弟の声がする。


『道場破りだって』


 いつにもまして、高揚している声。理織にしては珍しく興奮したような、ある意味年相応なはしゃぐような声。きっと電話口では満面の笑みを浮かべているだろう、と糸子も容易に推測出来た。

「それで、総一は」

『今はまだ待たせているよ。決まりがあるから仕方ないけど』


 決まりなんて無視しちゃってもいいかな、と理織は言葉にせずに含み笑いで示す。

 勿論糸子としては大反対だ。家の決まりとしては。

 そして、無視しても構わない、とも思った。総一の腕を見込んで。また、門下生たちの安全を考えて。


『知らないでいたら姉さん帰ってきたときまた怒るだろうから。だから、俺は伝えたからね』

「待て、理織、待て……!」


 糸子の静止もむなしく、電話は切れる。

 きっとその電話口で今もまだ、弟は笑っているだろう。哄笑などではない。高揚と、期待で。



 電話を切り、生徒会室に静寂が訪れる。

 そして電話に出ていた糸子の口から、総一の名が出たことで、兎崎の興味もそちらに向いていた。


「総一に何かあったんですか?」

「何かあった、というわけではないんだが……!」

 頭を掻きむしりつつ、糸子が兎崎に答える。何かあった、というわけではない。だがきっと、これから何かがある、ということ。

 唇を噛みしめてから、それでも糸子は辿々しく口に出す。


「うちの道場に、総一が……道場破りに来た、と、弟から……」

「…………」


 兎崎はその言葉に目を見開く。

 『道場破り』。今時聞かない言葉だ。

 そんなことが行われているのは時代劇の世界か、もしくはフィクションの世界か。兎崎にとってはそのような印象だったが。

 しかしそれも、物知らずとも責められないだろう。武道の素人、縁が遠ければ仕方がない。

 そして兎崎は、微かに笑った。

「じゃあ、戦いに行ったんですね」

 皆が望んでいるとおりに、と言葉にせずに付け足して。


 糸子はその言葉に、頷きそうになって頷けなかった。

 たしかに糸子も望んでいた。総一と理織の試合。

 だがそれは、『試合』であって『立ち合い』などではない。


 拳道の試合ならば、ある程度の安全は保障はされる。ルールがあり、公平な観衆がいて、制限の中公正に腕を競い合える。

 だが道場破り、立ち合いは別だ。


 柔術の実戦に、ルールなどない。


「……止めないと」


 冷や汗を流して糸子は立ち上がる。まだ見ていない書類が残っているが、しかしそんなものはどうでもいい。

 試合と実戦は何もかもが違う。

 拳道の試合ならば、悪くても大怪我で済むだろう。ルールで守られている以上、最悪の事態には至りづらい。

 しかし、今回のものは実戦。そして自分の道場の人間が、どれだけ優しくないかを糸子は知っている。


 机に腕をついて、ふらりと歩き出そうとした糸子。

「何で止めるんですか?」

 けれども、落ち着き払って長椅子に座ったまま、兎崎は叱るように言った。


 今はそんなものに取り合っていられない。そうは思ったが、しかし糸子は兎崎の言葉がどうにも変なものに思えて、立ち止まった。

「何故? 当たり前だろう?」

「当然ではないでしょ。会長はあれだけ総一に試合をさせたがっていたのに」

「……今回のものは試合じゃないんだ。兎崎こそ、お前は総一が戦うのに反対していただろう?」

「私は総一が試合したくなければしなければいい、というだけですね」

 総一の判断を、選択を尊重する。あえて言うならば、兎崎はその派閥だ。

 そして今、総一は選んだ。戦うことを。ならば兎崎とて止める気はない。


「道場破りは試合とは違う。試合なら……」

「試合なら怪我しないから?」


 言葉を遮り、は、と兎崎は糸子の言葉を予想して笑い飛ばす。

 そして自らの言葉の荒唐無稽さに呆れて、まさかそんなことを言うはずがあるまい、とすらも思える。

 何を言っているんだろう、目の前の上級生は。兎崎はそう笑えてきた。


「そんなこと総一が承知していないわけないでしょう」

 

 自分たちが、もしくは糸子が不安に思っていることなどは、既に総一にも全てわかっていることだろう。

 試合よりも実戦のほうが危険。それはそうだろう。素人にもわかりやすくいえば、如何にリアルとてサバイバルゲームでは死人などほぼ出ず、そして銃撃戦なら人は容易く死ぬ。そういうことだろう。


 そしてその上で総一は『実戦』を選んだ。

 自らには僅かに劣るとしても、ほとんど同じ明晰な頭脳で、いくつもの要素を交えた検討の結果だ。兎崎はそう信じている。


「たしかにそうだが……」

 止める根拠は、と問われると、糸子もそれは弱い。

 自分たちが学び、研鑽しているのは武道だ。怪我をするなど当たり前、事故など起きて然るべきもの。それを心配するほうがどうかしているのかもしれない。

 だがどうにかしているとしても。

 糸子は拳を握る。

「……たしかにそうだが! お前に止められる筋合いもない!!」


 それはそれとして心配だ。

 反論については諦めて、糸子は叫んだ。そもそもに立ち止まらなければよかったのだ。そうは思いつつも、足を止めてしまった自分のことを棚に上げて。


 そして、その通りだ、と兎崎も思った。

 ついつい口を出してしまった。自分とて、糸子を止める気もなかったのに。


「……そうですね」

 読んでいた文庫本をパタンと閉めて、兎崎は溜息をつく。

 言い負かしたのに言い負かされた気分だ。そんな複雑な思いに、僅かばかりの嫌がらせを思いついて。

「…………じゃあ、羊谷を連れていくといいと思いますよ」

「何故だ?」

「多分総一がそんな気になったの、あの子が発端なので」

 

 総一を動かしたくても動かせなかった糸子。動かす気が無かった自分。動かすべきか動かさざるべきかわかっていなかった白鳥。

 そんな三人を差し置いて、動くべきだと動かした羊谷。

 一歩リード、と兎崎は内心羊谷を称賛した。


「……何故だ?」

 同じ言葉を繰り返し、糸子が尋ねるが兎崎は黙って薄く笑う。

 だが、じと、と糸子に睨まれるように見つめられて肩を竦めた。

「本人に聞いたほうが早いと思いますが」

「……そうする」


 これ以上兎崎と話している時間が惜しい。

 だが、羊谷を連れていった方がいい、というのならばそうしよう。抱えて跳んでいけばすぐにつく。糸子はそう決意し、乱暴に生徒会室の扉を締めて出て行く。


 兎崎はそれを見送り、スマートフォンを手に取った。

「じゃあ、私も見物にでもいってやりましょうか」

 長く息を吐いて、画面をタップする。白鳥も誘おうか、と珍しく思った。






 道場の中は静まりかえっている。

 外の車の音がよく聞こえ、そしてもう一つだけ聞こえるのは、総一の明るい声。

「やっぱりそういう風習も残ってるんすね」


 へらへらという笑い声。

 だがその状況は笑えるものともいい難い。

 もはや扱いは客人のものともいえず、廊下を歩くその姿は前後に人を一人つけた護送のようであった。


 まるで牢獄に案内される囚人のような扱い。

 歩く木の床が軋む。

 だが総一に恐怖はない。前後にいる人間はまだ自分を害する気などないだろうし、そして害されるとしたら、この先、角を曲がった場所にある道場の稽古場。

 息を潜めたように静まりかえる先。何人もの気配が待つ檻のような場所で。


 木の引き戸を開き案内していた門下生が頭を下げる。

「申し上げます! 鳳総一と申す他流の者、連れて参りました!!」

 遅れてその肩越しに中を見た総一は、また笑みを強める。

 

 三十畳はあるだろうか。

 多人数が暴れても問題のない大きな部屋。その端に、辰美流の高弟だろう、白い道着に袴を纏った男たちが左右四名ずつ正座して並び、自分を待っている。

 そしてその中央、戸に向かい合うように座ってこちらを見ているのは、この中で一番若く、そしてきっと強い男。


「ご苦労様」


 中央に座る辰美理織がそう言うと、頭を下げて、案内した門下生が中へと入り脇へと寄る。それから総一を視線で促す。

 促した門下生に「ごくろーさま」と小声で言って総一が中へと足を踏み入れると、後ろにいたもう一人の門下生も脇へ寄って扉へと手をかける。

 それから両側から戸を押して、力強く閉めた。


 歩を進め、総一は辰美理織の前に立つ。しかしながらまだ十歩は離れており、間合いには入れない。その前に、脇に座っているはずの何人もの門弟が壁になって見えた。

「何か手慣れてそうに見えますな」

 目を細めて総一は明るく言う。見下ろしたまま、嘲笑うように。

「道場破りに対する対応としては穏当でしょう」

「違いない」


 現代日本において縁の遠い者がほとんどだが、多くの古流武術には、名称は多種あれどいわゆる道場破りという風習がまだ残っている。

 それは言ってしまえば、敵対的な他流試合の申し込み。

 見守るのは門人だけ。道場という密室の中。怪我や命のやりとりを恐れない、互いの名声や面子を賭けた比武である。


「道場の決まりで、俺とやるにはまず一人、門人と戦っていただきます」

「師範が最後、まず弟君じゃ駄目なん?」

「運悪く今は父が不在。俺が今は一番上の師範代で、道場を任されてるようなもんなんですよ」


 ははは、と明るく理織は笑う。

 熱望していた総一との戦い。それは後回しで、自分より下の門人が総一と戦う。だが、理織としては順番などどうでもよかった。

 門弟に負けるのであればそれまでの男だったと諦めきれるし、そもそもそんなことは起こらない。

 早いか遅いかの違いだけだ。

 鳳総一。同年代で唯一自分と同じく『強い』と思える相手。自分以下の門弟などに負けるわけがない。


「十六歳の高校生にねぇ……」

 うへぇ、と総一は口元を歪めつつ、並ぶ高弟たちを見る。

 年齢層は二十代から六十代程まで。入門順ということや、辰美流の宗家ということもあろうが、一番目上が一番年下とは。

 年功序列ではない、ということもまた辛かろう。恐らく一番年上の、額の皺が目立つ老人を見て溜息をついた。


「それよりも、よかったんですか? これでは拳道みたいなルールも通じませんけど」

「まあそうだよね」


 理織の言葉に軽く応えた総一を、並ぶ門弟の端にいた三十代の男が睨み付ける。

 総一はその視線に対し笑顔で軽く手を振って応えた。それでまた空気が緊張する。



 道場破り。

 そんな風習が一般人に縁が遠くなった理由。表沙汰にならなくなり、そして廃れたように見えるのは理由がある。

 それは、申し込んだ側と申し込まれた側。地の利があるほうに、圧倒的な有利があるということだ。


 戦う場所がクローズドで、また申し込んだ側が孤軍ということは、勝敗の保証をする誰かが存在しないということだ。

 申し込まれた側はほとんどの場合負けはしない。

 そこは自分たちの道場の中というクローズドな場で、『反則』というものが実質的に存在しない。

 決闘のように、一対一で体裁を保って力比べをする必要などない。


 その性質は、巌流島での宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦がたとえとしてわかりやすいだろう。

 老齢の佐々木小次郎一人に対し、宮本武蔵は巌流島に潜伏させていた弟子数人と共に立ち向かった。

 もしも自分たちが負けそうになれば、そこから多対一に変えればいいのだ。そして対戦相手を袋だたきにし、また物理的に口を封じ、負けをなかったことにすればいい。


 総一はちらりと後ろを見る。

 先ほど戸を閉めた門下生は、未だに戸の横に待機している。つまり今自分は、監禁されているのだ。逃げ道を塞がれた状態で立っている。

 つまり、道場破りに来た今、たった二戦で帰れることはない。仮に門人を一人倒し、辰美理織を倒したとして、それで『ありがとうございました』と爽やかに帰れるわけがない。

 自分が歩いてここを出られる方法はたった一つ。辰美理織の指名した門人を倒し、辰美理織を倒し、そしてここにいる全員を叩きのめして帰るのみ。

 卑怯とはいえない。ルールがないとはそういうことだ。


 だが、それを『よし』とするのは外聞は悪い。

 故にその風習は廃れたということにされ、また外部に漏れることも少なくなった。



 だから、他流試合は危険だ。ルールで守られておらず、そして枷はない。


「でも俺も、拳道じゃ出来ないこともいっぱいあるからさ」


 拳道のようにルールで守られていない。だから危険。

 けれども、総一にとっても、それは枷だ。

 総一の学んだ咋神流は戦国時代に発祥した古流柔術。現代では使えない技術も、そして拳道の試合のような『のどかな』ものでは使えない動作もある。


「拳道のルールのせいで負けたって言いたくないし」


 ぼそりと総一は付け加える。

 理織も誰にも聞こえなかったが、けれども総一は自分でその言葉に『負け癖がついてるな』と笑った。



「……赤俣さん、お願いします」

「ゥオッス!!」


 立った総一を見上げたまま、理織は口にする。

 理織を除いたここにいる八人の辰美流高弟、その序列を理織は覚えていないし、気にもしていなかった。誰を指名しても総一相手では同じことだ、と。

 立ち上がった高弟の名は赤俣弘。腕は立つが、しかし伸び悩んでいる現在二十九歳。彼自身は、発破をかけられた、もしくは期待されている、と理織の内心を勝手に解釈した。理織としては、脳内で適当に浮かんだ名前を挙げただけなのだが。


「まあまあ、服ぐらい着替えさせてよ」


 総一は赤俣を見ようともせず、踵を返して戸の横、また道場の隅に歩み寄る。

 そして制服のズボンとワイシャツを脱ぐと、下に着ていた半袖の黒いシャツと道着のズボンが露わになった。……夏真っ盛りの今、ズボンは重ねて履くものではないな、と内心反省したが。

 脱いだ服を手早く畳み、持ってきていた鞄の中の道着の上と入れ替えて、着てからようやく総一は振り返る。

 そこでは待たされた分、気合いが頭の上までも昇っている赤俣が顔を赤くして立っていた。

「お待たせしましたー」

 うふふ、としなを作って笑い、赤俣の前に立つ。

 赤俣の身長は総一と同じ程度。しかし腕や足、全体的な太さは総一の二割増しほどで、筋量に相当な差があると総一に想像させた。


(さて、問題は、どの程度強いかなんだけども……)


 腕をだらりと下げて、構えの代わりに床を小さく跳ねつつ、総一は赤俣を見据える。

 どうか、弱くありませんように。


「赤俣さん、油断しないように」

「ウスッ」

 

 背後の理織の声に応えて、赤俣が構えを取る。

 理織の構えと同じく、左手を掌を前にして横向きに、右手を腰だめに。足を広げたどっしりとした辰美流の基本の構え。摺り足で少しずつ移動し、いつでも跳びかかれるように。


 左を前にして斜にした身体、その後ろ足で床を叩くようにし、総一は小さく少しずつ移動する。互いの間合いが交わるそこまで。まだ緊張感などもなく。

(まあ弟君よりは弱いとして)


 そして間合いが接した瞬間に、赤俣が動いた。

 自身の右足を左足に瞬時に近づける含み足。更にそこから爆発するように右足を踏み込めば、瞬時に総一の間合いが押し潰される。


 顎やこめかみ、頭部付近の急所は左手でカバーしたまま、また腹部への攻撃は前足が邪魔になる。迫り来るその様を見て、総一は大盾を持った機動隊のような重装兵を想像した。


 そしてその盾の隙間から放たれるのは、辰美流の真骨頂、投石のような重たい正拳突き。



 その正拳突きが総一の首元に突き刺さる瞬間、総一自身は既に後ろに跳んでいたが。



 空振りか。

 見ていた門弟たちは皆がそう思った。

 その攻防が見えていたのはその中でも最も腕が立つ一人の門弟と、理織のみ。


 赤俣の顔が苦痛に歪む。

 その赤俣の負傷部位がわかったのは、先ほどの二人に加え、門弟がもう一人。


(うひょ、かってぇ)


 総一が内心呟くのとほぼ同時に、残心のように動きを止めていた赤俣が、握っていた正拳を恐る恐ると握り直す。

 赤俣自身、それを見てはいなかった。

 だがわかった。


 正拳突きの最中、目の前の総一に、その正拳自体を殴られたのだと。

 無論、赤俣の、そして辰美流の正拳は脆くない。人を鎧ごと殴るために鍛えているのだ。握りしめたその硬度は金属にも負けず、壊れる心配など毛ほどもせずに攻撃のために使えるものだ。

 だが、今の赤俣は、その拳を握りしめるのに躊躇した。


(……折れて、はない。罅くらい入っていてもおかしくはない……が……)


 握りしめるだけで痛みが走る。

 だが、痛みだけだ。通常拳での攻撃に使う箇所は、拳頭、それも人差し指と中指の中手指節間関節が主である。しかし今回叩かれたのは小指環指の基節骨。打撃には使わない箇所。 大丈夫、大丈夫、と自身を鼓舞し、また痛みを無視するようにあえてきつく拳を握る。

 興奮時に脳内に分泌されるアドレナリンが、その痛みを消してゆく。


(まあこのくらいはね)


 ほとんどダメージはない。そう確信した総一が、今度は歩を進める。

(でもね、こんな前座で手こずるわけにはいかないんだよ)

 言い訳をするように、また、トトトと音を立てつつ総一が小刻みに近づく。

 

 目の前には構え直した鉄壁の赤俣。守れば頑丈で隙はない。辰美流の基本通りに。

 その威容は、丑光を越えてあまりある。強さは充分、として。


(丑光よりも強いっぽいし、まあ、心配ないとしても。……それでもさすがに凶状持ちにはなりたくないし?)


「死なないでね」


 間合いが接すると同時に、ぽつりと総一が呟く。その言葉は小さかったが、道場にいる全ての人間に響く。

 何を言っている? と赤俣は眉を顰める。


 総一は、静かに内心、自身の身体に命じる。

 咋神流、己の身体に宿った神に向けて、ただ一言。

 

 『勝て』と。






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