第19話 高橋さん 1
「ポーロ! ポーロ! ポーロ!!」
耳元で焦ったような声が響き、ポーロはハッと正気に戻った。
瞬きをすると、いつの間にか夕陽が沈みかけ、周囲が薄暗い茜色に染まっていた。振り返ると、マルコが複雑な眼差しで自分を見つめて立っていた。
「何をぼーっとしてるんだ。みんなもう帰ったぞ」マルコは小さくため息をついた。「どうしたんだ?」
ポーロは少し痛む目を擦り、低く呟いた。「いや……なんでもない」
マルコの表情が厳しさを増した。「この世界に来てから協力することになったとはいえ……僕たちに残された時間は少ない。時空管理局は七日目——管理局でいう『時空日』には異変に気づくはずだ。今確認したが、すでに四日が経過している」
胸がギュッと締め付けられ、ポーロは深くうつむいた。「でも……未来を変えるための手がかりが、まだ何も見つかってないんだ……」
マルコは隣に腰掛け、肩を軽く叩いた。「自分じゃどうにもできないことに対して、過度なストレスや焦りを抱くのはやめろ。執着しすぎなんだよ、ポーロ。時には手放すことも覚悟しなきゃいけない」
「変えられるよ!」ポーロは抑えきれずに反論した。「絶対に何か方法があるはずだ!」
マルコは静かに彼を見つめ、言葉を挟まなかった。
ポーロは歯を食いしばり、感情のままに問い詰めた。「もし……君の世界の高橋が消えたとしても、そんな平気でいられるのかよ!?」
「僕が戻ってきたのは、高橋のためだけじゃない」マルコの瞳に鋭い光が宿る。「この『未確定の世界』が、本当に他の世界線を書き換えられるのかどうか、その答えを探すためだ。君は説明だけ読んだのかもしれないが、私のように訓練を受けた者なら、未確定の世界がどれほど複雑で危険か理解できるはずだ」
そこまで言うと、マルコはポーロの肩に強く手を置いた。
「一日一日を、そして……一回一回の行動を大切にするんだな」
そうと言い残し、マルコは夕闇の中へと背を向けて去っていった。
家に戻ったこの世界の向陽は、家の中に誰もいないことに気づいた。
「なんだよ、二人ともいないのか……せっかく今日の出来事を話そうと思ったのに」向陽は呟きながら、ふと今日見た高橋の様子を思い浮かべた。
なんだか今日的高橋さん、すごく疲れてたな……明日会えたら……
向陽は部屋の中、何もない壁に向かって一人シミュレーションを始めた。
「やあ! 高橋さん!」首を強く振る。「ダメダメ、これじゃ不自然すぎる……」
「やあ! 高橋さん、今日は元気?」再び首を振る。「唐突すぎるだろ! ……でも、もし高橋が『今日は調子いいよ』って返してくれたら、『そっか、きっと良い一日になるね』って言えば……!」
「何やってるんだ?」
「うわあぁぁぁ!?」
背後から唐突に声がし、向陽は跳び上がらんばかりに驚いた。いつの間にか、マルコが物音ひとつ立てずに後ろに立っていたのだ。
「なんだよ……いるなら声かけてくれよ!」胸を押さえて文句を言う。
「ここで何をしている?」マルコは眉をひそめた。
「あ……いや、会話のシミュレーションをしてただけだよ」向陽は気まずそうに目を逸らした。
「シミュレーション?」
「そうだよ! 高橋が『今日はまあまあかな』とか言ったら、さっきの決め台詞を言おうと思って……!」
マルコは呆れたように尋ねた。「なぜ素直に『昨日何かあったのか? 少し元気がないみたいだったから』と聞かないんだ?」
向陽は一歩後退り、大真面目に主張した。「それは僕の切り札なんだよ!」
マルコは深々とため息をついた。「機会があるうちに、伝えたい言葉は口に出しておけ」
「増も……急に熱心に話しかけたら、変に思われないかな?」向陽は躊躇した。
「自分らしくいることが変なのか?」マルコは真っ直ぐに彼を見つめた。「君はあらゆることを恋愛に結びつけすぎだ。ただの友達として接することはできないのか?」
「友達から始めたいのは山々だけどさ! いきなり距離を詰めすぎるのは不自然だろ……!」向陽は顔を赤くして弁明した。
ガチャン!
突如として窓が開かれ、学生のポーロが手際よく身を滑り込ませてきた。「確かにちょっとだけ不自然だけど……小さなことから少しずつ前に進めばいいんじゃない?」
向陽は窓の外を覗き込んだ。ハシゴすら設置されていない。「また窓からかよ……お前、一体どうやって登ってきてるんだ!?」
マルコは思案顔で指示を出した。「部活が終わったら、高橋を誘って飲み物でも買っていくか、スイーツでも食べに行ったらどうだ?」
向陽は慌てて手を振った。「な……ハードル高すぎるって!?」
マルコは首を振った。「君は恋愛のことばかり考えてる。でも、本当に高橋のどこに惹かれているのか、自分でもまだ分かってないんじゃないか?」
向陽はぐうの音も出ず、俯いて頷いた。そして顔を上げると、少し不思議そうに尋ねた。「でも……なんだか最近、二人の押しが激しくないか? 何かあったのか?」
学生のポーロは笑って向陽の背中を叩いた。「まあまあ、気にすんなって!」
翌朝。
校内の廊下で、高橋が少し先を一人で歩いていた。
後ろの植え込みの影から、マルコが向陽の背中を強く叩いた。「ほら、行け!」
向陽は一定の距離を保ちながら高橋の後ろをついて行ったが、その背中を凝視したまま、頭の中は大パニックに陥っていた。
なんて話しかければいいんだ……挨拶からか? それとも体調を聞くべきか……!?
熱い視線に気づいたのか、前方的高橋がふと振り返りそうになった!
向陽は心臓が跳ね上がり、反射的に真横の掲示板へと視線を逸らした。高橋は後ろに誰もいないと思い、そのまま前を向いて歩き去った。
向陽は冷や汗を流し、激しく鼓動する胸を押さえた。
し……死ぬかと思った……なんで急に振り向くんだよ!? もしかしてつけてるのバレたのか……!?
放課後、園芸部の花壇の前。
高橋が一人でしゃがみ込み、丁寧に花の手入れをしていた。
向陽が振り返ると、背後の樹木のかげからマルコと学生のポーロが力強く拳を握りしめ、無言でエールを送っていた。【行け! 行くんだ!】
向陽は意を決して足を進めたものの、結局高橋の真後ろに棒立ちになった。
遠くで見守るマルコは眉をひそめた。「あいつ……何をしてるんだ……?」
ついに、向陽は意を決して声を絞り出した。
「あ……やあ!」
高橋は驚いて振り返り、申し訳なさそうに微笑んだ。「あ……ごめんね、全然気づかなかった」
向陽はその隣にしゃがみ込んだ。二人の間に気まずい沈黙が流れる。
「今日、木村先輩は来てないんだね……」
高橋は視線を落とし、低く呟いた。「あ……うん。今日は何か用事があるみたい」
暗い表情を浮かべる高橋を見て、向陽は思い切って尋ねた。「今日、どうかしたの……?」
高橋は数秒間沈黙した後、少し悲しげに顔を曇らせた。「今日ね……うん、あんまりよくないかな……」
向陽は絶句した。
よくない……!? な、なんて返せばいいんだ……!?
頭が真っ白になり、思考が完全に停止してしまった。
遠くから見ていたマルコは呆れたように頭を振り、足元にあった小さな小石を拾うと、向陽の後頭部を目がけて指で弾いた。
コツン!
「痛っ……! あ、あの……何かあったの?」向陽は慌てて正気に戻り、頭を擦りながら尋ねた。
高橋は小さくため息をつき、寂しげに微笑んだ。「ちょっと話すと長くなっちゃうんだけど……」
向陽は数秒間躊躇したが、高橋の横顔を見つめるうちに、どこからか勇気が湧き上がってきた。
「じゃあ……部活が終わったら、カフェにでも行かない?」
高橋は突然の誘いに目を丸くし、向陽を見つめた。やがて少し考え込むと、柔らかく微笑んだ。「うん……いいよ」
その光景を目にした遠くのマルコは、優勝を決めた監督のように大興奮し、隣にいたポーロを強く抱きしめた。
「やった……! あいつ、やったぞ!!」
高橋は立ち上がり、「じゃあ、道具を片付けてくるね。ちょっと待ってて」と言った。
向陽は勢いよく頷いた。「うん!」
高橋が離れていくと、マルコが草むらから飛び出してきて向陽の肩を叩いた。「そうだ! それでいいんだよ向陽!」
ポーロも続いて姿を現し、感心したように言った。「私だったら、絶対そんなこと言えないや」
向陽自身も冷や汗を拭いながら脱力した。「僕だって……自分がそんなこと言えるなんて信じられないよ……」
「おい! 向陽——!」
遠くから聞き覚えのある大きな呼び声が響いた。
向陽が驚いて振り返る。「木村先輩だ!」
マルコとポーロは顔色を変え、素早い身のこなしで再び草むらの中へと姿を消した。
(あいつ、今日は用事があるって言ってたのに……なんで急に来たんだ……!?)




