[EP.6-1]巡り想い
夜明けを告げる鐘の音が、洞窟の町へ静かに響いた。
天井を覆う岩盤に朝日は届かない。
それでも街中へ吊るされた無数のランプが夜よりわずかに火を落とし、
桟橋では荷を運ぶ足音や船乗りたちの掛け声が聞こえ始めていた。
トルンコーチにも、新しい一日が訪れていた。
宿の一室は、波音だけが静かに時を刻んでいた。
石壁に囲まれた狭い部屋には、粗末な寝台と小さな机。
壁に吊るされた一つのランプが、淡い橙色の光で室内を照らしていた。
レイヴンたちが海鏡窟へ向かってから二日目の朝。
「あと半日もすれば、きっと帰ってくる」――そう信じている。
だからこそ、待つことしかできない。 それがこんなにも苦しいとは思わなかった。
セレンは寝台の前に膝を折り、両手を胸元で静かに重ねた。
目を閉じて深く息を吸い、胸の奥から言葉を紡いだ。
「生きとし生けるものに導きを。 迷える海路に星々の灯を。
いつか旅路の果てに至る我らを、慈愛の御腕にて抱擁したまえ」
静かな聖歌は、誰に聞かせるでもなく部屋へ溶けていった。
幼い頃から、何度となく口にしてきた祈り。
ただ今は、不安に押し潰されそうな自分を繋ぎ止めるための祈りだった。
(フィーネ様……。 どうかみんなを、お守りください)
祈りを終えた部屋には、波の音だけが残った。
――コン、コン。
控えめな音が扉を叩く。
「シスターさん、おはようございます」
「はい、おはようございます」
扉の向こうには、栗色の髪を後ろで束ねたヒュムの少女が立っていた。
十歳を少し過ぎたくらいの少女は、湯を張った桶を抱えて立っていた。
「先生が包帯の交換を始めます。お手伝い、お願いできますか?」
「もちろんです」
セレンは迷うことなく頷いた。
少女も小さく頭を下げ、そのまま診療室へ向かって歩き出す。
この宿は旅人だけでなく、怪我人や病人も受け入れていた。
廊下には薬草と消毒油の匂いが染みついている。
シスターとして学んだ応急処置は、この町でも役に立った。
自然と、ダルクの言葉が脳裏によみがえる。
――死にたくなけりゃ、この部屋から出るな。
監禁、というほど厳重ではない。
鍵も掛けられておらず、窓も扉も自由に開く。
逃げようと思えば逃げられる。
ただ、その先で何が起ころうと誰も助けない。
そういう意味の忠告だった。
それでも、傷ついた人が目の前にいる。 助けを求める声が聞こえる。
それを見過ごして部屋で待ち続けることなどセレンにはできなかった。
「行きましょう」
少女の後を追い、セレンは静かに廊下へ踏み出した。
―――
診療室として使われている広間には、薬草と酒精の匂いが満ちていた。
長机や酒樽の名残を見るに、もとは海賊たちの食堂だったのだろう。
壁際へ寄せられた長机は簡易寝台として並べられ、その上では重傷者たちが苦しげに身を横たえている。
外傷の軽い者たちは入口付近で順番を待ち、それぞれ傷口を押さえながら静かに自分の番を待っていた。
診療室の中央では、一人の男が患者の治療に追われていた。
日に焼けた肌に無精髭。四十代ほどに見える大柄な男だ。
血と薬草の染みが幾重にも重なった革の前掛けを身につけ、
腰には大小さまざまな刃物や鋏を提げている。
その姿は医師というより、解体職人か歴戦の海賊のように見えた。
「暴れんな……あと少しだ」
そう言うや否や、患者の肩を片手で押さえ込みもう片方の手で傷口へ針を通す。
「――っああぁぁぁ!!」
悲鳴が広間いっぱいに響いた。
傷口を手際よく縫い終えると糸を切り、ようやく顔を上げてセレンへ顎をしゃくった。
「シスターさん、その患者お願いね。 薬塗って包帯巻いといて。 薬代はきっちり貰うからな」
「はい、先生」
先生と呼ばれた男は返事を聞くより早く、次の患者へ向き直る。
「次。 ……脱臼、ね。 これでも噛んで、気張ってね」
再び苦しげな声が上がる。
その傍らで、セレンは先ほど治療を終えた患者の前へ静かに膝をついた。
傷口を確かめ、薬草を薄く塗り広げる。
最後に清潔な布を丁寧に巻き直し、結び目を整えた。
「これで終わりました。傷が開きますから、今日は無理をなさらないでください」
「お、おう……」
「どうか、お大事になさってください」
黒い修道服をまとった見慣れないシスターの姿に、患者たちは最初こそ不思議そうな目を向けた。
「……この街でシスターなんて初めて見た」
「神様の使いまで来るたぁな、トルンコーチも変わったもんだ」
そんな声が聞こえても、セレンは穏やかに微笑むだけだった。
その姿を見届けると、受付に立っていた少女が元気よく声を張り上げる。
「先生ー! こっち終わりましたー!」
「はいはい、次の人どうぞー」
今は、人を救うために手を動かし続けた。
―――
昼を告げる鐘が静かに響いた。
慌ただしかった診療室にも、ようやく束の間の静けさが訪れる。
医師の男は額に滲んだ汗を腕で乱暴に拭いながら、大きく息を吐いた。
「シスターさん、昼休憩にしようか」
そう言うと、寝台へ目を向ける。
「横になってる連中の様子を見てくる。その間、少し休んどいてくれ」
「はい。ありがとうございます」
男は軽く手を挙げ、そのまま重傷者たちのもとへ歩いていった。
セレンもようやく肩の力を抜き、小さく息をつく。
朝から治療は途切れることなく続いていた。
傷ついた人を前にしている間は気が張っていたが、
静けさが戻ると同時に、胸の奥へ別の不安が忍び寄ってくる。
(レイヴンたちは……)
無事に戻ってきて、ダルクの厄介事を片付け、また皆で旅を続けられる。
そう信じたい。
けれど、海鏡窟へ向かった三人の姿が脳裏をよぎるたび、不安は胸の奥で静かに膨らんでいった。
その時だった。
――コトッ。
小さな物音が部屋の入口から聞こえた。
セレンはゆっくりと顔を上げる。
「……どなたですか?」
「ひっ!」
入口に立っていたのは、セレンと同じくらいの年頃の少女だった。
痩せた身体を震わせ、一本のナイフを両手で握り締めている。
だが、その切っ先は落ち着きなく揺れ、とても人へ向け慣れた手つきには見えなかった。
「う、動かないで……! お、大人しくついてきて……お願い……傷つけたくないから……」
その言葉に、セレンは驚くより先に困惑した。
脅しているはずの少女のほうが、今にも泣き出しそうな顔をしていたからだ。
「あなたは、どなたですか?」
「しっ! 静かにして! お願い……時間がないの……!」
「何があったのですか? 私で力になれることなら――」
「来てくれればそれでいいの! だから……お願い……!」
切羽詰まった声だった。
だが、それだけでは理由にならない。
セレンは静かに首を横へ振る。
「事情が分からないまま、お受けすることはできません」
少女はその場で固まった。
どうすればいいのか分からない子どものように目を泳がせ、やがて観念したように息を吐く。
「……だよね」
そう呟くと、握っていたナイフを床へ放り投げた。
「えっ――?」
少女は床を蹴り、一気にセレンとの距離を詰める。
細い腕とは思えない力でその身体を抱え上げると、そのまま一直線に窓へ駆け出した。
「ま、待って――!」
ガシャァァァンッ!!
木枠とガラスが派手な音を立てて砕け散る。
二人の身体は、そのまま二階の窓から外へ投げ出された。
耳元で風が唸る。
一瞬、身体が宙へ浮く。
だが落下の途中、少女は素早く身体をひねり、自らが下になるよう体勢を入れ替えた。
ドンッ!!
鈍い衝撃が石畳へ響く。
少女は苦しそうに息を漏らしたが、それでもセレンを抱きかかえた腕だけは離さなかった。
「いたた……」
顔をしかめながら立ち上がると、すぐにセレンの手首を掴む。
「見せもんじゃないよ! ほら、こっち!」
返事を待つことなく、少女は人混みの中へ駆け出した。




