[EP.5-10]闇に灯る港
静寂の中で、船体の軋みがゆっくりと重さを変えていく。
甲板の隙間から差し込んでいたわずかな陽光も、いつしか影を潜めはじめていた。
船内はまるで夜の底へ沈み込むかのように、次第に暗さを深めていく。
やがて、その闇の中でギーグが口を開いた。
「今一度、問いたいことがある。……なぜ、詳細も分からぬ依頼を受けた?」
レイヴンは格子に背を預けたまま小さく息を吐く。
ダルクは交渉をしているようで、していない。
命を助けたのも、船に乗せたのも――すべては“石”へ向かわせるための配慮に過ぎない。
だが逆に言えば、それを手にしてしまえば――こちらにも主導権が生まれる。
「受けなければ……俺たちは海に突き落とされていたかもしれない。
それに――交渉材料は、自分の手で掴むしかない。 他人に委ねる気はない」
ギーグは低く唸るように息を漏らした。
「見返りを求む、ということか。……そううまくいくかは、おヌシの裁量次第じゃの」
「やれるところまでやるさ」
船体がさらに大きく軋んだ。
闇は深まり、外海の気配は遠ざかっていく。
―――
船がわずかに減速した。
それまで腹を叩いていた波音が、いつの間にか擦れるような低い音へと変わる。
水が“止まりはじめている”。――入港だ。
やがて鈍い衝撃が船体を揺らし、横付けされたことを告げた。
続いて縄が投げられ、木と木が擦れる乾いた音が響く。
船倉の扉が軋み、ランプの光が闇を裂いた。
降りてきた竜人兵は何も言わずに鍵を開ける。
「変な真似はするなよ」
短い警告だけが落ちる。
レイヴンたちは押し出されるように甲板へ出る。
――次の瞬間、空は消えていた。
視界を覆ったのは岩だった。
頭上を塞ぐ天井は黒く、どこまで続いているのか分からない。
陽光は一切ない。
代わりに、橙色の光が揺れていた。
洞窟の壁一面に吊るされた無数のランプが、ゆらゆらと揺れ続けている。
その光は水面に落ち、細長く引き伸ばされ、波に裂かれ、歪み、砕けて、また繋がる。
光が、海に溶けている。
洞窟は横に広がっていた。
どこまでも、果てが見えないほどに。
岩壁に沿って桟橋が幾重にも連なり、さらにその向こうにも同じ光景が果てなく続いている。
船、船、船――傷だらけの船体が隙間なく並び、その間を人影が絶え間なく行き交っていた。
レイヴンはこの場所を知らない。 ただ、雰囲気が普通ではないことは本能が告げている。
「おい! そっち運べ! それは売り物だろうが!」
「はぁ?! 先に金払えって言ってんだろ!」
「賭けはこっちだ! 次は竜人だぞ!」
怒鳴り声。笑い声。罵声。酒瓶が割れる音。金属がぶつかる音。
すべての音が混ざり合い、洞窟の中で何度も反響し――逃げ場を失って渦巻いていた。
空気は重かった。
潮の匂いに、血と酒と油の臭いが絡みつく。
沈黙を、横からのダルクの声が破った。
「海賊街トルンコーチだ。 坊ちゃんには空気が合わねぇだろうけど、まぁ慣れてけよ」
レイヴンは答えない。
ただ、破れたフードを深く被り直した。
この場所では、力も、命も、すべてが取引の対象になる――そう言われているようだった。
「ここは無法地帯だ。 あるのは腕っぷしと、金と、度胸だけだ。
……まぁ、普通に生きてきた連中には縁のねぇ場所だな?」
セレンが小さく息を呑んだ。
視線の先――桟橋の端で、男が別の男を殴り倒している。
誰も止めない。誰も気にしない。
ただ、その横で酒を飲みながら笑っているだけだ。
それが“日常”だった。
ギーグが顎を撫でる。
「……なるほどの。 “弱い奴は死ぬ”――それが海賊のルール、ということか」
その言葉が、この場所では、それがただの“事実”として存在している。
―――
周囲を見渡して、セレンは思わず足を止めた。
ヒュム、竜人、ハーピィ――種族の違う者たちが、そしてそれらの子供たちもこの街に混ざっている。
種族の違いなどそこには存在していないかのように。
大人たちは酒を片手に言葉を交わし、"成果"を誇らしげに語る。
傍ら、ランプの光が入らない場所に子供たちが黙々とナイフを磨いている。
ただ違和感としては、大人と子供が一緒にいないこと。
まるで、見えない線が引かれているかのように。
(……どうして……?)
ここにあるのは、理解でも信頼でもない。
ただ――“干渉しないことで保たれている均衡”だった。
(あの子たちは……どこから来たの……?)
親はこの街にいるのだろうか。 それとも――
その先の考えに触れそうになって、セレンは小さく首を振った。
(……違う。決めつけてはいけない)
だが、目に映る現実がそれを否定する。
不安そうに周囲を見渡す子供。
慣れた様子で大人の真似をする子供。
何も感じていないように笑う子供。
それぞれが、この場所で“生き方”を覚えている。
胸の奥がじわりと締め付けられる。
救いがないわけじゃない。
けれど――守られてもいない。
(……私は)
セレンは無意識に胸元の烙印へ触れた。
(この場所を、どう思えばいいの……?)
答えは出ない。
ただ、目を逸らすことだけはできなかった。
そのとき――遠くで、誰かが笑った。
それは楽しげで、どこか狂気を孕んだ笑いだった。
トルンコーチは、今日も“生きている”。




