機構の目と不測の変数(インコンシステント・データ)
深夜の研究室に現れた女性は、マサトが予想していた大学関係者とは明らかに異質な存在だった。彼女が差し出した名刺には、「国際科学技術戦略機構(ISTO)」という、国境を越えた巨大な組織の名が記されていた。氏名は、香坂サヤ。役職は「特別調査員」となっていた。
「榊原マサトくん、改めまして。あなたの頭脳と、その研究テーマには、大変興味があります。特に入試の答案にあった『空間の弾性率』という概念、あれは既存の物理学の枠を超えています」
香坂サヤは、マサトを値踏みするように見つめながら、コーヒーメーカーの側まで歩み寄った。
「私の過去、ですか。山に籠っていたとしか言えませんが」マサトは警戒を解かない。
「そうね、山ね。でも、二年間も山に籠っていた高校生が、忽然と現れて、世界の未解決問題の答えを瞬時に導き出し、送電ロスゼロのエネルギーシステムを提唱する。それは『山に籠った』という言葉で処理するには、あまりにも**不自然な現象**よ」
香坂は、言葉一つ一つに強い圧力を込めてくる。彼女は、マサトの「天才」が、この世界では説明のつかない、一種の異常事態であることを理解しているようだった。
「ISTOは、地球上の科学技術の進歩を加速させる一方で、その技術がもたらす『不確実性』を監視する組織よ。あなたの存在は、まさにその不確実性そのもの。私たちは、あなたがどこから、どうやって、その知識を持ち帰ったのかを知る必要がある」
マサトは、異世界での出来事を話すわけにはいかない。話せば、自分の研究も、この現実世界での活動も、全て「妄想」として封じられてしまう。
(嘘をつけ。最適解を導け。この状況を切り抜けるための、最も合理的な言葉は何だ?)
彼の脳内では、瞬時に何万通りもの応答パターンがシミュレートされた。しかし、どのパターンを選んでも、この女性を納得させることはできないという結果が出た。
「…私の能力は、事故です」マサトは、最も真実に近い、だが異世界を隠蔽できる言葉を選んだ。「二年前に失踪した際、私はある種の強いショックを受け、脳機能が変質した。その結果、情報の処理速度と理解力が、常人の域を超えた。それだけです」
香坂は、コーヒーカップに手を伸ばし、マサトの言葉を遮った。
「ショックね。…でも、私たちは、あなたの脳波パターンを分析済みよ。あなたが問題解決に取り組む際のパターンは、通常の天才のそれを遥かに凌駕している。それは、生存競争の極限でしか得られない、一種の戦闘知性よ」
マサトは息を飲んだ。彼が異世界で培った「最適解」の技術は、まさしく「生存競争の極限」で生まれたものだ。彼の核心を突かれていた。
「ISTOは、あなたを敵視しているわけではないわ。むしろ、利用したい。あなたのような『超越者』は、世界のエネルギー問題を解決する鍵になる。協力してくれれば、あなたの研究は全面支援する。…ただし、あなたの行動は、全て私たちの監視下に置かれることになる」
それは、甘い誘惑であり、強力な束縛でもあった。
知性の限界
マサトは、この女性の言葉の真偽、そして裏にある意図を分析しようとした。しかし、そこで彼は、自身の「天才」の決定的な限界に気づく。
(分からない。彼女が、本気で協力者を探しているのか、それとも俺を排除しようとしているのか…彼女の心の中のデータが、読み取れない…!)
マサトの能力は、物理現象や論理、そして客観的な事実に基づいた計算に対しては無敵だった。しかし、人間の**「感情」「欲望」「嘘」**といった、予測不能な要素が絡む主観的な情報に対しては、彼の知性は機能しなかった。
異世界で、ラッセルやマリアといった、信頼できる仲間と行動を共にしてきたマサトは、誰かの心を読み解く必要はなかった。彼の「最適解」は、常に仲間との協力を前提としていたのだ。
香坂サヤは、まさにマサトの**「不測の変数」**だった。
「監視は受け入れられません」マサトは断言した。「私は、誰にも邪魔されず、世界を救うための研究をしたい。あなたの組織の支援は不要です。私一人で、十分です」
香坂は、コーヒーカップを静かに置き、冷たい視線をマサトに向けた。
「それは、傲慢ね。そして、危険だわ」
彼女は、研究室の扉に向かって歩き出す。
「覚えておきなさい、榊原マサト。この世界は、物理法則と論理だけでは動いていない。そして…あなたは、もう二度と、あの世界には戻れない。この世界のルールに従うしかないのよ」
彼女が扉に手をかけたその瞬間、マサトは、思わず声を上げた。
「なぜ、俺が**『あの世界』**に戻れないことを知っているんですか…!?」
香坂は、振り返ることはなかった。
「…私は、あなたのような『迷人』の、過去の事例を数百件、知っているからよ」
そして、扉が閉まり、彼女の気配は完全に消えた。
今日のプレイリスト
香坂の言葉に動揺しながら、マサトはデスクに戻った。彼の脳は、再び猛烈な速度で回転し始める。
(迷人の過去の事例?数百件?…まるで、異世界転移が、この世界では管理された現象だとでも言うのか?)
思考の奔流を断ち切るように、マサトはスマートフォンを取り上げ、イヤホンを耳に差し込んだ。集中力を高め、心を落ち着かせるために、異世界帰還後から始めた習慣だ。
「プレイ…『孤独な勇者の休息』」
マサトがそう呟くと、Spotifyの音楽が流れ始めた。
静かに流れる音楽を聴きながら、マサトは再びモニターに向かった。彼は、香坂サヤという不測の変数を排除するために、そしてマリアがくれたネックレスの真の機能を知るために、研究を続ける必要があった。




