僕の過去の話 2
母が死んだと連絡を受けたとき、僕は呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
涙なんて溢れてこないのが自分でも笑えた。
というより心のどこかで嬉しさすら感じていた。
酷いよな。自分を産み育ててくれた人だってのに。
それでも、僕の足下は真っ暗で、この先どうして良いか何て全く分からなかった。
母の死因は事故だった。雨の降る中彼氏の家に向かう途中、スリップしてきた対向車と激突。打ち所が悪くて即死だったらしい。対向車の男は無事で、周りの証言と母の車のドライブレコーダーに写った映像から、スピード違反と携帯を弄りながらの運転がバレてお縄にかかり、その結果僕の元には多額の慰謝料が舞い込んできた。
今大学に通えているのは、そのときのお金も一助になってるのだが、何だか死んだ母に、大っ嫌いな母に生かされているみたいで、笑えないよ。
どんなに金が手に入っても当時の僕は小学6年生。身よりもなく、すっかり母親によって壊されてしまった心は、体は、僕自身は、人に頼る事なんて考えることが出来なくなっていた。
それでもオトナというのは勝手なもんでさ、親戚一同寄り合って、僕をなすりつけ合い。母方の兄弟は拒否するし、そもそも親父は一人っ子。縁の切れた両祖父母に至っては僕の事なんて認知するつもりが無いらしかった。その時に知った事なんだけど、僕の両親は駆け落ち同然で、親の反対を押し切って結婚したらしい。それで2人とも、それぞれ親から勘当をくらってたんだって。もう、どこまでも底抜けに碌でもない親だよ。全く。
その後何とかようやく話が纏まり、父方の遠縁に当たる春日野さん夫婦が僕を引き取る事になった。春日野さんは、春日野道夫さんと春日野綾野さんという夫婦が2人で暮らしている家庭で、身体的な事情から子供の出来なかった2人は僕のことを心から歓迎してくれた。でも、僕は最初本当に怖くて、当時の僕はオトナという存在、というか人間そのものが怖かったから、優しくしてくれる2人に怯えて、先ず家から出てこないし、思い出すのも申し訳なくなるような罵詈雑言を怒鳴りつけて、優しい人を傷つけた。それでも、2人は諦めずに僕を家族にしようとしてくれた。僕は段々と心を開いていった。
そうして、始まった3人暮らし。僕は中学入学を機に戸籍やらなんやらをそちらに移し、全く知らない土地、全く知らない人に囲まれて、第二の人生を始めた。
でもそんな、きっと幸せが始まる筈だった最初の日、綾乃さんが作ってくれた夕ご飯、あれはシチューだったかな。暖かい湯気を立てて、本当に美味しそうだった。六年ぶりのまともな食事を目の前にした。僕はそれまで、よもや人の食べ物とは思えないモノばかり口にしてきたから、物心ついて、始めて食事らしい食事を体験したとも言えるだろう。
嬉しくて嬉しくて食べる前から涙が零れてきて、僕はそれをスプーンで掬い、口に運んだ。口に熱い液体が浸入してきて、はふはふ言いながら頬張った。
でも、それは何の味もしなかった。
香りもしない。全くの無味無臭。
綾乃さんがどう? 美味しい? って聞いてくれたけど、僕は当然首を振ることしか出来なくて、泣きながら、分からない。味がしないと言った。綾乃さんも道夫さんもそんな筈は無いと言って僕の皿からシチューを食べた。2人にはしっかりとミルクの風味もバターの芳醇な香りも塩みも感じていた。僕はただ泣くことしか出来なかった。
後日病院に連れて行かれて検査された。内科とか脳外科、そして精神科をどんどんたらい回しにされた結果、ストレスによる精神的なモノが、僕の中にある味覚を感じる器官への悪影響及び、食べ物に関する嗅覚の遮断等を起こしていると診断された。要するに食事に関して感覚器官が全く機能していないらしかった。どうやら、臭くて変な味のする残飯を食べている内に、僕は味を感じないように自己暗示をかけていたみたいで、それが一番の原因だということだった。医者によると、これは時間がどうにかするもので、今の生活を続けていけば、きっと思春期が終わる頃には良くなると言われた。
それでも、それは今になっても治っていない。
何を食べても、味を感じられない僕はご飯を食べることに嫌気がさしていた。でも、食べないことには死んでしまう。綾乃さんはいつも、無理はしてほしくないけど、生きるためだから、ご飯は無理してでも食べようって言ってくれていて、こんな僕にも優しくしてくれる春日野さん夫婦の為にも、沢山無理して食べた。でも、正直キツかった。
一つの救いは春日野さん夫婦が忙しい人だったことだ。夫婦揃って大学教授で、研究室に籠もりがちな2人は家を空ける事が多かった。そういう日は自分で作ると嘘をついてカロリーメイトとかウイダーとか、簡単に済ませられるモノを食べた。寂しいし、嘘をつく事は心苦しかったけど、心の籠もった料理を無理して食べるよりは幾分かマシだった。
そうそう、一度、綾乃さんと道夫さんに料理を振る舞った事があったんだ。僕でもレシピ通りにすれば作れると思ったんだけど、僕の料理を食べた2人は美味しいと言いながら、顔が引きつっていた。やっぱり、味見が出来ないのは辛いね。そもそも塩と砂糖やソースと醤油の違いすら分からないのに、どだい無理な話だった。
どうやら人ってのは、人生の中で経験しないことには味というモノの識別が出来ないらしい。今僕が君の料理を食べて味を理解しているのなんて、本でどんな料理がどんな味なのか知ったから。頭の中の知識として味を『識っていた』っていうからだけ。本当に舌で、経験で理解しているわけじゃない。それでも、最近はなんだかぼんやりとだけど、それが分かってきた気もする。
それはまだ話すのも少し先なんだけど、君のおかげなんだ。
そして、この事をきっかけに僕は二度と料理をしないと心に誓った。
どうも。こんにちは。
過去編2話目です。
天涯孤独で、足下が真っ暗でも、きっとそこに救いがあると信じています。
それは、暗闇の中でうつむいているだけじゃよく見えないけれど、顔を上げたら案外暗かったのは足下だけだったってオチなのかも知れません。
先を見つめたら一筋の光がってパターンかも知れないし、急に暗闇をかき消すヒーローの登場なのかもしれません。
僕はそれなりに幸も不幸もあまり起伏のない人生を送っていますから、本物の暗闇なんて見たことが無いですけど、この世界はきっとそうだったらいいなと願っています。
それではまた来週。
次回はアイツとの出会いが!