不義理の連鎖①
「最期が水の中なんてなあ……」
河津が揺れる水面を同情的に見下ろして溜息をついた。そこには人の死体が浮かんでいる。全く人生というのは分からないもので、どこかで滑って落ちたんだろう、と悲しい気分になるのである。
「でも、まだ引き上げて見ないことには分かりませんよ」
と返したのは白鳥だ。今は港湾労働者に頼んで、この死体を陸に上げてやろうとしているところである。汗水たらした労働者達が海に入り、縄で括り、そして人力で引っ張っている。
まったく厄介なことであるが、この哀れな死体は今朝方、港に浮かんでいるのが見つかったのである。 歳は二十代というところで働き盛りだ。外傷はないから、酩酊の結果、海に落ちて死んだのだろう、と死体を見た限りでは判断できそうだった。
「事故ですかね?」
水死体というのはどうにも見目が悪い。いや、見目の良い死体など無いのだが、その中でもとびきり悪い。手で顔を覆いつつ、白鳥は河津を見やった。彼の方は自慢の髭を引っ張って、苦々しい顔をしていた。
「ちょっと気になるな」
「何がです?」
「ほれ、ここ」
河津が死体の一部を指差す。妙に人間らしくない柔らかさで、白鳥は顔をしかめ、ますます視界を手で覆った。
「おい、見ろよ」
「嫌です。早く話を進めてください」
「……まあ、いいがな。ともかくだ、誰かに強く押されたみたいな痕がある」
河津の言葉を脳内で反芻し、白鳥はさっと周囲を見渡した。すでに野次馬が何人か集まって来ていて、ひそひそと何やら秘め事をむつみあっているわけである。
その人々をさっと見渡し――つまりは死体から目を背け――白鳥は大声を上げた。
「この哀れな死体に見覚えのある人はいませんか?」
そう尋ねると、何人かが心当たりを言ってくれた。八双屋の六助さんではないか、と。
それで二人の同心は八双屋という港近くにある小さな海鮮問屋へ足を運んだ。並んでいる商品はちんけな物だ。どこで取れたのかも分からない魚で作った正体不明の干物と、シジミかと見まごうくらい小さいアサリ、それに出汁が出るかどうかも分からないくらい小さな昆布などだ。
それらをしげしげと眺める白鳥に代わって、河津が声を掛けた。中にいた丁稚が慌てて店主を呼びに行き、奥から厳つい顔をした初老の男が現れた。いかにも頑固親父という感じである。
「何か?」
その頑固親父――権吉というそうだ――が唸るような声を上げた。河津が怯んだ様子はない。いつもの通り事務的なことを述べた。
「六助という息子がいるそうだが?」
「……ああ、あの放蕩息子が何か?」
「昨晩亡くなった。港で溺れ死んだ」
権吉は、それはもう恐ろしい顔で溜息をつき、苛立たしげに舌打ちをした。
「そうですか。それはご迷惑をおかけしました」
「随分と淡泊な反応だな」
河津が首をかしげると、権六は途端に目をひんむいた。店先であるにもかかわらず、眉を吊り上げ、懐から財布を取り出して投げつけた。
「昨日も、そいつから金を盗んでいったんだ! 拾ってやった恩も忘れて」
権吉の顔は見る見るどす黒くなっていった。どれほどの怒りが彼の中に蓄積されていたのだろう。それは分からないが、ともかく凄まじいまでの感情が二人の同心にぶつけられたのは事実だ。
白鳥は持っていた干物を落としかけた。それを宙で捕まえると、そのまま怖々と河津と権吉の睨み合いを注視した。
「拾ってやった?」
「そうだ。奴は孤児だった。少しばかり頭が切れるようだったから、俺の息子にしてやったのに」
河津は顔をしかめた。人は見かけによらないものだ、と改めて思い知らされたわけである。何故なら、彼が抱いた六助への第一印象は、真面目、の一言だったからだ。
「なるほど。金を取っていく以外にはどんな悪事を?」
「行きずりの女を孕ませたこともある。喧嘩も、窃盗も、一度や二度じゃない。出来が悪いくせに迷惑ばかりを掛けおる」
そう言いつつ権吉は苛立たしげに辺りを行ったり来たりした。色々な嫌なことが思い浮かんだのであろう。荒っぽく額を叩き、それから憤怒に灼かれた心をさらにむき出しにした。
「それに比べて七太郎の方は真面目に仕事をしていた。やはり最後は血の繋がりがものをいうのだ」
拳を振り上げ、怒りに満ちたまま河津を睨み下ろす。何とも豪胆な人だ、と白鳥などは思うのである。河津は結構怖い顔をしているから、慣れるまでは怯える人が多いのだ。
「で、その七太郎はどこに?」
「今、倉庫の方に行っておる。俺は仕事があるのだが?」
権吉が憤慨しながら言うものだから、二人は店の外に出た。
と、その軒先で一人の男が待っていて、ただでさえ細い目を細めていた。河津は眉間にしわを寄せていたが、しかし、すぐにその男に身を寄せた。
「六助さん、亡くなったんで?」
「ああ、あんたは?」
「ここの手代をしております、林太と申します」
ちょこなんと頭を下げる仕草は、いかにも愛嬌がある。白鳥と河津は視線を交わし、この男に集中した。
「六助さん、随分と生活も荒れていたって聞きました」
私が見たわけじゃあないんですけどね、と付け加え、さらに声をひそめた。
「毎日飲んだくれ。当然業績も悪いですからね、随分と叱責されていました。内々では、もう跡取りを取り消されたとか何とか……」
「六助は跡取りだったんですか?」
「ええ、それだけ期待されていました。七太郎さんと競争を言い渡されていたわけです」
「あの父親に?」
林太はまたしても小さく頷き、店の中から聞こえる権吉の怒号に身をすくめた。
「おお、怖。私はもう行きます。倉庫は港の奥です」
林太はびくびくと背を丸めながら、ゆったりとした動作で店に戻った。直後、権吉の怒号が響き渡り、何か割れ物が叩き壊されるような激しい音が響き渡った。