雨降りの日①
その日は一日中どんよりとした天気であった。警邏をするにも、帳簿を付けるにも、湿度が気になり、つい空を見上げることが多かった。
「どうやら暇らしいな」
などという平野の馬鹿げた認識で仕事が増えたりしたが、まあ、それはともかくとして、白鳥は空模様を気にしていた。
それは曲芸を見る時のような、一種の危うい光景だった。
いつ雨が降り出すのだろうか。灰色の雲から滴が落ちるのはいつからだろう。そうした疑問が彼の中にはあったのだ。
当然のこととして傘は持ってきているが、雨が好きなわけじゃない。でこぼこの道に水溜りは出来るし、砂地の道で足元は汚れる。しかもこれが勤務外であれば良いが、勤務中の、しかも警邏の頃に降るとなると、白鳥の気分は際限なく深潭へと落ち込んでいく。
というわけで彼は、しきりに天気を気にしていたわけであるが、運が良いのか悪いのか、終業間近になってぽつぽつと降りだし、そしていざ帰るという段になって本降りとなったのである。
「ああ、もうちょっとあとに降れば……」
「お前、いつもそんなこと言っているな」
呆れ顔の河津をよそに、白鳥は軒の下から黒々と染まった曇天を見上げた。
いつもならば美しい欄干が広がるのであるが、その日はもちろん雲に覆われて見えない。傘を差してしまえば、見るのは水のたまった道々と、それから道行く人の傘の模様くらいなものである。
ざあざあと降りしきる雨の音を聞きながら、白鳥は帰路についた。雨が降っているから、今日は河津と飲みには行かない。大抵は仕事の愚痴を言うために付き合うのだが、雨が降っていると帰りが面倒だ。
「はあ」
傘の中は窮屈な気がする。服の袖が濡れていないかとか、跳ねる飛沫で袴が濡れないかとか、そういうことばかりを考えてしまう。傘を差すと何故か肩が凝るような気がするのであった。
白鳥は番所を出て、豆河通りへと出た。河津と飲みに行く時はともかく、直帰する時は別だ。通りを北上した先に広がる、長屋が連なる地帯に彼の家はあった。
もちろん実家である白鳥屋に住んでも良いのだが、彼なりのプライバシーというものもある。どうしても人目があると気になる年頃なのだ。
雨は強まるばかりだ。昼時に降らなかったのは僥倖だが、一つ懸念もある。それは白鳥の家が古いということだ。もしかしたら大粒の雨で屋根に穴が空くかもしれない。
ただでさえ雨漏りをする時もあるから、ちょっと強い雨が降る日は気になるのだ。
「全く、提灯も持ってくるべきだった」
見慣れた通りを辿りながら、白鳥は独りごちた。晴れている日であれば長屋の所有者が気を回して、区画の入口だとか、家の軒先だとかに明かりを灯しておいてくれるものだが、雨の日に限って言えば無い。
間断なく落ちる滴によって、家々から漏れる光でさえも遮られ、月光ですら雲に背負われてしまっている。必然的に薄暗く、何か出そうな気がする。
「まあ、お化けなんか居やしないしな」
半ば自分に言い聞かせるように独語した。お化けなんてのはいかにも子供だましだ。いや、今どき子供だって騙せやしない。肌を舐める冷気に背筋を震わせながら、白鳥は先を急いだ。
と、その時だった。
通りかかったとある長屋の一画で、けたたましい物音がした。
何かが割れる音や、男の悲鳴が聞こえてきて、白鳥は立ち止った。以前であれば足早に駆け抜けていたのだろうが、これが仕事病か、などと思いながら、じっと闇夜の中で息をひそめる。
何か問題があれば、すぐに駆けつけた方が、きっと上司の覚えも良いだろう。冷厳な平野の顔が脳裏をよぎり、彼女が一つの手加減も無く褒めてくれるのは、どういう成果を挙げた時だろうか、と想起した。
程なくして、この雨降りの晩に傘も差さず、人影が一つ飛び出してくる。白鳥は急いでその影に近寄った。どうやら地面にへたり込んでいるようだ。提灯も持たずに近づいてきた白鳥に対して、この彼は辺りをつんざくような悲鳴を上げた。
「ほ、ほああ!」
「ぎゃああ!」
この男の予想外の大声に白鳥も悲鳴を上げた。それで二人とも揃って声を上げ、ぶるぶると震えながら、お互いの顔を見合わせた。
「な、何があったんです?」
結局、白鳥の方が尋ねた。
両隣りと向かいの家の戸が開いて、中から怪訝な顔をした男達が顔を覗かせたから、そう尋ねるしかなかった。
でないと、大小を腰に帯びた侍が、へたり込んでいる一般市民に脅しを掛けているようにしか見えない。
もしも晴れの日だったなら、白鳥にそんなことは出来ない、と皆が断じたかもしれないが、ことは雨の日に起こっているのである。ともかく自分を知らせるために声を上げるしかなかった。
「何だ白鳥さんか」
そんな呆れた声がして、全ての戸が閉まった。
それで白鳥もほっと胸をなでおろし、男に視線を戻した。
その男の顔は雨で濡れている。その上、何かに恐れを抱いているようで、怖々と家の中を指差した。白鳥は、その指の先を慎重に追い、唯一開け放たれている長屋の部屋の中を窺った。
「何かあるんですか?」
再び男に視線を戻すと、彼は壊れた人形のように何度も頷いていた。だから、白鳥は傘を男に渡して、ゆっくりとその部屋の中に足を踏み入れた。一応の用心として脇差の鯉口を切ってはおくが、白鳥など、その辺のガキ大将に負けるくらい軟弱であるから、何の慰めにもならない。
「誰かいますか?」
と声を掛けても、いらえはない。だから白鳥は手探りでこの家の中に入り、どこかに明かりの種は無いかと視線を彷徨わせた。
そうして、この八畳一間の部屋に何か大きな影が転がっているのに気が付いた。彼は恐る恐るその影に近づき、もう一度声を掛けた。
「こんばんは、白鳥ですが……」
今は同心としての証を持っているわけではないから、そう声を掛けておく。しかし、それでも反応がないから、白鳥はなおもにじり寄り、この影を窺った。
近付いてみて思うのは、それが人であろうということだ。
たぶん人なのだろうが、しかし横たわったまま動かない。その意味を悪い方にばかり取ってしまって、白鳥は自戒した。そう毎日、殺人事件が起こってたまるか、と。
「あの、風邪ですか? お医者さんでも――」
と言いながら触れたところで、白鳥の体は固まった。何かぬるりとした感覚が、彼の手のひらに広がったのだ。それでいて、この男――体に触れた限りでは男だろう――の体が冷たく強張っていたのだ。
「あの、あの、生きてますか?」
内心で動転してそう尋ねてみるが、当然帰ってくる言葉はない。
代わりに、うつ伏せになっていた男の体をひっくり返し、その腹に包丁らしき物が刺さっているのを見つけて、白鳥の意識は遠のきかけた。
彼は息を詰めながら、ゆっくりと部屋を横切り、そして入口付近へと戻ってくる。
絶え間ない雨音が耳道を揺さぶり、それが先ほどよりも大きくなったようだ。彼はまるで這いずるようにして部屋を出て、それからひと気のない長屋を見渡した。
先ほどへたり込んでいた男がどこにも居らず、開いたまま渡したはずの傘が、この部屋の入り口に丁寧に閉じられて立てかけられていた。
事ここに至って白鳥は大きく息を吸い、腹の底から悲鳴を上げた。