雨降りの日②
「――で、その男に促されるまま、部屋に入ったと?」
結局、通りがかった女が通報してくれたらしく、夜番の同心が現場に駆け付けてくれた。
手を血塗れにした白鳥は、入口付近で腰を抜かしたところで彼らに見つかり、こうして事情を聞かれているのである。
「そうなんですよ。物音がしたから近付いたんです。そしたらこんな目に合うんですよ?」
「ああ、ああ、落ち着けよ白鳥。誰もお前を犯人だとは思ってもいないさ。それよりも聞きたいのは、その逃げた男がどこの誰かってことだ」
「分かったらぶん殴ってやりますよ!」
「全く……今、平野さんが来るからな」
「え?」
白鳥は固まった。ざあざあと降りしきる雨の音が、ひときわ大きく彼の耳には届いていた。
「え? いや、え? 平野さん、来るんですか?」
「うん、一応連絡したら、河津さんは酔い潰れてたから」
「いや、でも、酔い潰れている河津さんもまともですよ?」
この極度に怯える白鳥に対して、夜番の同心は肩をすくめた。今は実況見分なんぞをやっていて、白鳥には構ってもいられない様子である。
「わっかんねえんだよなあ。平野さん、美人じゃん」
「良いですか? 世の中には相手にしていい美人と、してはいけない美人がいるんです」
と険しい顔で主張する白鳥の背後から、聞きなれた冷厳な声が響いた。
「ほお、私はどちらだ?」
「後者に決まっているじゃないですか!」
と勢いよく振り返り、白鳥は固まった。そこに傘をさした平野が立っていたからだ。冷淡な笑みを浮かべた彼女は、その眼睛に憤怒を宿しているようだ。
「そうか、悪かったな」
ただ、平野は恬淡な面持ちでそう吐き捨てると、誰の制止にも耳を貸すことなく現場に足を向けた。もちろんのこと、白鳥もその後に続くしかない。彼らは通報者の女の脇を抜け、この狭苦しい部屋の入り口をくぐった。
女の北方訛りのある声が嫌に耳に沁みついた。しきりに中を窺おうとしているが、あまりにも物騒な光景だからと、同心が己の身で隠している。
「あんの、ほんどに、死んでるんですか?」
「ええ、ええ。そりゃもうきっちり、ぱっしりとね。腹を七回も刺されて生きている奴なんざ、いやしませんよ」
同心とそんな会話をしている。全く、これだから女ってのは気楽でいいんだ、と白鳥は悪態をついて、先を行く平野の背中を追った。
「あの、平野さん?」
行燈で照らされた室内を、平野は冷厳な様子で歩き回っている。その表情を怖々と窺った白鳥は、自分の口の軽さに嫌気が差していた。ただでさえ苦手な平野に、弱みを曝け出したのが悔やまれる。
「あの、平野さんってば」
「何だ?」
「怒ってます?」
「……何をだ?」
鋭い視線を向けられて、白鳥の肌は粟立った。そのざらつく肌を冷たい指先で撫でながら、白鳥は我が身を抱いた。
「ほら、怒っているじゃないですか!」
しかし、平野は冷ややかな表情をするばかりで、こうした白鳥の言葉には耳を貸さなかった。彼女は仰向けになった男の死体を見下ろした。
「被害者は北島という名の男だそうです」
仕方なしに白鳥が言うと、今度は平野も答えてくれた。
「下の名前は?」
「それが分かりません。皆から北島、と呼ばれていたそうです。本人はそう名乗っていなかったようですが」
北島の亡骸を見ながら、平野が鼻を鳴らした。続きを話せ、ということらしい。彼女の指先は北島の体を撫でていて、そうした慣れた手つきを見ながら、白鳥はさらに言葉を続けた。
「最初は、名前も名乗らなかったそうで、北方の訛りがあることと、この国が島国であることを引っ掛けてそう呼ばれていたそうです」
「……ふん、それで、こいつの職業は?」
「日雇いと金貸しだそうです。金に困った様子ではなかったそうですが、時々仕事に出て、それ以外は長屋の連中に金を貸して過ごしていたとか」
「貸すほどの金があったのか?」
「はい。畳の下から金銀貨がたんまりと。見ます? 目に悪いですけど」
またしても平野に睨みつけられて、白鳥は口をつぐんだ。どうやらこの女とは相性が悪いらしい。河津ならば何か返してくれるだろうに。仕方なしに白鳥は咳払いをして、視線を平野に戻した。
「近所の連中の話だと、金利の安い金貸しだったそうです。ともかく貸した分さえ返せば、北島は文句を言わなかったようで……」
「はっきりと言え」
「はい。あの、近隣一帯どころか、職場の連中までが、この北島に金を借りているというような有様だそうです」
「それで不都合はあるのか?」
「不都合だらけですよ。北島がいなくなって、生活が立ち行かなくなるような人も出るんですから」
ただ、そうした人々の困窮には耳を貸さず、平野は冷たく言い放った。
「自業自得だ。それよりも、北島は普段どこに働きに出ていた?」
「港です」
というわけで、二人は豆河通りを一里ほど南下した、船着き場へと行くことになった。




