不幸な男⑤
そこで、息をせき切らした河津と、あの老人の医者が飛び込んできた。
彼らは急いで田室に脇に陣取ったが、白鳥はなおも田室に呼びかけ続けた。
その傍らで医者がさっと傷口を観察して、河津に向かって首を振った。彼はがっくりと肩を落とし、なおも喚く男を殴りつけて黙らせた。
その大きな悲鳴で、今際の際にいる田室の意識が明瞭になった。
「田室さん」
白鳥が呼びかけると、彼はいつもの通り穏やかな顔をして、それから袖を失くした白鳥の腕を取った。触れ合った肌の感触が思いのほか冷たかったものだから、白鳥は顔を歪めた。
それはさなの手よりもずっと冷たい。死ぬというのはこういうことなのだ、と彼は初めて気付かされた。
「私の、部屋に、金がある」
「金で命は戻ってきませんよ」
田室は一つ頷いた。
「さなの、治療費に、当ててほしい。この店も、売って、彼女のために……」
白鳥は首を振った。商人が店を失うのは、魂を失うのと同じだ。それは耳学問でしかないが、あの父が言うのだから本当なのだろう。
白鳥は、冷たくなった田室の手を強く握りしめた。
「そこまで出来るなら、何故さなさんを怯えさせたんですか!」
「……許してくれ。私には、分から、なかった。あの男と、同じことは、したく、なかった」
そこで田室はこと切れた。白鳥の腕を掴んでいた手が土間に落ちて、医者が正式に臨終を告げた。
このけたたましい音を聞きつけて集まってきた野次馬の内に、白鳥家の丁稚を見つけると、白鳥はその少年を強い口調で呼びつけた。
「はい、何でしょう坊ちゃん」
血が溜まった部分を避けて丁稚が膝をつく。すると、白鳥は今まで見たことがないような形相で、この少年に命じた。
「父上を呼んできてください。それから店にいる全員をここに。これ以上、田室さんの亡骸を晒しておくわけにはいきませんから」
こういうわけで、夜明け前にはこの喧騒も収まった。
男はすぐさま番所へと連れて行かれ、凄惨な取り調べを受けることになった。何かを言う前から両手を吊るし上げられて、河津の折檻を受ける。無防備にさらけ出された腹部に、樫の棒が叩きこまれた。
この悪相の男は、血と夕飯を吐きながら告白した。自分はさなの前夫である、と。そしてさなは、今でも自分の物である、と。
彼はさなに対する暴力の咎で服役していたのだが、その勤めを終えて三か月ほど前に市中へと戻ってきたのだという。
そこでさなが再婚していることを知り、彼は激しく憤った。それで、田室が寝取ったのだと噂を流し、彼を脅し始めたのである。
店を構える商人にとって、こういう悪評は御法度だ。
他人の女を奪ったなどと――例えその前夫が暴力的で、束縛癖があって、さなの病弱な体をさらに死の方向へと蹴りだした張本人だとしても――噂が立てば、たちまち店は立ち行かなくなる。沢山の店が並んでいるということは、代替することも可能なのだ。
激しい苦悩の中にいた田室は考え得る限りの最悪を取った。
男として店も守りたいし、夫としてさなも守りたい。どちらを取るべきか思い悩んで、そして消極的になった。
前夫に金を渡したのだ。
これで来ないでくれと頼んで、来なくなればそいつは悪党ではない。何度も来て仕舞いには強請りだすから悪党なのである。
そうして要求が強くなるたび、そして前夫が何度も足を運ぶたび、さなの不信感は強まった。二人が共謀して、自分を殺そうとしていると勘違いを起こしたのである。
それが爆発したのが、あの一瞬だ。
他方、さなが番所に駆け込んだという事実に、裏切られたと勘違いしたのが前夫であった。
そして凶行は起こった。
「ちゃんと口にしていれば良かったんですよ」
看板を外された田室の店を見て、白鳥は肩を落とした。その隣に立つ河津は、もっと後悔を滲ませた表情を浮かべていた。かつては店の正面だった場所に板が打ちつけられて、〝売却予定地〟という札が掛けられている。
「自分と相手と、違う種類の感情を持っていたって、分かっていたらな」
河津は強く目を瞑った。傷心の今、雲一つない蒼穹が目に痛いのだろう。
結局、さなは療養のために市中を離れることになった。田室が残した資産は、白鳥屋が責任を持って預かるということになった。
これをしたためた証文に、市中を代表する豪商がこぞって連判したというのだから、今後一切、彼女が金に困ることはないだろう。
「さなさん、田室さんの気持ち、分かってくれたのかなあ……」
白鳥も目を瞑った。もっとやりようがあったんじゃないか、と全て行動し終わったあとに臍を噛みたくなるのである。
ただ、いつまでもそうしているわけにはいかない。後ろから聞こえてきた咳払いに、二人は振り返った。
この悄然とした男達の後ろでは、いつもと同じく冷厳な顔をした平野が、呆れた様子で仁王立ちしているのであった。
「仕事だ。いつまでも遊んでいるなよ」
彼女は恐ろしい炯眼で二人を射抜くと、さっさと踵を返してしまった。
「あの人に感情はなんですか……」
「あるにはあるが、俺は見たことがねえな」
というわけで、二人は今日も仕事に励むのであった。