第1話 淀んだ魔力の落ちこぼれと、優しき親友の嘘
王都魔導学院の朝は、鐘の音ではじまる。
白亜の尖塔を伝って響くそれは、神聖な学び舎にふさわしく澄みきっているのに、フィオラの胸にはいつも鉛のように沈んだ。今日もまた、魔力測定の時間があるからだ。
「次、フィオラ・エーヴェルス」
教壇に立つ教官の声に、教室の空気がわずかに揺れた。期待ではない。嘲笑を飲み込む前ぶれだと、もう知っている。
フィオラは席を立ち、測定用の水晶球の前に進んだ。白魔法、とりわけ浄化に適性を持つ者に反応するよう細工された球体は、優秀な生徒が触れれば朝日を抱いた泉のように輝く。だが、彼女の指先がそっと触れた瞬間、球の内側に灯ったのは、濁った乳白色のかすかな揺らぎだけだった。
教室の後ろで、誰かが吹き出した。
「また最下位じゃない?」
「浄化の名門の令嬢なのにね」
「庭の雑草でも撫でてるほうがお似合いだわ」
くすくす、という笑いが幾重にも重なる。
フィオラは目を伏せた。慣れているはずなのに、耳の奥が熱くなる。首もとにかかった銀の首飾りが、今日はいつもより重く感じられた。蔦模様の繊細な細工がほどこされた、教会から授かった「浄化の守護」。幼いころから肌身離さず着けてきたそれに、指先で触れる。
――大丈夫。あなたは少し魔力の流れが弱いだけ。
いつかヴィヴィエンヌがそう言って、微笑んでくれたことを思い出す。あの優しい声がなければ、フィオラはとっくに学院を去っていただろう。
「静粛に」
教官が杖で床を打った。ざわめきは一応収まったが、視線の刺は消えない。
「フィオラ嬢、席へ」
「……はい」
小さく返事をして振り向いた、そのときだった。
「先生」
鈴を転がすような、よく通る声が上がる。
窓辺の席から立ち上がったのは、ヴィヴィエンヌ・ルミエールだった。蜂蜜色の巻き髪が肩の上で揺れ、陽光をはね返す。どこにいても人目を引く華やかさと、触れれば壊れそうな儚さを併せ持つ少女。次期聖女候補と名高い、学院の誇り。
「魔力は体調にも左右されますわ。フィオラは昨夜、寮の裏庭で怪我をした小鳥の手当てをしていたんです。少し疲れているだけですの」
彼女はそう言って、やわらかくフィオラへ微笑みかけた。
たちまち教室の空気が変わる。さっきまで嘲っていた者たちさえ、表立っては何も言えなくなる。ヴィヴィエンヌの言葉には、それだけの力があった。
フィオラは息をのんだ。胸の奥に、冷えた手を包み込まれるようなぬくもりが広がる。
「ヴィヴィ……」
「座りましょう、フィオラ」
休み時間になるなり、ヴィヴィエンヌは当然のように彼女の手を取って教室を出た。廊下の陽だまりで立ち止まり、心配そうに眉を寄せる。
「また無理をしてしまったのね。あなたは本当に優しすぎるわ」
「そんなこと……ただ、小鳥が苦しそうだったから」
「そういうところが好き。でもね、フィオラ」
ヴィヴィエンヌはそっと首飾りに触れた。冷たい銀が彼女の白い指に映える。
「あなたの魔力は繊細なの。無理をしたら、余計に淀んでしまうわ。浄化の守護があるから大事にはならないけれど、私が見ていないところで頑張りすぎちゃだめ」
その声音はどこまでも甘く、やさしい。叱責ではなく、慈しみだった。
フィオラはうつむいて頷いた。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ。私がいるでしょう?」
そう言って微笑むヴィヴィエンヌは、まるで本物の聖女のようだった。
フィオラは昔から、この笑顔に救われてきた。
家では期待外れの娘として扱われ、学院では落ちこぼれとして笑われる。けれどヴィヴィエンヌだけは、いつも傍にいてくれた。誰よりも優秀で、美しくて、皆に愛されているのに、なぜか自分のような者を見捨てないでいてくれる。
だから思うのだ。きっと自分は、一人では何もできないのだと。
白魔法の講義を終えたあと、フィオラは寮へ戻る前に中庭へ立ち寄った。石畳の隅、誰も気に留めない花壇のそばにしゃがみ込み、ぐったりとうなだれた葉を両手で包む。
「元気になって」
囁きながら魔力を流そうとしても、指先からこぼれる光はあまりに弱い。かすかな白が葉脈をなぞっただけで、すぐ霧のように消えてしまう。
やっぱり、だめだ。
胸がきゅっと縮む。植物や小さな生き物の痛みがわかる気がするのに、救う力が自分にはない。
「あなた、本当に花が好きなのね」
声に振り向くと、ヴィヴィエンヌが立っていた。授業終わりだというのに少しも乱れのない姿で、手には購買の包みを提げている。
「これ、食べ損ねたお菓子。夕食までにお腹が空くでしょう?」
「私に?」
「もちろん」
包みを差し出されて、フィオラは目を丸くした。甘い香りがする。最近人気の蜂蜜菓子だ。
「でも、ヴィヴィが好きなお店の……」
「私はまた買えるもの。あなたはすぐ遠慮するんだから」
くすりと笑い、ヴィヴィエンヌはフィオラの隣にしゃがんだ。そして萎れた葉に視線を落とし、いかにも気の毒そうにため息をつく。
「そんなに心を砕いても、あなたの魔力では難しいわ。無茶をすると傷つくのはあなたよ」
優しい言葉だった。けれど、その一つひとつが、フィオラの胸に静かに沈んでいく。
あなたでは難しい。
あなたは傷つきやすい。
あなたにはできない。
責められているわけではないのに、いつのまにかそれは、抗えない真実のようになっていく。
「……うん」
「大丈夫。困ったら私が浄化するわ。あなたはそのままでいいの」
そのままでいい。
救いのはずの言葉に、なぜだか少しだけ息が詰まった。けれど、その理由をフィオラはうまく掴めなかった。
夕暮れが近づくころ、学院中が妙な熱気に包まれはじめた。廊下のあちこちで生徒たちがひそひそ声を交わし、教室からは興奮した叫びが漏れ聞こえる。
「聞いた?」
「王宮から正式に打診があったらしいわ」
「まさか本当に?」
寮へ向かう途中、フィオラは足を止めた。扉の向こうから聞こえてきたのは、ぞくりとする単語だった。
「呪われ公爵が、花嫁を探しているんですって」
ざわっと空気が粟立つ。
呪われ公爵、ヴォルフラム・グランツェル。
王国屈指の武功を立てながら、北方の戦場で恐ろしい呪いを受けた男。顔の半分が爛れ、黒い瘴気を纏い、人ならざる貌となった。彼が通っただけで草木は枯れ、近づく者は不幸になる――そんな噂を、フィオラでさえ聞いたことがある。
「学院の令嬢の中から選ぶとか」
「いやだ、そんなの生贄じゃない」
「聖女候補なら呪いを和らげられるかもしれないものね」
ひそひそ、ひそひそ。
恐怖と好奇心が入り混じった声が渦を巻く。
そのとき、後ろからそっと肩を抱かれた。
「フィオラ」
ヴィヴィエンヌだった。彼女はひどく案じるような顔をして、フィオラを人だかりから離れさせる。
「こんな話、聞かなくていいわ」
「でも……本当なの?」
「さあ。けれど、ろくでもない話なのは確かよ」
ヴィヴィエンヌは声をひそめた。秘密を分け合うような近さで、耳元に囁く。
「顔が爛れて、瘴気を撒き散らす化け物ですって。そんな相手に嫁ぐなんて、ご愁傷様としか言えないわ」
化け物。
その一言に、フィオラは小さく身を震わせた。怖い、と思うより先に、胸のどこかがちくりと痛んだ。
どうしてだろう。見たこともない相手なのに。
「あなたは心配しなくていいのよ」
ヴィヴィエンヌはすぐに、いつもの優しい笑みに戻った。
「王宮だって、誰を差し出せばいいか考えるでしょうし……少なくとも、あなたみたいにか弱い子をそんなところへやるはずないわ。私がいるもの。ちゃんと守ってあげる」
守ってあげる。
フィオラはその言葉に縋るように頷いた。そうだ。自分にはヴィヴィエンヌがいる。彼女がいれば、きっと大丈夫。
なのに、寮へ戻る石畳の上で、何度も何度も「化け物」という声だけが耳の奥に残った。
西の空は、赤く燃えるようだった。学院の白壁が夕焼けを受けて薄紅に染まる中、フィオラは無意識に首飾りを握りしめる。銀は冷たく、指先の熱を奪っていく。
その夜、寝台に入ってもなかなか眠れなかった。
万年最下位の落ちこぼれ。
無能で、か弱くて、誰かに守られなければ生きていけない自分。
そして、顔の半分を呪いに奪われたという、公爵。
窓の外で風が鳴る。
まるで遠くの誰かが、ひどく静かに泣いているような音だった。
第2話 裏庭の怪物と、落とされたハンカチ
に続きます。




