晶腫3
情けない騒動の挙句処刑されるかに思われたジャレッドだが、命運は尽きていなかった。あくる朝、兵士がやってきて、牢の端で頭を抱えてガタガタ震えながら世界に存在するあらゆる高層建築物を呪っていたジャレッドに釈放を告げた。寝耳に水である。
「処刑はなしって事ですか」
「知らん。きりきり歩け」
再び姫の寝室に連れて来られた。シララ姫は天蓋付きのベッドで半身を起こし、儚げに微笑んでいる。ジャレッドは強烈な既視感に襲われた。それはまるで完成された一枚の絵画だった。シララ姫は、座る位置も、髪の跳ね具合も、手の置き方も奇妙なほど最初に会った時と一致していた。
シララ姫は入室したジャレッドを見て僅かに身を乗り出し口を開こうとしたが、父に握った手を軽く引かれると、刹那の間強張った表情を浮かべ、すぐに元通り完璧な絵画の一部に戻った。
垣間見えた王家の闇をジャレッドは努めて無視しようと試みた。シララ姫が民の理想の姫である事を強いられていたとしても、それがどうしたというのか。ジャレッドは命がかかっているのだ。余計な事に首を突っ込めばその場で処刑されてもおかしくない。
眼を逸らしたジャレッドは壁際に並ぶ兵士の中にヒゲ面を見つけた。二人は同時にまたお前か、という顔をして、同時に舌打ちをした。
典医はあからさまに納得していない様子でジャレッドを睨んだ。
「姫様は手術を貴様に任せろと仰せだ。姫様たっての願い故牢より出したが、儂は納得しておらん。施術中は横で監視させてもらう」
「好きにすればよろしい。王よ、報酬に霊薬をお忘れなく」
「うむ」
念を押すと、王は厳粛に頷いた。
手術の準備が始まった。ジャレッドはまず没収されていた手荷物を受け取り、中から手術道具を取り出し机に並べた。
非実体のみを切る薄く研ぎ澄まされた小剣、霊精刀。
死んだ名剣の鋼を集め、雷の中でも快晴の日に落ちたもののみで鍛えた一級品。
これを十本。
患部の癒着を防ぎ固定する楔、呪楔。
山嵐の棘に満月の月影を丹念に染み込ませてあり、ムラの無い黒色から日頃の手入れが伺える。
これを二十本。
手元を写す照魔鏡。
北方は幻山に工房を構える名匠ミラールの最新作で、実体を映さず非実体のみを捉える。
これを一枚。
典医は照魔鏡を見るや魔神の首を取ったように騒ぎ立てた。
「照魔鏡などどうするのだ。妙な小細工をしようとするな、姫を殺す気か?」
「患部を映すのに使うだけだ。正面から見えない角度を首も立ち位置も変えずに見れる。便利だろう」
「なんだそれは? 聞いた事もない。鏡合わせに映る鏡面を見て施術するのか? 左右を取り違えたらどうする。素人の浅知恵だ、止めろ」
「そうは言うがね、典医殿。私はもうこの方式に慣れたんだ。止めれば効率が落ちる」
「いや、そのような奇を衒った手術法など断じて……」
典医はなおも言い募ろうとしたが、シララ姫に袖を引かれ憎らしげに睨むだけに留まった。
準備は終わった。念入りに病魔の侵入を防ぐ結界が張られ、ベッドに横たわるシララ姫に眠りの魔法がかけられる。
ジャレッドの脳裏にシララ姫と全く同じ病を抱えた謎の仮面美少女サララの姿が過るが、気を散らしている場合ではない、と振り払う。失敗すれば処刑は間違いないのだ。
そして、手術が始まった。
ジャレッドの腕から、影がはがれるようにして半透明の骨の腕、影骨が現れる。ジャレッドの影骨は透けている事を除きまるで本物の骨のようで、輪郭がはっきりしていた。
実物の腕と変わらないなめらかな動きで霊精刀を手に取った影骨を見て、典医は不覚にも感心した。素晴らしい精度であった。
霊精刀と、それを握る影骨の手が肉体をすり抜け腹部に差し込まれる。胃と重なる位置に存在する石溶、そしてそれに食い込んで成長した握り拳ほどもある晶腫がはっきりと照魔鏡に映し出されている。まるで美しい宝石に臓物が張り付いたようにも視えた。ジャレッドは霊精刀を淀みなく動かし、石溶に癒着した晶腫を少しずつ切り離していく。
霊精刀の素早く迷いの無い動きに反し、切除は遅々として進まない。晶腫が深々と石溶に食い込み圧迫しているせいで、慎重に、薄皮一枚ずつ切り離さなけらばならなかった。
一時間が経過した。ようやく十分の一が終わったところだった。ここまで失着は全くなく、典医から見て完全無欠どころかそれを超えた施術だった。典医は隙あらば難癖をつけようと、施術に集中しているジャレッドの周りをうろうろしていたが、王が自分を見る白けた目に気づいてやめた。恥をかいた典医の逆恨みの赤ら顔はジャレッドの視界にすら入らなかった。
ジャレッドの霊精刀捌きは一時間の間に慣れはじめ、疲労で鈍るどころか少しずつ早くなっていた。ジャレッドの手術の腕前は天才的であり、同時に弛まぬ努力に裏打ちされていた。
五時間が経過した。石溶と一体化しているようにすら見えていた晶腫はおおよそ切り離され、しかし奥まった厄介な部分が未だ癒着している。
ここで始めて霊精刀の動きが鈍る。シララ姫は医術の心得があるのか、眠っていても無意識に施術部を回復させており、それが裏目に出ていた。
切り離したはずの晶腫が少し目を離すと再び石溶と癒着しそうになるのだ。ジャレッドは呪楔で石溶と晶腫を離した状態で固定し、照魔鏡の角度を直し、最も難しい部位の切除に取り掛かった。
次の瞬間、ジャレッドはほんの少し、通常の手術ならばミスともいえないほど僅かに石溶に霊精刀の刃を食い込ませてしまった。晶腫に圧迫され限界まで張りつめていた石溶の表面に亀裂が入る。
ジャレッドの息と心臓が止まりかける。しかし、手は対処を覚えていた。素早く呪楔を二本取り亀裂に迅速にしかし優しく添えて挟み込み、魔力を多すぎず少なすぎず精密に調整して塗り込むように注ぐ。広がりかけた亀裂は止まり、魔力に回復を促進されじわじわと塞がっていった。
亀裂が完全に塞がってからたっぷり数分待ち、呪楔をそっと離すが、亀裂は現れなかった。ジャレッドは震えるため息を吐いた。何千回という手術歴の中で施術中に石溶を破裂させかかったのは三度目で、破裂を防ぐ事ができたのは初めてだった。
ジャレッドは冷や汗を拭い、手の震えが収まるのを待ってから切除を再開した。呪楔を置いて肩を揉み解し霊精刀を取る。椅子に座って居眠りしていた典医がびくりと痙攣した。
そして九時間が経過し、ジャレッドは疲労から来る腕の震えを抑え込みつつ晶腫の最後の一片を切除した。
ジャレッドは晶腫の塊を袋に入れ、精魂尽き果て椅子に座り込み、見守っていた王と典医に手術の終わりと成功を告げた。手術前に登り始めていた太陽は既に沈んでいた。
王は感嘆し、ジャレッドの手を強く握り頭を下げた。
「礼を言う。其方のお陰で国の宝は守られた」
「光栄です。報酬の件、お忘れなきよう」
王の御前であり虚勢を張るジャレッドの体力は限界が近かった。こうまで根気の要る手術は久しぶりで、すぐにでもベッドに倒れこんで眠りたかった。
ジャレッドが一言断って王の御前を辞そうとした時、寝室の外がにわかに騒がしくなり、扉が開いて一人の少女が倒れこむように入ってきた。
謎の仮面美少女は苦し気に胸を押さえながらよろめき、目を白黒させるジャレッドに縋り付いた。
「助けて、ジャレッド」
最後の力を振り絞った一言と同時に謎の仮面美少女は気を失い、崩れ落ちた。衝撃で仮面が外れ顕になった顔は、シララ姫と全く同じだった。
典医が苦々しげにサララ姫、と呟いた。ジャレッドは純粋な驚きと共に納得した。双子である。驚くべき事だが、シララとサララは他人の空似ではなかったのだ。この国に姫が二人いるという話は聞いた事が無かったが。
ジャレッドはサララを抱き上げようとして、典医に手で止められた。こんなところでまで邪魔をするのかと睨むと、典医が王の顔色を伺っている事に気付いた。
ジャレッドが依頼されたのはシララ姫の治療である。謎の仮面美少女サララ姫への無許可治療は領分を越えるという事だろうか。王族にはそういう面倒な手順が多い。
そう思い王から改めてサララへの施術も頼まれるものかと考え身構えるが、王は窓の外の夜闇を見つめたまま沈黙を保った。倒れたサララの息は荒く、不規則になりつつある。ジャレッドは焦れた。
「王よ、なぜサララを、サララ姫を助けよと仰られないのか」
王は立ち上がり、窓の外の夜景を見たまま言った。
「予言だからだ」
「なに?」
予想外の言葉にジャレットは戸惑った。王は語った。
「サララは産まれてより三日後、神殿より神託を受け、余ではなく神の娘と認められた。王家に産まれし双子の王女、下の娘は死した後守護神となりて国を導くであろう。死が娘を捉えるその時まで、信仰厚き女のみに世話をさせるべし。みだりに顔を晒してはならぬ、いずれ真なる神へ至る尊顔であるから。死を拒んではならぬ、死は昇神への階であるから」
王は厳かに諳んじた。
「分かるかね、医師ジャレッド。シララは死を超えた神聖なる姫君として王国を遍く照らし、サララは死して神となり王国に繁栄をもたらすのだ。これは名誉であり、栄光なのだ。手出し無用。サララに仮面を被せ、離れよ。君もサララの門出を祝福してくれたまえ」
ジャレッドは臆面もなく言い放った王に愕然とした。
王は父である前に王であった。
王はサララが入ってきた時も、倒れた時も、助けを求めた時も、そして今も、一度として目を向ける事すらしなかった。
王はシララの施術前も、施術中も、施術後も、一度として労りの言葉をかけなかった。
ジャレッドは心底王を軽蔑した。これが王だというならば、そのあたりの物乞いはそれこそ神になれる。
「王よ、僭越ながら申し上げる。貴方は頭の病気だ」
「なに」
顔色を変えた王にジャレッドは臆することなく言った。
「予言など実在しない。仮に死んで守護神になったとしても、自分を見殺しにした国を守るはずがない。王はそんな事も分からない愚か者だ。何より実の子の死を祝う者はまともな王ではない。
王は、病気だ。残念ながら私はその腐った頭を治す方法を知らない。いやまったく、力及ばず申し訳ない」
あまりの慇懃無礼に王は気色ばみ手を上げて兵士に合図しようとしたが、ジャレッドが早かった。手術台の上に置いたままだった呪楔を掴み、ありったけの魔力を流し込み強化して、立て続けに壁に控える兵士、典医、王の鳩尾に投げ込んだ。彼らは目を見開いたまま彫像となった。
「さて、手術続行だ。患者さん手術台へどうぞ、っと」
ジャレッドは意識の無いサララを優しく抱き上げ、シララの隣に寝かせた。それだけの動作で目眩がし、倒れそうになる。体力も魔力も限界が近い。
だが、ジャレッドは影骨を出し、再び霊精刀を手に取った。深呼吸をする。休んでいる時間は無い。サララの病巣がシララのそれと完全に一致している事だけが幸いだった。
霊精刀が閃き、時間との戦いが始まった。
霊精刀は見えない何かに操られているかのように常軌を逸した速さで動いた。暴れているようであり、踊っているようでもあった。
魔力の低下は体調不良を引き起こす。致死的な持病を抱えているジャレッドは特に深刻だ。ジャレッドは二度意識を失い、三度吐血し、四度霊精刀を取り落とした。それでも歯を食いしばって立ち上がり、手術を続けた。燃えるような熱意と、断固としてサララを救う決意があった。
永遠のように思える三時間の後、ジャレッドは最後の力を振り絞って晶腫を切り離し投げ捨てた。石溶から切り離され実体化した晶腫が袋の中に落ちシララの晶腫とぶつかる音で、失神していたサララは目を覚ました。
ジャレッドを見て驚き、軽くなった体に安堵し、凍りついたように動かない寝室の人々を見て顔を青ざめさせた。典医と兵士達はしきりに瞬きし、拘束が解けかかっていた。
サララは成り行きを理解し、まず感謝の念が湧きあがったが、同じぐらいの疑念もあった。突然体を駆け抜けた地獄の苦しみに錯乱し、一縷の望みをかけて助けを求めたのは確かだが、応えてくれるとは思っていなかった。
何しろ、ジャレッドは一度報酬が払えないからとサララの求めを断っている。脱走させるのは失敗したし、サララがお願いしたとはいえ実際に王に働きかけてジャレッドを仮釈放させたのはシララだ。
治療への対価に値する報酬は払っていない。払うアテもない。鈍いジャレッドでもそれは分かっているはず。
「なんでここまでして私を助けてくれたんだ?」
「……俺がそうして欲しかったからだ」
ジャレッドの呟きには計り知れない何かがこもっていた。
サララは何も言えなくなった。この天才医師の過去を想った。次に自分の過去を想い、そして生まれて初めて、目の前に唐突に拓けた未来を想った。病巣と共に忌まわしい祝福(呪い)の予言も切り捨てられ消えたように感じた。死は運命ではなかった。助けを求めれば応えてくれる人がいた。
ジャレッドがよろよろと立ち上がるのを、サララは自然と支えていた。兵士の指が痙攣し始めている。あまり時間はない。
「王への侮辱、王令無視、王と典医と兵士への攻撃と来たもんだ。三回処刑されておつりが来るな」
「どうする?」
「逃げる。ついてくるか?」
「もちろん。報酬もまだ払ってないし」
「よし」
ジャレッドは手術道具を袋に投げ込んで寝室から逃げようとして、何を思ったか途中で止まり中に戻った。行きがけの駄賃で王の宝冠から宝石をむしり取っていたサララが何事かと見守る中で、ジャレッドはヒゲの兵士の前に立ち、ニヤニヤ笑った。
「よくも剣で首をつついたり縄で締め付けたりしてくれたな。死ぬかと思ったんだ、相応の報復は覚悟していただろうなぁ?」
蒼白になり必死に体を動かそうとするヒゲの兵士に邪悪に歪んだ笑みを浮かべ、ジャレッドは花瓶を掴んで中の水を頭にぶちまけ、花を鼻にねじ込んだ。満足気に嘲笑った後、サララを振り返る。
「……これ、やり過ぎか?」
本気で心配しているらしいジャレッドに、サララは笑った。久しぶりに心から笑った気がした。
サララは楽しくなってきて、宝石がいくつも欠けた宝冠を王からはっきり見えるように窓から投げ捨てた。そして寝室のクローゼットからシララのパンツを出して宝冠代わりに被せる。
王が血管が千切れそうなほど顔を赤くするのを見て、サララは下品な笑い声を上げた。嫌な思い出がドス黒く染みついた王城だが、どうやら笑って出発できそうだった。
「サララ?」
ジャレッドと手を打ち合わせ寝室を出る直前、サララは自分と同じ声で名前を呼ばれた。ギリギリになってシララが睡眠魔法から覚めたらしい。
サララは振り返らずに言った。
「姉様、行ってきます」
一拍置いて、シララ姫は心から答えた。
「行ってらっしゃい。どうか、元気で」
二人が逃げるように寝室を出た直後、何かに気づいたシララの可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「パンツはやり過ぎだと思うぞ」
「私も姉様が起きた瞬間やっちゃったなと思った」
城内ですれ違う兵士や貴族は疾走する二人を見て驚いたが、サララが微笑みかけてウインクすると呆気に取られて見送った。
城門を出るとなると流石に門兵が立ちふさがったが、サララが上目遣いに、
「お願いします。どうか私のわがままを聞いては下さいませんか」
とまるで姫のように頼むと照れながらあっさり道を開けた。
「しかし姫、せめて御身をお守りする兵はお付けください」
「いいえ。民が私から身を守る必要が無いのと同じように、私も民から身を守る必要などありません。同じ王国に生きる者なのですから」
門兵は感服して二人を見送った。サララはこっそり舌を出した。
サララは道行く馬車を止め、大粒の宝石でそれを買い取った。サララは逃げも隠れもしなかった。ジャレッドに御者を任せ、夜の酒場から出てきた酔っ払いや、窓から鍋を片手に顔を出した主婦ににこやかに手を振りながら、堂々と王都を出て行った。
誰もが大病を噂されていた姫の元気な姿に喜び、誰一人として彼女がこの国の麗しき姫である事を疑わなかった。
王都から伸びる街道を行く馬車の上から、二人は後ろを振り返った。城壁越しに見える王城は随分小さくなっていた。いつになく煌々と明かりが灯っているのは誰を探しているからなのか。ジャレッドの体が傾ぎ、落馬しかける。ジャレッドは目をこすりながら手綱をサララへ押し付けた。
「眠い。任せる」
「手綱なんて取った事ないぞ」
「前に進ませりゃいい。慣れとけ。これから必要になる」
気の抜けた声で目をこするジャレットから手綱を受け取りサララは恐々御者を代わった。
馬車に積まれていた毛皮を被って丸くなりながら、ジャレッドは寝ぼけた声で聞いた。
「連れ出しといてなんだが」
「んー?」
「本当に良かったのか? 病は治ったんだし、別に俺に付いてこなきゃならん訳でもなかったんだ。残ろうと思えば、まあ、なんとかなったんじゃないか」
「いや、これで良いんだ」
サララは屈託の無い笑みを浮かべた。
「あそこに居たらまた病気になっちまうからな」