戦争症候群1
まだ神々と人が同じ言葉を話していた頃。四海で最も巨きな大陸に、一人の少女と、一人の男と、一柱の神と、一匹の獣がいた。
少女の名はサララ・ナルガザン・エルフィリア。長い金の癖っ毛を三つ編みにまとめた、医者助手の元姫君である。
男の名はジャレッド。乞食のようなみすぼらしい体躯に萎びた海藻のような黒髪の医者である。
そしてジャレッドと同じ黒マントに手袋をした、長身に冷たい美貌の女神が死神モルスロム。
その足元に尻尾を振って侍る、漆黒の長い毛皮の四足獣が死神の眷属バクルクだ。
しばらくキオ国内を旅していた一行は、一年ぶりに懐かしきレイヴァルへ戻ってきていた。
エルフィリア王国全権大使コイッカスは和平条約を締結し帰国した直後、何者かにより首を折られ死亡。エルフィリアはこれをキオの陰謀として糾弾。無理のある陰謀論に揉めたが、結局三か月前にエルフィリア王国とキオ共和国は戦端を開き、一か月前にエルフィリアの猛攻を前にレイヴァルが陥落した。現在レイヴァルは暫定エルフィリア領となっている。
太っちょの人々の姿はなく、代わりに物々しい鎧を着込んだ細身の兵士が杖や槍を手に闊歩していた。
エルフィリア軍はレイヴァルを取り返そうと反攻を繰り返すキオ軍に手を焼き、戦線は膠着。毎日のように矢と魔法が飛び交い剣と鎧が火花を散らして大地に血をしみ込ませている。
故に、医者の仕事も多かった。エルフィリアでは兵士の他に負傷者の治療にあたる医者を広く募集。国外の医者にも好待遇を約束した。ジャレッドとサララはそれに紛れ込む形で治療を行っていた。ジャレッドの興味をそそる特異な病はなく、貴重な霊薬も手に入らない仕事だが、まとまった生活費を手に入れるため財布係サララの主張で求職に応じた。
二人は未だエルフィリア王国に指名手配されているのだが、ジャレッドは一年の間に死神病の治療を更に進め、常時死にかけから体調不良程度にまで回復している。肉もつき見違えるほど健康的になっていた。人相まで本人ではなく兄弟だと言い張れば納得されるほどに変わっているので、名前と服装に気を付ければ早々見つかる事はない。
十六歳になった成長期のサララはよく食べよく働きよく学び、白い肌は健康的に日に焼けて、笑顔が眩しい見目麗しい乙女になっていた。身長も胸囲も著しい成長を見せている。手配書の人相書きは姉であるシララに瓜二つの儚げな顔のままであり、看病した兵士を片っ端から惚れさせている太陽のように明るい今のサララとは全く印象が違う。
近頃はエルフィリアの姫君ではないかと疑われる事すらなく、また疑われても通報されないだけの人望があった。
そしてこれ以上ないほど悪目立ちするバクルクはその特徴的な漆黒の長い毛を刈り上げられ脱色されてちょっと変わった犬に化け。死神はいつもの如く鎌になりジャレッドの腰の定位置にぶら下がっている。エルフィリアの王都に直接乗り込みでもしない限りまず見つかりはしないだろう。
霊気瓶と霊精刀が描かれた旗が掲げられた天幕で、この日もジャレッドとサララは次々と運び込まれる患者を治していた。二人とも黒い清潔なローブを着ている。
ベッドに横たわりうなされている魔力欠乏状態の患者に液針器で奇石酒を適量注射し魔力を即時回復させながら、サララは千切れた手を縫合中のジャレッドの背中に声をかけた。
「用意した奇石酒だけど、あと三回でなくなるぜ」
「追加要請はしたんだろ」
「したけどまだ届いてない」
「あー、足りなくなったら粉奇石食わせとけ。分量は分かるな? よし、縫合終わりだ。接合部を回復させる、かなりの痛みと痒みがあるが動くなよ」
ジャレッドは兵士に布を噛ませ、接合部に魔力を集中させ回復させる。兵士は脂汗を垂らし暴れそうになったが、サララが背後に回り顔を寄せ、抱きしめる形で抑え込むと、痙攣を繰り返しはするものの大人しくなった。恐怖や怒り、痛みで暴れる患者を抑えるのはいつもサララの役目だった。
サララが全身で抑え込むと大抵の患者は魔法がなくとも大人しくなる。不思議な事に女性兵より男性兵の方がサララの抑え込みによる鎮静効果は高く、薄着で胸のあたりを密着させるのが一番効果があった。
ジャレッドは人肌の体温が安心させるのだろうと分析していたが、サララは何か違う気がした。何かは分からないが。
「お、おお……! 動く、動くぞ! 俺の手が動く!」
「そりゃ、繋いだんだから動くさ。違和感はないか?」
「ああ、ぶった切られてたなんて嘘みてぇだ! 先生ッ! あんたすげーよ! ありがとう!」
兵士は繋がった手でジャレッドの手を握りしめ、涙ながらに礼を言った。ジャレッドは満更ではなかったが、後がつかえているため言葉少なにさっさと出ていかせた。
狭い医療天幕のベッドは手足の切断のように簡単には治らない患者で一杯だった。高熱で寝込んでいる者、咳が止まらない者、激しい頭痛と寒気を訴える者。他にも喉の痛みや吐き気・腹痛など、奇怪で特異な症状を訴える患者で溢れかえっている。
これらの症状はひとまとめに『戦争症候群』と呼ばれる病である。
魔力には病への抵抗力・自己治癒能力を大きく上げる効果がある。従って、継続的な魔力欠乏による長期の抵抗力低下は肉体に数々の不可解な不具合を引き起こす。全身の体温上昇、めまい、倦怠感。嘔吐に腹痛、頭痛、寒気など、普通では考えられないまるで呪いのような症状だ。
奇妙な事に、これらの諸症状は通常の病と異なり魔力器官に影響を及ぼさない。肺や喉、胃、関節部など、魔力と何ら関係の無い身体器官が異常を起こす。霊薬治療も受け付けない。
このような悪神的異常の総称が戦争症候群である。戦争中の兵士は攻守偵察などに絶え間なく魔法を使い続けるため、慢性的魔力欠乏状態に陥る。故にこの病に罹りやすく、病名にもなっている。
戦争症候群は魔力を回復させ二、三日も安静にすれば快癒する。ジャレッド考案の液針器で直接魔力を注入・回復させてやれば半日だ。しかし治ったそばから戦場に駆り出され、また魔力欠乏に陥り再発するので、終わらない堂々巡りを繰り返している。
そこでジャレッドは戦争症候群に対して魔力に頼らない治療法を模索していた。
戦争症候群は魔力を回復させれば治るが、回復したそばから無くなってしまう。ならば魔力に頼らず治せばいい、という考えである。
不幸にも幸いにしては戦争症候群を発症した患者は山のようにいたため、治験者には困らなかった。ジャレッドは二か月かけて怪しげな方法を何十通りも試し、ある種の草や木の実には戦争症候群への抵抗・回復力を高める効果があるらしい事を発見した。体を温めたり、清潔に保ったりするのも効果があるようだった。
しかし『魔力も魔法も使わない治療』など全く胡散臭いの一言である。詐欺じみている。実際にそういった類の患者の無知に付け込んだ詐欺も多い。
怪しげな新治療法の実験台にされる兵士達は当初ジャレッドの診療を拒否し、他の医者からも煙たがられ、一時は医療現場から叩き出されかけたが、サララの必死の取り成しで事なきを得ていた。サララがいなければ死神が姿を現してジャレッドを擁護し、大惨事になっていただろう。戦場に現れる死神が負傷した兵士にとってどういう意味を持つかは明白である。
結局、ジャレッドは実力でもって根も葉もある嫌悪を払拭した。ジャレッドの医療知識は豊富で、手術の腕も素晴らしかったし、他の医者が匙を投げた致命傷の患者も何度も治して見せた。そうして信頼を積み上げたジャレッドの提案する新治療法は徐々に受け入れられていき、現在では戦争症候群による入院者数はじわじわと減少に転じ始めている。
「先生、犬が来たぜ」
「おお、早かったな」
入口近くで治療の順番待ちをしていた兵士が、現れた脱色済みバクルクを見つけて言った。
エルフィリアは気前よく医者に報酬を払っているが、痒い所に手が届くというほどではなく、戦場で活躍した勇士ならばいざ知らず、一介の雇われ医師の活躍に報いるほど下々の事情に気をかけてはいない。
不足した医療物資の申請から受領までは正式な手順に則り行うと時間がかかりすぎ、ジャレッドは個人のツテで自腹を切り補給を行っていた。
その一環として行っているのが、バクルクによる輸送である。荷物の袋を背に乗せて医療天幕の入り口に現れたバクルクをジャレッドが撫でまわすと、バクルクは致命傷を受けた兵士の苦悶の声にしか聞こえない唸り声を上げて喜んだ。
バクルクは賢く、俊敏で、強い。買い物メモを持たせればお使いに行くぐらいはできる。大型犬程度の体格しかないので大量の荷物は運べないが、戦線を突破して輸送もできる。ジャレッドの講釈を聞く事で、輸送の道すがらいくらかの薬草を採取する事も覚えていた。
草や木の実を治療に役立てる突拍子もない事をしているのは今のところジャレッドとその薫陶を受けた一部だけで、それ故に買い付ける事もできず入手法は自然に生えているものの自力採取に限られる。ジャレッドはゆくゆくは大規模栽培による薬草の安定供給を行えればと目論んでいるが、薬草治療そのものの研究と普及も始まったばかりである。まだまだ机上の空論だった。
バクルクの荷物を確認整理するため、もういい時間だった事もあり、ひとまずこの日の診療は他の医者に任せ、二人と一匹(と一柱)は引き上げる事となった。何も現場の医者はジャレッドだけではないのだ。ジャレッドが最も頼りにされているのは確かだが。
医者用に割り当てられた小さな天幕に入り、荷解きをする。小さな包みの中身は値千金だった。各種霊薬、戦時疎開中のピグーから送られてきた新しい液針器、質の良い医療用奇石酒。ジャレッドが実験のために必要としている数種の薬草類(バクルクの涎つき)もあった。
ジャレッドはサララと手分けして薬草をすり潰したり水や油で成分を抽出したりして、天幕の隅の籠に入れられた鼠に投与して経過観察をした。ジャレッドが『毒も分量を調整すれば薬になる』と主張するため、毒草も与えられている。
サララはそんな馬鹿なと内心懐疑的だったが、事実、衰弱した鼠が極少量の毒で目に見えて回復する事もあった。大多数は死んだが。山ほどの失敗が貴重な成功を生んだのだ。
ジャレッドのとにかくなんでも試してやってみる、というやり方は、直弟子たるサララにも受け継がれている。一緒の机に道具を並べ、薬草の下処理に手を動かしながら、サララはジャレッドに自分の研究成果を報告した。
「ジャレッド。戦争症候群の感染経路が分かったかも知れない」
「なんだって?」
サララは想像通りの驚き方に気をよくした。ここ数日、地道な調査によって見え始めた新事実を報告したくてうずうずしていたが、しっかりと情報がまとまるまで待っていたのだ。
「医療天幕って六つあるだろ。調べてみたんだけど、同じ天幕だと同じ症状が出やすいみたいなんだ」
「ああ、それで最近あちこちの医療天幕に通ってたのか」
「そう。七日前に、高熱と腹痛が流行ってる天幕に咳の患者が入ってきたら、二日経ってからその天幕で咳の患者が増え始めたんだ」
ジャレッドは奇妙な報告に訝しんだ。
「咳の症状が感染した、って事か? 魔力は接触させていなかったんだろう」
感染性の病は魔力や魔法を介して感染する、というのが医学的常識である。感染者が健常者に魔法をかけたり、影骨で触れたりする事で病は伝染する。もちろん、医療天幕内でそのような行為は禁止されている。
「私は……空気から感染したんじゃないかと思う」
サララは恐る恐る突拍子もない意見を述べた。
馬鹿馬鹿しい仮説だが、そうとしか思えなかった。
空気を介して病が感染するというのなら、世界は空気で満ちているのだから、世界中の生物が皆同じ病に罹っていなければおかしい。
が、サララは一か月間天幕を調査し、戦争症候群患者について、症状・年齢・性別・病歴・身長・体重・月瞳・得意な魔法・既婚か否か・髪の長さなど、思いつく限りの項目を数字としてまとめてきた。
それによると、どうやら魔力的接触がなくとも、咳の症状は感染するらしいのだ。
そしてその感染力は空気の接触量に比例する。
密集した閉鎖空間であれば瞬く間に伝染していき、距離が近くても仕切りに隔てられていればあまり伝染しない。
原理は不明だったが、感染経路は空気の流れで説明できる。
「でも腹痛は空気感染しないみたいなんだ。こっちはたぶん、食べ物経由で感染してる。食材と食器と料理人を別々にしたら、同じ料理食べても感染しなかった。同じ食材を使ったり、同じ皿を使いまわしたりすると感染する危険がある」
「じゃあ何か? 戦争症候群は、一つの病が複数の症状を示しているわけではなく、高熱を出す病やら咳を出す病やらが別々に存在するって事か」
「たぶん」
「…………」
ジャレッドは手を止めて考え込んだ。サララは顔を伺ったが、真剣に悩んでいるようだった。一考に値するとみなしたらしい。
「その仮説は確かに腑に落ちるところが多い」
ややあって、ジャレッドは慎重に言った。
「戦争症候群は魔力的接触を完全に絶っても感染するからおかしいと思っていたんだ。魔力や魔法以外の経路で感染していると考えれば説明がつく。魔力と関係が無い手段で、つまり薬草で症状を改善させられるのだから、魔力と関係無い原因が戦争症候群を引き起こしていると考えるのは妥当だ。サララ、よくやった。頑張って調べたんだな」
「へへっ……いや、ジャレッドがたくさん教えてくれたから」
「謙遜するな。サララは俺より早く戦争症候群の根本治療の手がかりを見つけた。もうサララはただの助手じゃない、一人前の立派な医者だ」
「……!」
ジャレッドに力強く認められ、サララは体が震えた。今までの全てが報われた気がした。
サララは特別な信念があって医者を目指したわけではなかった。命を助けてもらったから、お礼をしようと思い、ジャレッドが助手になってくれと言ったから、やった。最初はそれだけだった。
しかしジャレッドの助手として働く内に色々な事を学び、いつの間にか医者という職が好きになっていた。助かりそうもない患者を助けられる事も、助かりそうな患者を助けられない事もある。多くの罵倒と、感謝がある。
全てをひっくるめて、サララは医者でありたいと思い、医者で良かったと思えた。例え医術を学び始めてたった一年だとしても、だ。
誇りと年月は必ずしも一致しない。十年以上守護神となるべく教育されてきても守護神になりたいと一度も思わなかった事がその証左だ。
「しかしまあ、まだまだサララは未熟だ。医の道は一人前になってからが果てしなく長い。引き続き精進するように」
「はい、先生!」
「うむ、素直でよろしい」
「死の道も死んでからが果てしなく長いですよ。ジャレッドも早く一人前になるように」
「おっと、最近静かだからもう消えたと思ってたぞ。さっさと死ねって事か?」
和気藹々としていると、不意に天幕の入り口に人影が現れ、言った。
「ジャレッドに認められるとは。偉くなったものだな、サララ」
入口に現れたその女性の姿を見て、サララは心臓が飛び出るかと思うほど驚いた。
「婆や!」




