冬麦の帳簿・王宮の廊下
王宮へ場所を移しても、「冬麦の帳簿」をめぐる視線は消えなかった。王宮では、声を潜めた会話ほどよく響いた。レティシアが通ると話は止まり、去った後にだけ「婚約者」という言葉が残った。
異母妹ノエラは二つ年下で、社交界では病弱でおとなしい令嬢と思われている。姉のそばではよく笑うが、大勢の前では目立つ場所へ決して立たない。
宮廷では事実より順番が重かった。誰が最初に王妃へ語り、誰が最後に否定したかで、同じ出来事の意味が変わってしまう。
レティシアは妹へ調査の中身を話さない。知らなければ疑われずに済むと考えたからだが、ノエラの目には時折、説明より先に結論を知る者の静けさがあった。
オスカーは紙質、封蝋、配達時刻を一覧へ加えた。同じ紋章が押されていても、蝋の産地や書記の癖までは同じにならない。
レティシアは鏡の前で口元だけを整えた。笑えば余裕、笑わなければ怒りと書かれる。それでも明日の席へ出ないという選択はなかった。
姉妹のあいだには、幼いころからの合図があった。言葉にすれば他人にも奪われるため、指先やカップの向きだけで、今は話さないという意思を確かめる。
王都の新聞はまだ王家の名を出さず、「ある高位令嬢」とだけ書いた。名を伏せても誰を指すかは明らかで、曖昧さだけが責任を負わずに残った。
反論の機会は与えられているように見えた。ただし期限は短く、必要な資料は王宮が預かり、証人は面会を禁じられている。形式の公平と実際の公平は別だった。
オスカーは確認できた時刻を欄外へ書いた。記憶は後から整えられるが、鐘の音と受領印は別々の場所に残る。二つが重なるまで事実とは呼ばない。
(本文実測:679字)




