冬麦の帳簿・昼の応接
翌日、「冬麦の帳簿」に関わる書類が応接室へ集められた。昼の応接で、家令オスカーが封書と帳面を運ぶ。レティシアは封を開く前に、誰がいつその紙へ触れられたかを確かめた。
公爵家の長女であるレティシアは、二歳で母を亡くした。母の顔を覚えてはいないが、礼儀作法と婚約の取り決めだけは、十六年たっても娘の肩へ残っている。
王妃はどちらの令嬢にも露骨な肩入れを見せない。その公平さゆえに、周囲は王太子府の動きを王家全体の意思だと誤読した。
姉妹だけの時、ノエラはレティシアを「お姉さま」と呼び、宮廷で使う完璧な礼を忘れた。レティシアはその声を守るためなら、自分の評判など軽いと思ってしまう。
レティシアは自分に有利な証言も、その場で採用しなかった。確かめられない味方の言葉へ寄りかかれば、後で崩れた時に真実まで巻き込まれる。
噂は夜のうちにも増えていく。レティシアが守ろうとした事実より、彼女が冷たく見えた一瞬のほうが、多くの口に覚えられていた。
レティシアは人の心を断定しなかった。利害で動く者にも恐れがあり、善意を語る者にも守りたい立場がある。単純な敵を作れば、見落とすものが増えるだけだった。
オスカーは確認できた時刻を欄外へ書いた。記憶は後から整えられるが、鐘の音と受領印は別々の場所に残る。二つが重なるまで事実とは呼ばない。
姉妹のあいだには、幼いころからの合図があった。言葉にすれば他人にも奪われるため、指先やカップの向きだけで、今は話さないという意思を確かめる。
王都の新聞はまだ王家の名を出さず、「ある高位令嬢」とだけ書いた。名を伏せても誰を指すかは明らかで、曖昧さだけが責任を負わずに残った。
(本文実測:690字)




