冬麦の帳簿
公爵家が続けてきた救貧事業の帳簿に不自然な空白が見つかる。レティシアは欠けた頁を探すが、王宮では冷酷な取り立ての噂が先に広がる。 朝、レティシアは侍女長マルタから予定と来客名を聞く。衣装の色一つにも政治的な意味がつき、選ばないことさえ意思表示として数えられた。
噂には最初の語り手がいなかった。侍女は商人から、商人は役人から、役人は晩餐で聞いたと言い、辿るほど輪が閉じて元へ戻った。
セシルを善良な被害者、レティシアを冷酷な加害者とする話は分かりやすかった。分かりやすさは証拠より早く広まり、訂正より長く残る。
レティシアが妹を領地へ返そうとするたび、ノエラは体調や天候を理由に先延ばしにした。拒絶は柔らかいのに、一度も結論を譲らない。
オスカーは紙質、封蝋、配達時刻を一覧へ加えた。同じ紋章が押されていても、蝋の産地や書記の癖までは同じにならない。
廊下の向こうでノエラの扉が閉じた。朝になれば妹は何も知らない顔で現れ、姉もまた何も気づかないふりをするのだろう。
反論の機会は与えられているように見えた。ただし期限は短く、必要な資料は王宮が預かり、証人は面会を禁じられている。形式の公平と実際の公平は別だった。
レティシアは人の心を断定しなかった。利害で動く者にも恐れがあり、善意を語る者にも守りたい立場がある。単純な敵を作れば、見落とすものが増えるだけだった。
オスカーは確認できた時刻を欄外へ書いた。記憶は後から整えられるが、鐘の音と受領印は別々の場所に残る。二つが重なるまで事実とは呼ばない。
姉妹のあいだには、幼いころからの合図があった。言葉にすれば他人にも奪われるため、指先やカップの向きだけで、今は話さないという意思を確かめる。
(本文実測:712字)




