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第一話 中編「覚醒」

黒狼は唸り声を上げながら、ゆっくりと距離を詰める。


その瞳には獲物を見定める冷たい光が宿っていた。


塔の中には、獣の吐息だけが響く。


「……」


フルセイスは剣を構えたまま動かない。


動けない、ではない。


動かない。


(魔獣は人間や悪魔と違う。)


(感情で動かない。)


(本能だけで狩る。)


脳裏に、数百年前に読んだ一冊の本が蘇る。


――『魔獣戦術概論』。


“黒狼種は最初の一撃で相手の力量を測る。”


“不用意に踏み込めば終わる。”


「なら……」


フルセイスは左足を半歩だけ引いた。


ほんの数センチ。


その動きだけで、黒狼の耳がぴくりと動く。


次の瞬間。


轟音とともに黒い影が飛んだ。


速い。


目で追える速度ではない。


だが。


(来る。)


フルセイスは剣を振らない。


身体を捻るだけ。


黒い牙が頬を掠める。


一筋の血が流れた。


「……見えた。」


黒狼が着地する。


振り返る。


また飛ぶ。


今度は右。


その瞬間、フルセイスは崩れた柱へ視線を向けた。


(狙い通り。)


黒狼の巨体が柱へ触れる。


ヒビが走る。


「落ちろ。」


フルセイスは足元の石を蹴った。


石が柱の根元へ当たる。


ほんの小さな衝撃。


だが、限界だった柱は悲鳴を上げるように崩れ落ちた。


轟音。


巨大な石柱が黒狼を押し潰す。


土煙が舞う。


「や、やった……!」


床に倒れていた悪魔が叫ぶ。


しかし。


「いや。」


フルセイスは剣を下ろさない。


「まだだ。」


その言葉と同時に。


ドォォン!!


瓦礫が吹き飛んだ。


黒狼は立っていた。


額から血を流しながら。


その瞳には、先ほどまでなかった怒りが宿っている。


「やはり……。」


フルセイスは静かに息を吐く。


(伯爵級の使い魔。)


(あれくらいでは倒れない。)


その時だった。


再び頭の中に、あの声が響く。


『戦闘解析開始。』


『適合率……九八・七%。』


「……まただ。」


『権能解放まで残り一撃。』


「誰なんだ!」


返事はない。


代わりに。


黒い剣へ、赤黒い紋様が浮かび上がる。


それは血管のように脈打ち始めた。


ドクン。


ドクン。


まるで心臓だった。


黒狼が咆哮を上げる。


空気が震える。


そして一直線に突進した。


フルセイスは動かない。


(怖い。)


初めてそう思った。


何千年も笑われ続けても感じなかった恐怖。


今ここで死ぬ。


その実感だけが全身を支配する。


「……それでも。」


彼は剣を握る力を強めた。


「俺は騎士だ。」


その一言とともに。


黒狼が目の前まで迫る。


牙が振り下ろされる。


その瞬間。


黒い剣が、自ら輝いた。


世界から音が消える。


時間が止まったような静寂。


そして。


頭の中へ、一つの言葉だけが流れ込んできた。


《アビス・レガリア》


黒い光が剣を包む。


フルセイスの瞳が金色へ変わる。


「……これが。」


その瞬間だけだった。


彼には見えた。


黒狼の全身を流れる魔力。


筋肉の動き。


骨格。


次に動く場所。


すべて。


「終わりだ。」


フルセイスは一歩踏み込む。


黒狼の爪を紙一重でかわす。


喉元。


ただ一点。


黒い剣が吸い込まれるように突き刺さる。


沈黙。


次の瞬間。


黒狼は崩れ落ちた。


そして、その胸から黒い光が浮かび上がる。


ゆっくりと。


まるで意思を持つように。


その光はフルセイスの胸へ吸い込まれていく。


『初回継承、開始。』


『権能取得。』


《魔狼の嗅覚》


《身体能力上昇》


《アビス・レガリア 第一冠解放》


フルセイスの背後に、一瞬だけ黒い王冠の輪が現れた。


誰にも見えない。


だが地獄のどこかで、一人の男だけは笑っていた。


黄金の玉座に座る、一人の悪魔。


「始まったか。」


男は静かに目を閉じる。


「……面白い。」


その名を知る者は、地獄にほとんど存在しない。


ルシファー。


かつて王だった男は、最弱の騎士が動き出したことを誰よりも早く知っていた――。


第一話・中編 終

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