【第2話:毒のあるハーブと、温かな手のひら】
公爵家での生活が始まって数ヶ月。10歳のタルトに与えられた最初の任務は、勉強嫌いの令嬢サシャの「学習相手」という名の、当て馬役だった。
「いい、タルト。あなたが私より先に正解しちゃダメ。でも、私が間違えた時に、あなたが分かってないと私の面影が立たないじゃない?」
2階にあるサシャの私室で、12歳のサシャはふんぞり返ってハーブの蒸留瓶をいじっていた。公爵家が用意した教育係のソウが、背後で微動だにせず見守っている。
「はい、サシャ様。……でも、このハーブの葉は、先ほどソウ先生が『混ぜてはいけない』と仰った種類では……」
タルトが控えめに指摘した瞬間、サシャはわざとらしく鼻で笑った。
「あら、そんなこと分かっているわ。タルトは本当に、没落した家門の娘らしく、細かいことばかり気にするのね。これだからハーブの『真髄』を理解できない子は困るわ。ほら、見てなさい!」
サシャが無理やりハーブを調合すると、瓶からは嫌な臭いの煙が立ち上がった。サシャは失敗を認める代わりに、タルトを指差して笑い転げる。
「見て! タルトの顔、煙で真っ黒! まるで街の煙突掃除夫みたい。ふふっ、やっぱりあなたには、高貴な香りの調合なんて一生無理なんじゃない?」
それはサシャにとっての「遊び」だった。けれど、故郷を失い、必死でここで生きる術を探しているタルトにとって、その言葉は深く胸を刺した。
タルトは耐えきれず、煙にむせながら図書室へ駆け出した。そこには、いつも難しい顔をして書物を読んでいるアロウがいるはずだった。
「アロ兄……っ、アロ兄!」
図書室の扉を勢いよく開けると、アロウが不快そうに顔を上げた。
「アロ兄、サシャ様がいじめるの。私、一生懸命やっているのに、サシャ様が……」
タルトは縋り付くようにアロウの服の袖を掴んだ。10歳の彼女にとって、アロウは自分をこの家に連れてきてくれた唯一の「救い」であり、この広い屋敷で唯一「兄」と呼べる存在だった。
しかし、アロウの瞳は冷徹だった。彼は、自分の袖を掴むタルトの小さな手を、汚いものを見るかのようにゆっくりと振り払った。
「……慣れ慣れしく触るなと言ったはずだ。サシャが遊んでやっているのなら、それに合わせるのがお前の役目だろう。お前はここに、甘えるために来たのか?」
アロウの声には、裏切られた者特有の、他人を寄せ付けないトゲがあった。
タルトが懐こうとすればするほど、彼は鋭い拒絶でタルトを突き放す。タルトは弾かれたように後退りし、涙が溢れるのを堪えて図書室を飛び出した。
薄暗い廊下の影。
泣きながら走るタルトの前に、影が落ちる。
「タルト様…」
そこには、一部始終を見ていたソウが立っていた。
彼は主君であるアロウの冷酷さを誰よりも知っている。そして、タルトに向けられるサシャの無意識な刃も。
ソウは膝をつき、タルトと同じ目線になった。彼は懐から清潔なハンカチを取り出すと、煙で汚れたタルトの頬を、壊れ物を扱うように優しく拭った。
「淑女は、人前で容易く泣いてはいけません。……それが、自分を守るための唯一の鎧になるのですから」
「……でも、ソウ先生。アロ兄は、私のことが嫌いなの?」
タルトの震える問いに、ソウは一瞬だけ言葉を詰まらせた。彼は知っている。アロウが嫌っているのはタルトではなく、タルトを信じてしまいそうになる「自分自身」であることを。
「……閣下は、今はお心の風邪を召していらっしゃるだけです。タルト様、あなたが折れてはいけません。サシャ様の遊び相手を務め上げた後は、私とハーブの復習をしましょう。
あなたがサシャ様よりも深く、ハーブの香りを理解できるよう、私がすべてお教えします」
ソウの大きな手が、タルトの頭をそっと撫でた。
アロウが拒絶したその温度を、ソウが埋める。
この時から、ソウにとってタルトを教え、守ることは、単なる「公爵家の任務」から、彼自身の魂をかけた「信仰と献身」へと変わり始めて行くことになるのです。
そして、アロウは自分の部屋の窓から、庭でソウと語らうタルトを、壊れやすいガラス細工を鑑定するような、昏い目で見下ろしていた。




