【第1話:泥の中の真珠】
時は8年前。アロウ18歳、ソウ18歳、タルト10歳。
一人の誇り高い令嬢が、家門の罪を背負わされ、冷たい雨の降る公爵家の門を叩いたあの日。そこには、裏切りによって心を凍らせたアロウが待っていました。
その年の冬は、例年になく厳しかった。
グランツ公爵邸の重厚な鉄門の前に、一台の粗末な馬車が止まった。
かつては優雅な家紋が刻まれていたであろうその側面は、泥に汚れ、見る影もない。
中から降り立ったのは、痩せ細った一人の少女だった。
「……ここが、私の新しい家なの?」
タルトは、震える肩を抱きしめた。つい数日前まで、自分は温かな暖炉の前で父の読み聞かせを聞いていたはずだった。
だが、父の「謀反」という言葉と共にすべては消えた。家は焼かれ、家族は散り散りになり、10歳の彼女に残されたのは「公爵家への償いのための人質」という、その意味さえ測りかねる重い鎖だけだった。
「タルト様、こちらへ」
案内したのは、若き騎士、ソウ・アーヴィスだった。
当時のソウは、まだ騎士になったばかりで、主君であるアロウの側に常に控えていた。
彼は、泥に濡れた靴で必死に背筋を伸ばす少女を一目見て、その瞳に宿る「何も知らされていない無垢」に、胸が潰れるような痛みを感じた。
(この子は、自分が『人質』としてではなく、絶望した嫡男の『慰みもの』として連れてこられたことを知らないのだ……)
ソウは何も言わず、ただ重い扉を開けた。
屋敷の奥、光の届かない書斎。
そこには、一人の青年がいた。アロウ・グランツ。
18歳になったばかりの彼は、当時の恋人に裏切られ、人間という種族そのものに嫌悪を抱いていた。
「……それが、父上が言っていた『新しい玩具』か」
アロウは椅子に深く腰掛けたまま、タルトを冷たく見下ろした。その瞳には、かつてあったはずの輝きはなく、ただ深い闇だけが澱んでいる。
タルトは、その氷のような視線に身をすくませた。だが、彼女が今まで見てきた大人は、自分を罵るか、憐れむか、あるいは利用しようとする者ばかりだった。
目の前の美しい青年は、ただ、ひどく悲しそうに見えた。
「……アロ、兄……?」
タルトが震える声でそう呼んだ瞬間、アロウの眉が微かに動いた。
サシャ以外の誰からも「兄」などと呼ばれる筋合いはない。
だが、タルトが差し出した小さな、泥だらけの手。自分を裏切らないであろう、まだ何も知らない子供の、真っ直ぐな視線。
アロウの凍りついた心に、一筋の歪な亀裂が入った。
「ソウ。その汚れた服を脱がせ、サシャの遊び相手にふさわしい格好をさせろ。……今日からこの娘は、この屋敷の『何でも屋』だ」
アロウはそれだけ言うと、再び闇の中へと視線を戻した。
ソウは静かに頭を下げ、タルトの背中にそっと手を添えた。その時、ソウは心に誓った。
この少女がいつか、この屋敷の「毒」に染まってしまうその日まで、自分だけは彼女の味方でいよう、と。
これが、三人の狂い始めた運命の、たった一歩目だった。




