第1章 渋谷スクランブル~群衆の中にオレの影はない?
信号が変わるたび、何百人という人間が一斉に歩き出し、また一斉に途切れる。
その波の中に、オレはひとり紛れ込んだ。
しがない年寄りだ。こんな落ちぶれ田舎男に明日はあるのかい?運命の神様?
第1章 渋谷スクランブル~群衆の中にオレの影はない?
渋谷駅のハチ公口を出た瞬間、オレは立ち止まった。
巨大なビジョンが、見たこともない笑顔で何かを売りつけてくる。
信号が変わるたび、何百人という人間が一斉に歩き出し、また一斉に途切れる。
その波の中に、オレはひとり紛れ込んだ。
しがない年寄りだ。
畳屋職人の倅として生まれ、貧乏と病弱と非行の中で育った。
ドルショックのあおりで商船学校を中退し、中卒のまま社会に放り出された。
それから仕事を二十以上変え、青春十八切符で日本中をほっつき歩き、
四十を過ぎてから大学に入り直したはいいが、全科目取り消しの落第学年制に腹を立てて
本人訴訟までやらかし、十年居座った末に医大を放校された。
奨学金は滞納し、サラ金暮らしも経験した。
そんなオンボロ人生の男が、いま渋谷のド真ん中に突っ立っている。
「なあ、オレは一体、何のために生きてきたんだろうな」
誰にともなく、胸の中でつぶやく。
答える者はいない。
ただ、雑踏のざわめきだけが、耳の奥でこだました。
風が吹いた。
真夏だというのに、その風はやけに冷たく感じられた。
すれ違う人々の顔が、なぜか灰色に濁って見える。
誰も彼も、スマホの画面か、遠くのビルの看板ばかりを見ていて、
誰ひとり、オレのことなど見ていない。
いや、オレ自身も、誰のことも見ていなかったのかもしれない。
「おっちゃん、幸せって、どこかで売ってると思う?」
不意に、耳元で甲高い声がした。
例によって、オレの内なる弘太。ラッキーボーイだ。
地学と生物が得意で、旧帝大を目指しながらバイトと通信浪人を続けている、妹の忘れ形見。
実相にいるのか、仮想にいるのか、いまだによくわからない。
「バカ言え。幸せなんぞ、コンビニで売ってりゃ苦労はせん」
オレは苦笑して、雑踏の中を歩き出した。
109の前を過ぎ、センター街の喧騒に飲み込まれる。
ネオンと看板と若者の笑い声が、幾重にも重なって、頭の芯がジンと痺れてくる。
「都市というのは、欲望が可視化された磁場だよ」
低く落ち着いた声が、隣から聞こえた。
知の番人の吉開だ。元は機械部品会社の技術部長で、いまは経営コンサルタントを開業している旧友。
東北訛りの抜けない、飄々とした男である。
「人はここで、他人と自分を比べる。比べては、足りないものばかりに目が行く。
それが渋谷という街の、気の正体かもしれんな」
「足りない、足りないと思うから、余計に足りなくなるんだべ」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
オレの人生そのものが、ずっと「足りない」の連続だった気がしたからだ。
学歴が足りない、金が足りない、運が足りない、時間が足りない
「オレ、その考え方こそが、気を乱してるのよ」
京都訛りの、涼やかな声が割り込んできた。
サクラ。育児と介護と情報産業のパートを掛け持ちしながら、
巫女のような神秘とモダンな美学を併せ持つ女だ。
「あんたの内側が曇ってるから、この街の人混みも、灰色に見えてしまうんやわ。
渋谷が悪いんやない。あんたの気が、乱れとるだけ」
図星だった。
オレは何も言い返せず、ただ雑踏の音に耳を澄ませた。
スクランブル交差点の真ん中に立つと、四方八方から人が押し寄せ、
そしてすれ違いざま、また四方八方へと散っていく。
誰も立ち止まらない。誰も、オレの影さえ踏まない。
「オレの影は、ここにはないのかもしれんな」
ぽつりと呟いたその言葉が、思いのほか、静かに胸の底に沈んでいった。
「おっちゃん、影がないんじゃなくて、まだ気づいてないだけだと思うよ。
影って、光がないと生まれないんだから」
ラッキーボーイの言葉に、オレはふと空を見上げた。
高層ビルの隙間から、わずかに西日が差し込んでいる。
そうか。
光さえあれば、影はどこにだって生まれる。
ならば、オレの中の光は、今どこに灯っているのだろうか。
答えはまだ、見つからない。
だが、この街の喧騒の奥に、何かが隠れている気がした。
オレは雑踏に背を向け、次なる場所へと足を向けた。
青い鳥はまだ、どこにも見つかっていない。
だが、探す旅は、ここから始まったばかりだ。
光さえあれば、影はどこにだって生まれる。
ならば、オレの中の光は、今どこに灯っているのだろうか。




