05
「…………ぐぅっ!」
骨と骨がぶつかる鈍い音と、兄のくぐもったうめき声が部屋に響く。
少しよろけるが、私を落とさなかったところは流石の兄である。
私は兄を構うことなく、扉の方へ視線を走らせた。
「フルーツサンドは?!私のフルーツサンドは無事?!」
扉近くのワゴンを、何事もなかったかのように支えているメイドと目が合う。
誇らしげにスっと親指を立てて頷いてくれる我が家のメイドはやっぱり優秀だ。
「ありがとう!兄さん離して!私のフルーツサンド!フルーツサンドが私を呼んでるの!」
「っ!分かりましたから!危ないから暴れないでください!フルーツサンドは誰も取りません!ちゃんとレイラのものですから!」
兄の腕の中から出ようともがいていた手足をピタリと止め、改めて兄を見上げる。
兄の額には私が思い切りおでこを打ち付けた痕が赤く残されていた。
自分でやっておいてなんだが、痛そう。
綺麗な顔に似合わないその赤い打撲痕がなんだかとってもシュールだ。
窓際のテーブルまで私を抱えながら歩く兄の腕が、先程より力強い。
そんなに離すのが嫌なのだろうか。
「やれやれ。貴女のお転婆にも困ったものですね。それも魅力の一つではありますが。」
言葉とは裏腹に、兄はとても優しく微笑んでくれる。その表情は幼い頃から変わることなく私を見守ってくれる、私が一番安心できるものだった。
兄の笑顔に魅入っていると、椅子に座る兄の膝の上に、正面から向かい合うように座らされた。近い。
ちょっと油断するとすぐこれである。
「さあレイラ。その素敵なドレスが汚れてはいけません。私が食べさせてあげますよ。」
ドレスの裾が捲り上がって、露わになってしまっている膝を触る兄の手を叩き落とす。本当にこの兄はすぐに触る。
「結構です。」
「おや、遠慮しなくていいのですよ。今日のフルーツサンドはフルーツもクリームもたっぷりです。貴女にこぼさずに食べ切る自信があるのですか?」
「失礼な。これでも淑女の端くれ。挑戦することに意義がある。」
「レイラ?」
「はい。すみません。ないです。」
この攻防の間に、フルーツサンドは先程のメイドによってテーブルに朝の紅茶と一緒にセットされていた。
……くっ!我が家のメイドが優秀過ぎて退路がない!しかもいつの間にか退室してるし!
「その可愛いお口を開けてください。貴女が望んだフルーツサンドですよ。」
兄が一口大の大きさにカットされたフルーツサンドを摘み、私の口元へ近づけてくる。
みかんと、これはマンゴーだ!クリームの匂いに混じってマンゴーの香りもする!二種類あるだなんて!
「兄さん!謀ったでしょ!既に丁度良い大きさに切られてるじゃない!これならこぼすことなんてないのに!」
「謀ったなんて人聞きの悪い。事前準備と言ってください。可愛い妹の手を汚すような失態など、私がするはずないでしょう。」
更に口元に近づいてくるマンゴーの甘い香りに、私はもう限界寸前だった。
淑女が手ずから食べさせられるなど………あっては……いけないのに………うぅ…いい匂いが……
あーもう無理!ごめんなさいお母様!レイラはこの誘惑には勝てません!いただきまーす!
パクっ
「美味しいー!」
「ふふっ。それは良かったです。次はみかんにしましょうか。はい、レイラ。あーん……」
「あーん!んー!甘酸っぱい!ねぇ兄さん!このフルーツサンド、いつもより美味しい気がするんだけど、もしかして兄さんの手作り?」
「良く分かりましたね。貴女が早くに寝てしまったので、昨夜のうちに私がパンを焼いてクリームを泡立てて仕込んでおき、先程仕上げました。お口に合ったのなら嬉しいですね。」
「すっごい美味しい!パンはふわふわだし、クリームは甘さ控えめでフルーツに合う!噛んだ瞬間に果汁が口の中に広がって最高!もう一個!もう一個食べたい!」
「おやおや可愛らしい。まるで雛鳥のようですね。ではまたマンゴーにしましょうか。はい、あーん。」
「あーん!んー!マンゴーも甘い!」
極上のフルーツサンドに幸せを感じていると、扉のノックとお父様の声が聞こえた。
口いっぱいに頬張っているせいで返答できない私の代わりに、兄が短く答える。
「お義父様。レイラはここにいますよ。」
「失礼するよ。レイラに用があるわけじゃないんだ。セレスティンを探して――」
部屋に入って来たお父様が私達とフルーツサンドを見て、一瞬固まった後すぐに満面の笑みを浮かべた。
たとえ淑女らしくない場面を見られようと、私は口を動かすことだけはやめない。そして兄もフルーツサンドを運ぶ手は止めなかった。
「二人は本当に仲がいいね。レイラはしっかりした子で、私達親には中々甘えてはくれない。セレスティン、君だけだよ。そんなにもレイラが甘えるのは。」
お父様の視線がどこか羨ましそうなのは、何故だろう。
言えない。フルーツサンドに釣られたなんて言えない。お父様の笑顔に申し訳ない。
「ふふふっ。それは光栄ですね。大事な妹にそこまで信頼してもらえているのなら、兄としてこれ以上のことはありません。それで、お義父様はどうされました?私を探していたのでしょう?」
さすが兄さん。素晴らしい話題逸らし。
「ああ、そうだった。昨日の話のことで。本当にやるのかい?私としては、そんなに大事にしたくないのだけれど……」
「それではあの身の程知らずがつけあがるだけです。子爵家としても搾取される道理はありません。ましてやレイラに行った仕打ち。到底看過できるものではない。慰謝料や賠償金というちんけな金銭など必要ありません。レイラと我が家に目をつけたことがあの男の運の尽きなだけなのです。」
堪えてお父様。胃が痛そうだけど、涙目だけどここは堪えて。じゃないとお母様が喜んじゃう。
「そうか………私が不甲斐ないばかりに。子供達にまで迷惑をかけて、すまないね。」
胃の辺りを擦りながら、お父様は自嘲するように悲しく笑う。そんな顔しないで欲しい。
フルーツサンドを全て食べ終えた私は、まだ兄の膝の上で口元をハンカチで優しく拭かれながらお父様を見つめた。
「………んん……。お父様。そんなに悲しそうにしないで。お父様の優しさや争いごとを避けるその気質は、絶対に不甲斐ないことなんかじゃないよ。本当に不甲斐なかったら、お母様だって色んな求婚を蹴ってまでお父様を選んでないでしょ?」
「そうですよ、お義父様。貴方が私を家族に迎えてくださらなければ、今頃私は路頭に迷っていたでしょう。レイラとも離され、孤独に生きていたかもしれません。私はお義父様に救われた一人なんですから。」
「二人とも……。ありがとう。そうだね。私も当主として、父親として、もっと頑張るよ。」
お父様がそっと自分の目元を指で拭う。顔を上げたお父様は、どこか晴れやかだった。
「さて、レイラ。朝食も終わったことですし、そろそろ出かける準備をしましょう。そろそろ色々と動く頃です。」
動くとは何のことだろうか。首を傾げて兄を見るが微笑むだけで教えてはくれなさそう。
お父様も私と同じく首を傾げていた。
「細かいことはいいのです。私が一緒にいるのですから、何も心配いりません。」
兄に促されるように背中を優しく押されて、膝から降りる。しわになったドレスの裾を綺麗に伸ばされ、スカートに落ちていたパンくずを細やかな手つきで払われた。
しまった。パンくずなんて淑女としては有るまじき失態。
でもまぁ、いいや。雛鳥なんてやってたらパンくずも落ちるよね。兄さんだし。
「はーい。兄さん。今度はロールケーキが私を待ってるんだね。」
「それは午後のお茶の時間まで待ってください。」
「………はーい。」
有無を言わさない笑顔と共にお預け宣言されて、私は肩を落とした。必ず会いに行くから、待っててねロールケーキ。
ロールケーキに思いを馳せていると、お父様が訝しげに立ち上がった兄の姿を上から下まで見回す。
「ところでずっと聞きたかったのだが、何故セレスティンは執事姿なんだい?」
そうだよね。普通に考えたら子爵家の跡取りの格好じゃないよね。
「趣味です。」
「趣味だよ。」
ハモった。兄妹揃っての返答に、お父様の肩がガックリ落ちる。
諦めてお父様。兄さんの奇行……じゃなくて、突拍子もない行動は今に始まったことじゃないでしょ。
「……そうか。そのままで出かけないようにね。」
「ええ。もちろんです。レイラ、私は着替えてきますので、こちらで待っていてください。お義父様も、ご心配なく。家にも家族にも決して悪いようにはなりませんから。何かあれば屋敷から出ないようにしてください。ここが一番安全ですので。」
私は普通に頷くが、お父様は頭が飛んでしまうのではないかというくらい激しく頷いていた。
そして兄が二回軽く手を叩くと、いつの間にいたのか、お父様の後ろからメイドがにゅっと顔を出す。
お父様、ビクッてしてるし。気づいていなかったんだね。
「あとは任せましたよ。」
「かしこまりました。使用人一同、心得ております。」
きっちりお辞儀をすると、メイドはテーブルの上を片付けてワゴンと共に部屋から出て行った。
「ではまた後で。お義父様。失礼します。」
兄も優雅に頭を下げると、執事服のジャケットを翻して颯爽と部屋を出て行く。
お父様と二人残されて、私はハッと思い出したように急いでベッド脇の引き出しの中から昨日刺繍したハンカチを取り出す。
危ない、危ない。忘れていた。
兄がいる空間では自分の分もとねだってくるので、お父様と二人きりでないと渡せなかったのだ。
兄の分を作ることに抵抗はないのだが、いかんせん今はめんどくさい。
「お父様。これ、プレゼント。お父様に小さい幸せが来ますように。ちゃんと胃薬飲んでね。」
両手で差し出したハンカチをお父様はそっと受け取り、指先で刺繍の感触を確かめるように丁寧になぞった。そして、目元を緩めて本当に嬉しそうに微笑んだ。
「レイラ……ありがとう。これはクローバーと青い鳥か。大切に使わせてもらうよ。」
ハンカチを大切そうに胸元にしまうと、私の頭を優しく撫でてくれる。そんなお父様の柔らかな微笑みが言いづらそうに少し曇った。
「レイラ。その……今回の伯爵家のことは私の力不足ではあるのだが。結婚そのものは……どう思っているんだい?レイラが一緒にいたい人はいるのかな?」
私が一緒にいたい人。
不意に浮かんだイメージを即座に消す。
エプロン姿で美味しそうなビーフシチューが入った鍋を持っているのはダメだろう。結婚したいのとは違う気がする。こんなのお父様には言えない。
ぐるぐる考えてしまって答えられない私に、お父様は苦笑いして肩にぽんと手を置いた。
「無理に答える必要はないんだよ。自分の気持ちに整理がついたら、教えてくれればいい。」
「はい……」
なんだか落ち着かなくてドレスのスカートを握りしめる。
お父様は俯いたままの私の頭を再び撫でてくれた。
その時、外で大きな音がしたので窓から門の方を見てみる。
何やら屈強な騎士が三人ほど、馬に乗って我が家の門の前に立っていた。
その後ろに停まっている馬車も見える。
先程の音は騎士が訪問を知らせるために、門を叩いたのだろう。
「……え……なにあれ。お父様、あの状況は分かる?」




